第20話.幸せだったナターニア
「そんなわけないわ」
スーザンが固まった。
言葉を続ける間もなくナターニアが否定してくるとは、思わなかったのだろう。
しかし舐めないでほしい、とナターニアは思う。
岩の上でふんぞり返るように腕組みをしたナターニアの声は、確信に満ちていた。
「スーザンほど、わたくしのことを想ってくれている人は居ない。あなたがわたくしを殺すわけないじゃない」
「……っ」
スーザンの目に水が盛り上がる。
重さに耐えられず、次から次へとこぼれ落ちる涙に、スーザンは溺れるようにして泣いている。
「ごめんなさい。ごめんなさい、奥様……っ」
スーザンの喉が引きつる。
苦しげな嗚咽を繰り返しながらも、スーザンは言葉を続けた。
「……奥様は小魚を食べるのが苦手だと、おっしゃっていましたよね」
急な話題に、ナターニアは不思議に思いつつ頷く。
「ええ。子どもの頃、吐いてしまったことがあったの……でも頑張って食べたじゃない。魚は妊婦に良いってスーザンが教えてくれたから」
スーザンには助産婦としての経験がある。
子どもを授かったのが分かったとき、ナターニアはすぐにスーザンを頼ることにした。
結婚に契約条件がある以上、表立って産婆を呼ぶこともできなかったからだ。
――そう。
あの夜もそうだった、とナターニアは思い返す。
(夕食に、スーザンが小魚を出してくれて……他にも乳製品や鶏卵も良いって勧めてくれたのよね)
「そのせい、なんです」
「え?」
「覚えてらっしゃいますか。あの日、小魚を食べたとたんに、奥様の呼吸がおかしくなって……」
(そういえば……)
ナターニアは自身の喉元に触れて、思い出す。
苦しくて、辛くて、あまりよく覚えてはないけれど。
夕食を口に含んですぐ、気道が塞がったような感じがした。
苦しくて、うまく呼吸ができなかった。血を吐くほどに咳をしたが苦しいままで。
生まれつき気管支の弱いナターニアだが、想像を絶するほどの苦痛の中、意識が薄れていったのだ。
『アレルギー症状……過敏症って言うんだって』
そんな声がして、ナターニアは目を向ける。
ナターニアとスーザンの間に浮かんだお猫さまが、静かな表情で言う。
お猫さまの声は、子どもの無邪気なそれに似ていて、どこまでも淡々としている。
『小魚だけじゃなくて、いろんな食べ物とかに、身体が過敏な反応をしちゃう人が居るんだって』
「まぁ、お猫さま。また難しい言葉をご存じでいらっしゃいますね」
だが、これで原因が分かった。
(わたくしは、妊娠したから死んだわけじゃなかった)
そのアレルギー症状というのが出て、死に至ったのだ。
スーザンが耐えかねたように唇を噛み締める。噛み千切った口元には血がにじんでいる。
「わ、私は――っ、気がついたときには、もうどうしようもなくて。でも、他の人に……侯爵様に自分の過ちを知られてしまうのが、怖くて……っ」
「だから、旦那さまを外に行かせたのね?」
「……っっ」
スーザンが鼻をすすりながら頷く。
その震えるばかりの肩を、ナターニアは手のひらで撫でた。
やっぱり触れられないのが、なんとも口惜しい。けれどきっと、スーザンには伝わっているはずだ。
「辛かったでしょう、スーザン」
「…………え?」
呆然と顔を上げるスーザンに、ナターニアは優しく微笑みかける。
「幽霊になったわたくしが現れたとき、あなた、どんなに怖かったでしょうね。この幽霊、自分を責めに来たんじゃないかって思ったのでしょう?」
「…………」
「でも大丈夫よ。あなたは悪くないの。誰も、なんにも悪くないわ」
「奥様は、どうしてそんなに優しいんですか?」
ふう、とナターニアは長くゆっくりと息を吐く。
以前にも、スーザンは言った。ナターニアが優しすぎて怖いのだ、と。
だが、それは買いかぶりすぎだとナターニアは思う。
「わたくし、誰にも優しいわけじゃないわ」
それこそ、聖人君子のようにはなれない。
誰かにうんざりしたり、呆れたり、失望したりすることがある。
にこにこと笑っていても、本当は泣きたいくらい辛い瞬間がある。
「スーザン。わたくしの侍女。あなたがわたくしの傍に居ると言ってくれたとき、どんなに嬉しかったか分かるかしら?」
医者は誰もが、ナターニアは助からないと口々に言った。
そんな中、スーザンだけが諦めないと言った。
両親はいつも悲しげな目でナターニアを眺めていたが、スーザンは違った。
彼女はナターニアと一緒に生きることを選んでくれた。苦しみに喘ぐナターニアから目を背けずに居てくれた。
どれほど支えだったろうか。
凍りつくほどに冷たい手を擦り、惜しげもなく温度を分けてくれた人。
「人々の奇異の目に晒されると、知っていながら……エルフの秘薬なんて作れないと知りながら、辺境にもついてきてくれたわね」
お前がエルフの秘薬を持っていれば、と理不尽に責め立てられることもあった。
そんなときもスーザンは言い返さなかった。たくさん傷ついたはずなのに、ナターニアのことを慮ってばかりだった。
「もうこれ以上、自分を責めないで。むしろ胸を張ってちょうだい。わたくし、幸せだったもの」
ナターニアはにっこりと笑う。
強がりではない。虚勢でもない。本心から、そう伝える。
「わたくし、不幸じゃなかったもの。そうでしょう?」
「…………はい」
くしゃくしゃに顔を歪めながらも、スーザンは答えてくれた。
「不幸、っなんかじゃありませんでした。奥様は、不幸じゃない。きれいで、優しくて、誰よりもずっと……っ」
目と目が合う。
わずかに首を傾げて、ナターニアは問うた。
「解毒薬を、旦那さまに飲ませてくれる?」
スーザンがゆっくりと頷く。
長い夜がようやく明けたような、そんな顔をしていた。
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