『裏業』という者

 時を同じくして、桔梗宮邸の奥に存在する奥老院おうろういんにひとつの影があった。裏業である。彼女は手に一振りの刀を握っていた。

 裏業とは、『うら生業なりわい』と書く。それはそのままの意味で、表では処理できなかったことを請け負う仕事のことを指す。それは主に斬首を請け負う仕事であるとされていた。

 裏業の一刀は月の光に照らされて刃が輝いていた。その切っ先には見るも絶えないような赤がべっとりと付いていた。彼女の目の前には、首のない浪人の死体が横たわっていた。

 その死体を斬ったのは紛れもなく裏業だった。裏業は一度刀を上に翳し空気を切るように思い切り振った。地面に先程まで刃付いていた血が落とされた。

 刀の錆にならぬよう、拭き取り紙で残った血を拭う。形だけ綺麗にするとそのまま鞘へと納める。月の光が妙に明るいのが気になり空を見上げた。


「月、か……」


 その明かりに気を取られていると、どこからか拍手が聞こえてきた。ハッとして音の聞こえる方に視線を向けると、橋具がにこやかに縁側に座っていた。その姿を認識するや否や裏業は片膝をその場につけ跪いた。


「いや、流石だ。裏業の首斬りの腕は実に美しい。なにより、血があまり出ないところが魅力的だね」

「……お褒めに預かり光栄に存じます」

「しかし、今日はなんだか少しだけ迷いが見えたようだが……何かあったか?」


 ぴくり、と手に力が入る。迷いなんてあるわけない。あっていいはずがない。


「いえ。何もございません。橋具様のお気をわずらわせるなど……。誠に申し訳ありません」

「私が気になっただけだ、気にするな。そうか。――あと二人、早めに済ませるように」


 ひらひらと手を振り、橋具は自室へと戻って行った。裏業は無意識に手を力強く握りしめていた。やるせない気持ちなのかは分からない。ただ彼女の中で何かが大きく、少しずつ変わり始めている証拠だった。

 首を斬ること。

 それことが彼女の生きる道だった。人の首を斬ることでしか生きられない。その生き方以外、彼女は生き方を知らないのだ。


 ――この手は何人もの命を奪い続けてきた。


 赤く血に染まったこの手。誰も掴みはしないのに、心のどこかであの奴良野水埜辺という男なら……と思ってしまう自分がいた。


 ――これ以上斬りたくないのに、首を斬らなければ私に存在価値はない。


 もう二度と捨てられたくない。捨てられることは裏業にとって『死ぬ』ことよりも怖いことなのだ。

 あの後、裏業は二人の罪人の首を斬った。血に汚れた刀を井戸の汲み水で洗い、ついでに顔を洗う。手がとても汚れていると感じ、手だけは念入りに洗った。桶に映る月がどうしてだか憎く見えてしまう。

 こういう日は決まって眠ることができない。人を斬った感覚が手から、脳から離れない。罪人たちの叫び声が耳から離れないのだ。


 ――それほどのことをしているのだから、仕方がないのかもしれない。


 そう思いながら目を閉じ、とりあえず体だけでも休めようと努力する。

 いつの間にかうとうとして、目を覚ました時にはもう朝だった。

 裏業は布団から出るとまず始めに手を洗いに行く。どうしても人の血の臭いが取れないからだった。気持ちだけでもという日課である。手洗い場に向かう途中、有清の姿が見えた。まだこちらに気付いていないと安心したのも束の間、有清がこちらへと向かってくる。

 自分よりもくらいの高い方だ。裏業はゆっくりと地面に膝をつけた。


「おや。これはこれは裏業殿。こんな場所でいったい何を……ああ。例の首斬りしごとかな?」


 くすくすと、薄ら笑いが耳に触る。ああ、気分の悪い音だ。


「申し訳ありません、桔梗院様。このような汚れた姿で」

「いや、汚れては、……。まあ、僕は何も思ってないから。おもてを上げなよ」

「いえ私は……。では、お言葉に甘えて……」


 有清の言うとおりに裏業は面を上げ立つ。そこに感情は無く、目には何も映してはいなかった。まるで澄んだ真水のようだった。


「うんうん。君はそうしている方がいい。可愛らしくて美しくて残酷で。その姿が実に君らしいと言える。……時に裏業殿」

「はい」

「君から見て、あの獣……奴良野水埜辺をどう見る?」

「どう、とは」


 裏業は少し意外だと思った。あれほど出会い間際に嫌いだと言い放っていたから、名前すらも覚えていないものだと思っていたからだ。


「そのまんまの意味だよ。獣の首が君の美技に見合うかどうか、という話だよ」


『美技』という言葉に、心が締め付けられるような痛みが彼女を蝕んだ。

 それはきっと自分のこの手が、これまでの行いが、自分にとっては美技と呼ぶには相応しくないと思っているからだ。

 この手は汚れているから。

 私は、こうしていないと生きていられないから。


「……私には分かりませぬ」


 有清はその答えに目を見開いた。

 分からないものは分からないと答えては可笑しかっただろうか。


「君って本当に予想外の答えを持ってるよね。まあ、君の答えに最初はなから期待などしていなかったけれど。あの獣がもし、本当に妖怪であるならば。……僕が疫病ともども消してあげよう。君は今まで通り、人間だけ斬っていればいいよ」


 有清はそう、言いたいことだけ言い散らかしていくと、すっきりした表情で奥老院から去っていった。


「人間だけ、斬れば、いい……」


 その言葉だけ、裏業の中で呪いのように頭の中で反響する。

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