第11話
◇ ◇ ◇ 八月 一一日 午前一時 四五分
その港は一ヶ月程前に、謎の巨大魚が出た事で噂の陸揚げ場だ。
地元の漁師達は縁起が悪いと、船は全て別の所に移動されていた。
ここに在るのは、全てを包む海水と潮風だけである。
「ぢぅはぃだぁ」
そんな地元民は誰も近づかない場所に、軽やかな女の歌声が響く。
暗闇の中で蠢く歌姫は、波打ち際で放網する姿勢で月を見上げていた。
「ぢぅはぃだぁ、くとぅるん」
潮と鉄錆の匂いから、潮と沈香の香りへ。
漆黒の海原は、藻を生やした様な青緑色の奇怪な海水へ変わっていく。
「ちゃんるめんしゃん、じしゅうだい」
海原一面が塗り潰され、異界が如き光景が広がり出す。
蒸し暑い夜空はその光景に驚いたのか、星を瞬かせて形行きを見守る。
「ぢぅはぃだぁ……ぢぅはぃだぁ」
突如。歌姫の持つ網が暴れ出し、慌てた様に動く。
落ち着いた事を見計らい、最後の言葉を吐こうとして……。
「……くとぅ「そこまでだぁっ!」っ!?」
歌姫が言い淀んだ事で間に合った声が、最後の唄を堰き止めた。
「はぁはぁ……ったく、次は僕を監禁しかねないぞ。あの病院」
「せん、ぱい?」
「あぁ? 何だよその顔は……」
男は歌姫に近づいていく。
潮風が海上を強く吹き上げ、月にかかった暗雲を吹き飛ばした。
「この相倉家当主。相倉有馬の顔を、忘れたとは言わせないぞ」
現れた青年は小柄細身な体を、チャイナジャケットで覆い隠し。
隈の出た目で歌姫を睨むと、名前を呼ぶ。
「アワナ君」
月光に照らされた歌姫……患者衣を纏ったアワナへ、有馬は歩を進めた。
◇ ◇ ◇ 八月 一一日 午前一時 四七分
僕は二時間も走り、一ヶ月前に訪れた陸揚げ場に辿り着いた。
視線の先には……アワナ君がユナイタマ召喚の儀式に使うロープを握っている。
「こんな所で何をしているんだ? オカルト問題は、僕を呼んで貰わなきゃ」
「先輩。何でここに……?」
「君の付き添いの婦警から、ロープを持っていたと聞いてね。ピンと来たよ」
呪術に明るくないアワナ君が、呪術を使うなら僕が決めた場所と方法を取る筈だ。
その勘は見事的中し、クソ生意気且つ面倒毎を起こしやがった小娘を発見出来た。
「そうじゃなくて。先輩はオカルトを調べて、満足したでしょう。何でここに居るの?」
「言葉のキャッチボールも出来ないのか? 僕の質問に答えろよ。何をしている?」
驚き戸惑ったアワナを見て、僕は激しくイラついた。
聞こえた祈りの声に、青緑色の大海。手に握ったロープ。
何をやっているか、分からないとは言わせない。
アワナは言い淀んだ末に……焦燥し諦観した声音で言った。
「海に呼ばれているんだ……僕は帰らなきゃ」
「はぁっ!? 何を言い出すんだ。幻聴でも聞こえたか?」
まさかの解答に僕は呆れ果て、アワナ君は怒った様に眉を顰めた。
だが僕だって全治二ヶ月に悪化した、体を引きずって来たんだ。文句を言う資格はある。
「いっつも思ってたけど、先輩って。人の事、馬鹿だと思ってるでしょっ!?」
「はぁぁっ!? 事実を認識もしていないのか。ソクラテスの無知の知を知れっ!!」
「じゃぁ先輩が良くやらかすのは何なのっ!! 同じでしょっ!?」
「この僕を馬鹿だと言うのかっ。小娘風情がっ!?」
僕が早足で彼女に近づきながら言い募ると、即座にアワナ君は反撃してきた。
お互いに胸の内に溜まっていた文句が、次々に出てくる。
食事の趣味から、付き合いの悪さ、奇行は恥ずかしい等。
延々と繰り返す中……遂にその言葉が引き出された。
「ボクはっ! 染色体が変わり出してるって、病院で言われたんだよっ!」
「……は?」
アワナ君の声は海原にも港町にも響き渡り、僕にも届いた。
染色体? 動物の種類を分ける為に用いる要素だろ。
それが違うという事は……。
「僕は最近、人間が怖いのっ! 違う生き物に囲まれてるみたい……」
「待て。待ってくれ、アワナ君。何を……」
「寝る度に海が懐かしい。海に揺られて、沈んでいたいんだっ!」
「落ち着けよ。とりあえず病院に戻ろう……」
僕が叫び散らすアワナ君に手を伸ばすと、慣れしんだ衝撃が腰を襲った。
小さな体で僕の体にひっつくアワナ君の衝撃だ。
「だからごめんね……」
彼女が僕を抱きしめているのに、あの暖かさが無かった。
彼女の体は何故か氷よりも冷たくて、僕の背筋に怖気が走る。
甘く柔らかなミルクの匂い、そして腐臭が僕の鼻を掠め……。
「ボクの居場所は、もうここじゃないんだ」
「~~ッ!?」
僕を見上げる彼女の瞳は……血の様に紅い色に染まっていた。
雨風、波濤、天を貫く巨神と同じ目っ!
「アワナ君、待ってくれっ!」
硬直した僕の体から、柔らかなアワナ君の体が零れ落ちる。
仰向けに海に落ちる彼女は微笑み、空中で僕はその手を掴んだ。
だが落下は止まらない。掴んだ彼女の手から、薄生地が破ける音が聞こえたから。
「ぇ……ぁっ」
「楽しかったよ。先輩」
僕の掌の中に……人間の二の腕から先の、人皮が残っていた。
皮の持ち主であるアワナ君は、水飛沫をあげて海に落ちる。
「アワナ君っ!?」
僕が魂を振り絞り、悲鳴をあげる。その時だった!
呼び声に答える様に、海原から一つの影が夜空に飛び出す。
一糸纏わぬ少女の体。艶やかな腰まで伸びる長髪。温度を感じさせない美貌。
されど彼女の右腕は、純白の鱗が浮かびあがり……その下半身は人の物ではなかった。
びっしりと体表に浮かぶ鱗に足は無く、つま先に柔らかな尾膜だけがある。
つまり下半身に尾びれを生やしたソレは。
人魚
「待ってくれぇええっ!」
僕は迷わず彼女を追いかけて、埠頭から海に飛び込んだ。
人魚? 巨神の娘? 染色体が違う? だからどうしたっ!
「そんな事はどうだって良いっ!! 行かないでくれぇっ!!」
悍ましく滑る青緑色の海水を浴びながら、僕は海水を掻き分けて進む。
「僕達っ、友達じゃないかっ!! その僕を置いていくのかっ!?」
アワナ君は海中に潜ると、浮かぶ事も無くゆっくりと遠ざかっていく。
腕を使わず尾びれを動かして泳ぐ彼女は、悍ましくも美しかった。
「僕はっ、君以外に友達が居ないんだ!! だから行くな、行かないでくれぇ!!」
肩の骨を折られた時よりも、僕の痛みと悲鳴は大きかった。
遠ざかる影を追いかけて、遂に腰まで使っても寒気一つ感じない。
彼女の笑みが失われていく寂しさに比べれば、何て事もなかった。
「アワナくぅぅうんッ!!」
必死に手を伸ばす。沖へ泳ぎ去る、彼女を引き留める為に。
人魚でも異形でも良い、まだ一緒に居たい。僕は手を伸ばす。
「ぁぁあ”あ”あ”あ”ぁ”ぁ”ァ”ァ”ァ”ッ!!!」
真理以外の全てを零れ落とした僕の手は……とても短かった。
大学生 相倉有馬の邪教実録 ~レコード・オブ・クトゥルフ~ シロクジラ @sirokuzira1234
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