第10話


 ◇ ◇ ◇ 八月 一〇日 午前八時 一五分


「うわぁあっ!? はぁ、ひぃひぃぃっ!?」

 僕は余りの恐怖心と虚無感に飛び起きる!

 気づけば柔らかな感触を下半身が受けながら、暖かな日だまりにいた。

「雨はっ、巨神はっ! 波濤はっ……無い。ここは病院?」

 周囲を見渡せば、ここは僕が抜け出した筈の病室だ。

 日課となった日記を付ける最中、サイドテーブルでうたた寝をしてしまったのか。

 僕は汗をびっしょり掻き、荒い息を吐きながら時計を見る。

「あぁ、生き残れたんだ」

 時計にはあの日から、十日後の日付が記されていた。


 ◇ ◇ ◇ 八月 一〇日 午前一一時 三七分


「結論から言おう。事件は迷宮入りになった」

「島民が全員、突如として行方不明になったんだ。妥当だな」

「坊主達は奇跡の生還者扱いだがなぁ。大学は留年してもらうぞ」

 僕は保護者代わりである北川部長と、病院の廊下を歩いている。

 本土はやはり良い……文化を感じるな。

 病院に染みこんだ、薬品とラベンダーの香りの安心感。

 暖かい陽射しを取り込むガラス窓。外は爽やかなフィールドワーク日和だ。

「お前達は宗教犯罪に巻き込まれた、哀れな被害者になって貰う」

「僕達は奴らに捕まって地下牢に入れられた、馬鹿な大学生という訳だ」

「真実を公表したら、日本の治安組織が狂ったと思われるからな」

 僕は真実を公表しない事に、鼻を鳴らしても文句は言わなかった。

 文句が無い訳じゃない。結局、警察は僕らの話を信じなかったのだから。

 だが真実を知った北川部長も納得しているなら、それが一番なのだろう。

「良くもまぁ、生き残れたもんだ。坊主、警察に入って潜入捜査官にならんか?」

「オカルト犯罪課が出来たら言ってくれよ」

「そんなイカれた課を新設する予定は無い」

 僕達は吹き出す様に笑う。

 あの悍ましい真実を知った身として、こんな事を言い合える事が夢の様だ。

 だが硬い病院の壁に触れれば、これが現実だと実感できる。

 その後の僕達は他愛ない話をし、目的の場所に辿り着いた。

「そうだ。あの子がお前の家に、忘れ物をしたから取りに行きたいだとよ」

「うん? 僕が行った方が良いのかい?」

「いや……詳しくは聞いて無いが、婦警と行くってさ」

 その許可が欲しいって事か。勿論OKだ。

 今更僕の家の資産を、盗んで行く理由は無いだろう。

 北川部長も知ってたという顔で頷くと踵を返す。

「あの子によろしくな。午後に迎えに行くって、伝えておいてくれ」

「うん? 北川部長も一緒に行けば良いじゃないか」

「馬鹿っ。ワシが行っても、気落ちさせるだけだろ。お前が傍に居てやれ」

 手をヒラヒラして去って行く北川部長に、僕は頭を高速で下げて上げた。

 そして振り返って、目的の部屋を確認する……違う部屋じゃないな。

「この相倉家当主。相倉有馬に見舞って貰える事を、喜んで欲しいね」

 本来ならそこらの凡骨の為に、僕が動く事なんて無い。

 だがこの部屋の患者は特別だった。


 ◇ ◇ ◇ 八月 一〇日 午前一一時 四三分


 その部屋は一見。僕と同じ個室に見えたが、普通の部屋とは言えなかった。

 爽やかな香りを塗り潰す、磯と魚油の匂い。

 冷たいクーラーがガンガン室内を冷やし肌寒い。

 ベットのシーツが、冷え切って凝り固まる程だ。

「あっ、先輩っ! お見舞いに来てくれたの?」

「元気にしてたかい、アワナ君? お見舞いの品は沢山来てる様だね」

「あはは。皆はお見舞いに来れないって聞いて、メールでビックリされたけどね」

 一つしか無い椅子に座った僕の前で、青白い顔のアワナ君が笑う。

 屈託無い笑みは相変わらずだったが、少しだけ痩せたか。

「仕方ないよ。儀式の後遺症が残ってるんだから」

 その言葉に僕の胸が痛む。

 地下牢で幾度悔やんだか。やはり彼女は置いていくべきだった。

 そんな僕の内心とは裏腹に、アワナ君は拗ねる様に口を尖らせる。

「まぁた弱気になってるでしょ? 先輩らしくないよっ!」

「五月蠅いな。僕は文化人だから、感性が豊かなんだ」

「それでもいつもの鼻っ柱が強いままで居てよ。調子狂っちゃうからさ」

 笑う彼女は、気楽な立場には居ない。

 謎の症状は解明されておらず、島民が居なくなった事で手がかりも無くなった。

 残ったモノは僕らの命と……地下室に置かれていた模倣女教典だけだ。

「だから僕は大丈夫。気にしないでね」

「ふんっ、誰が気にするかよ。口うるさい奴が居なくなってせいせいするさ」

「あははっ。家の掃除が残ってるから、残りは自分でやっておいてよ~?」

 後は大した話はしない。世間話や警察と決めた口裏について話すだけだ。

 島で起きた事を、お互いに追求はしない。

 追求しても……彼女を苦しめるだけだと、僕は本気でそう信じていた。

「おっとそろそろ時間だな。明日も暇なら来てやるよ」

「えぇっ!? 良い加減、先輩も大人しく病室で寝てなよ」

「ふんっ。あんな魚人共に噛まれた傷なんて、僕には何とも無いさ」

 気づけばお昼時になっていた、面会の時間は終わりである。

 昼時に部屋に居ると、ナース共が五月蠅いから帰ろう。

「またな。アワナ君」

「じゃぁね。先輩」

 僕達は言い交わし、また明日も出会う筈……だった。

 アワナ君が僕の家で荷物を取りに行き、失踪するまでは。

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