第9話


 ◇ ◇ ◇ 八月 一日 午後一一時 五五分


 アワナ君の足が海に触れた時、潮風が止んだ。

 頭上では星が瞬き、月は形を逆流させて満月へ近づいていく。

 地球規模の怪奇現象に全員が呆けていると、誰かが何かを指さして叫ぶ!

「見ろっ、ニライカナイへの門が開く!」

 誰もが指の方向へ。湖の如く波も波紋の一つもたたない、海面へと目を向ける。

 そこには満月が映し出され……周囲の海水が水鏡の中心、海中へと流れ込んでいた。

 激流はダムが放水する何百万トンという大瀑布とも、比べ物にならず。

 流転する海水はあっという間に、満月のあった海面に空間を空ける。

 その空間には水も、大気も何も無い。闇を切り取るが如き、奈落があるだけだ。

 そして口を開けた奈落から、怖気の走る歌声が脳内に反響しだす。


     めんおう くとぅるん ららいや ぢぃおぅだ!


 奈落が溶岩の如く泡立った。

 泡が弾ける度に……腐敗したイカに頭を埋めるよりも、強いアンモニア臭が拡がる。

 その上、漆黒の泡の勢いは留まる事を知らない。

 遂には両生類の卵が飽和する様に、天上へ昇る入道雲を生み出す。

 既に悪臭とガスの濃度は海水じみた……流動的且つ液体に感じる程に高まっていた。

「相倉くんっ、呼吸できるぅ。人間が生きられるか分からないよぉ?」

「あ、あぁ。だがアレは、アレは何だ?」

 呼吸出来る事は不思議だが、そんな些細な事に気づきもしなかった。

 何故なら入道雲が溢れる毎に空間が揺れ、霊的な波濤として僕達に迫り来たからである。


     ちゃんるめんしゃん じしゅうだい!!


「うわぁぁあああっ。ぁぁあアア!!! 逃げろぉっ。船を、船をっ!」

「ダメぇ。逃げられないぃ。捕まってぇ!」

 エネルギーの波濤は津波の如く港に押し寄せ、絶望する僕らを飲み込んでしまう。

 僕らの体内。気体とも液体とも言えぬ……言うならば『魂』が押し流されて行く!

 遠くでは何名ものユナイタマが狂喜の断末魔を挙げ、水膨れ団子へ変わり出し……。


     ぢぅはぃだぁ! ぢぅはぃだぁ!! くとぅるん!!! 


「はぁはぁ……はぁ次は何だ、何が起きている。終わったのか?」

「良いですかぁ、相倉くんぅ。ここからが本番ですよぉ」

 入道雲は港の惨状を気にも止めず、内側に渦巻くと人間に似た形と質量を持ち始める。

 だがどうでも良い。僕は波濤に押し流されないだけで精一杯だ。

 そんな僕の耳元で、信じられない言葉が呟かれる。

「行きますよぉ。今こそ、動く時ですぅ」


 ◇ ◇ ◇ 八月 一日 時刻不明


「良いですかぁ。前も横も見ず、急いでアワナちゃんを捕まえて。逃げて下さいぃ」

「はぁっ!?」

「あの子の手をぉ……離さないで下さいねぇ。後は何とかしますからぁ」

 コイツやっぱり、頭イカれているんじゃないか?

 だが思い返せば、イカれてるのは僕もである。

 言い返す事も出来ず、僕は毛布を頭から被って埠頭を歩きだした。

「ぢぅはぃだぁ、ぢぅはぃだぁ! くとぅるん!!」

「……クソッ、イカれてやがる」

 僕は顔を見られない為に、足下だけを見て歩く。これがとても辛い。

 周囲では病的な喝采が湧き上がり、断続的に肉風船が弾ける音が耳を叩く。

 僕を囲むユナイタマ達の数は何百……いや何千体は居るだろう。

 その一人にでも気づかれれば、僕は殺されるのだ。

「ぢぅはぃだぁ、ぢぅはぃだぁ! くとぅるん!!」

「ぢぅはぃだぁ、ぢぅはぃだぁ! くとぅるん!!」

「……見つけた」

 ユナイタマ達の叫びは数を減らしつつ、声量だけが大きくなる。

 お陰でアワナ君の姿を捉えられた……既に腰まで彼女は海に浸かっている!?

「~~っ、アワナ君! 戻るんだっ、アワナ君っ!」

 僕は海に飛び込むと、身を切る寒さの海水を掻き分けて行く。

 アワナ君は僕の声が聞こえないのか、夢遊病者の様に沖を目指していた。

 既に下半身が沈み、このままでは全身が入水して死んでしまうっ!

「~~っ、世話が焼けるっ!」

 海水は怖いが走っては間に合わない。僕は海に顔を着けて、彼女めがけて泳ぐ。

 周囲にはユナイタマ達は居らず……アワナ君を捕まえて、岸へっ!

「あぁ……ぁっ、あぁぁ」

「しっかりしろっ! おいおい、秘薬ってのはそんなに効くのか!?」

 死体よりも冷たく柔らかい彼女を抱き留め、力任せに手を引く。

 アワナ君は抵抗はしないが、沖合に手を伸ばして振り絞る様に声を出している。

 ロクに飯も食べず、幻覚で弱った心と体には重労働だが……もう少しだっ!

「この借りは、必ず返して貰うからなっ!」

「ぅぅぁ。ぁっ、ぁっ」

「次は何処へ……船で脱出するべきか?」

 浜辺に辿り着いたが……アワナ君は相変わらず、海原に手を伸ばしていた。

 僕達は浜辺からも離れて、港の埠頭……大通りと船を見比べる。

 気づけばユナイタマ達の数は、驚く程に減っていた。

「せん……ぱい?」

「アワナ君、気づいたのかっ!? 今は静かにしていてくれ」

「うんぁ、ぅんぁ」

「良し……決めた、船で本土に行こう。医者に診て貰うんだ」

 その時だ。幾万幾億もの海鳴りの轟音が、あらゆる方角から鳴り響くっ!

 爆弾が降り注ぎ、世界が終わったのか。それ程の振動と爆音の衝撃に、転んでしまう。

 僕は八尾比丘尼の言葉を思い出した……「ここからが本番」だと。

「はぁっ。はぁはぁ。はぁっ!」

 突如。空から強い雨風が吹き込み、僕の頬を叩く。

 雨は地獄から溢れ出したのか、猛毒じみた硫黄の悪臭を放っており……。

 僕は未知への恐怖と、アワナ君を助けた事での安堵から見てしまった。


 ◇ ◇ ◇ 八月 一日 時刻不明


 ソレを言い表すならば。のたうつ触手を口から生やした、天を貫く軟体動物の巨神だ。

 奈落より出でるのは上半身だけ……それでも首より上が、暗雲で見えない。

 青緑色で軟体動物似の滑る肌。

 大型船を掴める程の巨大な手。

 雲から漏れる無数の巨龍の髭。

 僕が雨風だと勘違いしていたのは、奴が起き上がった時の水飛沫だったのだっ!


「……あぁ、人間が」


 神を崇める人が這い蹲る理由が、今なら分かる。

 暴力的且つ霊的な威圧感に、立っていられない。

 僕は胃液を吐きながらも、巨神を見上げてしまう。

 中でも人で言えば目に当たる部分。暗雲の奥で瞬く赤光の、身震いする力強さっ!

 その眼光がユナイタマ達を見る度に水膨れを起こして、爆弾の様に弾け飛ぶ。

 巨神が何かしている訳ではあるまい。

 内包する力が違いすぎて、見られるだけで体が耐えきれないのだろう。

 僕らは見られるだけで肉体が膨らみ、弾け飛ぶ程度の存在という事だ。

 

「人間がこんな存在に……」


 僕らの居る天上島へ、巨神が動き出す。

 先程の霊的波濤ではない物理的な波濤を伴い、歩く様は島の終焉を意味していた。

 僕はアワナ君を抱きしめたまま、涎を垂らす。


「こんな存在に、何が出来るってんだ」


 瞳を抉り脳髄の奥の苦痛を取り除けるならば……。

 僕は喜んで脳髄を掻きむしるだろう。

 だがそんな事をしても死ぬだけだ。


「何をすれば良い。たった一人の人間が、何が出来る?」


 僕は焼き切れて動かない脳回路を動かす。

 考え、悩み、無理だと悟った時。

 巨神へ近づく影を見た。


 ◇ ◇ ◇ 八月 一日 時刻不明


「八尾比丘尼……っ!?」

 見覚えのある両生類のユナイタマ。

 彼女が海面を歩き、荒ぶる巨神へ近づく。

 邪教の聖女は荒ぶる神と波濤へ、高らかに唄い出した。


 めんおう くとぅるん ららいや ちゃんるめんしゃん じしゅうだい


 聞き覚えがある唄は、嘗て爺様に教えて貰った呪術の筈。

 鏡や水面に映った姿を変えてしまう呪術……それを何故?


 めんおう くとぅるん ららいや ちゃんるめんしゃん じしゅうだい

 めんおう くとぅるん ららいや ちゃんるめんしゃん じしゅうだい


 唄は続く。二度目の唄は、二つの声が混ざっていた。

 アワナ君だ。秘薬で呆然としていた彼女が、呪術を唱えている。

 先程の空間の波濤に比べれば、ちっぽけな揺らめきが広がり……僅かに世界は変容する。

「何とかするって……そういう事かよ」

 視界の果て。奈落まで辿り着いた八尾比丘尼が、巨神へ愛おしそうに手を伸ばす。

 水面に映る八尾比丘尼は、一糸纏わぬアワナ君の姿だった。

 偽物の鏡像へ海面から触手が伸び、八尾比丘尼を雁字搦めにしていく。

「ぅ、あぁ。ぅぁ」

「ダメだっ、行くな。アワナ君。逃げるんだっ!」

 アワナ君が悲哀の声と涙を漏らす中、僕は彼女と村へ走りだす。

 やってくる大津波に耐えられる場所は、僕が知っている限り一カ所しか無い。

 海院神社の地下牢……そこを目指すんだっ!

「止め……戻って。お願い」

「あぁっ、クソ。この僕が逃げるしか無いなんてっ!」

 僕は逃げる中。八尾比丘尼の姿を思い出して、一つの推測が脳裏によぎった。

 ユナイタマになった八尾比丘尼、生贄になる筈だったご母堂。

 巫女へ求められる処女性。アワナ君の様子。その特別性。

「何て冒涜的な事を、思いついたんだ僕は」

 アワナ君の父親が……奈落より現れたあの巨神だなんて。

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