11,Dear My Ⅰ
ボクがまだ十くらいだった頃。父さんが死んだ。
心臓の発作が原因だった。
何の前触れも無く、唐突に倒れて、そのまま死んだらしい。
母さんは、貧しい家の出身だった。
裕福な家で育った父さんに言い寄られて、そのまま結婚したんだそうだ。
父さんは、母さんの事が大好きだった。
母さんは、父さんの事が大好きだった。
皆が皆、ボク等、家族の事が大好きだった。
そんな事、ボクにとっても、周りの人にとっても、当然の話だった。
当然の話だと、思っていた。
父さんの訃報を聞いた父さんの家族は突然、母さんの事を口汚く罵った。
後で知った。どうやら父さんは、その家で唯一の跡取り息子だったらしい。
坊ちゃんを誑かした
お前は私達の恥晒しだ。家から出て行け、この魔女め。
酷く傷付いた母さんはボクを連れて、中心地区にある家から出て行った。
日に日に、母さんは
母さんの傷付いた心は、何時しか病んだ心に変わっていた。
だからボクは母さんの代わりに、ただひたすら、昼も夜も、寝る間も惜しんで働いて、やっと二人で生活が出来るだけのお金を手に入れた。
不幸中の幸いと言うべきか。ボクは人より容姿が優れているらしく、仕事自体に困る事は無かった。
そして譫言しか呟かなくなった母さんを、ボクは毎日励ました。
普通の人間なら、とうの昔に音を上げてる、と思う。
でも不思議と、つらいとか、疲れたとか、思った事は一度も無かった。
そんな日々が続いた、ある日。ボクは「能力」を使えるようになっていた。
気付いたのは、洗い物をしていた時。手を滑らせて、皿を落としてしまった。
その皿は、母さんがまだ元気だった時に、気に入って使っていたものだった。
頼む、落ちないでくれ。
そう思った途端、皿はふわふわと宙に浮いた。
目の前で起こっている事が全く信じられなくて、それを自分でやっていると気付くのに、結構な時間が掛かった。
上へ、と思えば上へ。下へ、と思えば下へ。
皿は、ボクの意思に応えるように動いた。
────この力があれば。
お前達に、目に物見せてやれるかもしれない。
こうしてボクの、ちょっとした仕返しが始まった。
そう。これは復讐なんて、そんな大仰なものじゃない。
だってボクに出来る事なんて、ただ「能力」で「触れたものを自由に動かす」というだけなんだから。
愉快痛快な
◇
ボクは清潔な身なりをして、只の一度も忘れた事の無い、嘗てのボクの家へと赴いた。
ボクの家だった場所には、母さんを罵った人達が、我が物顔で住んでいた。
家を追い出された頃のボクはまだ小さかったから、ボクをボクだと気付く人間は、誰一人として居なかった。
簡単にボクを家の中へと上げてくれたその人達は、紅茶とケーキを出してくれた。そして自慢の名画だと、父さんが母さんの為に買った絵画を、これ見よがしに見せてくれた。
だからボクは、出された皿に、フォークに、カップに、スプーンに、絵画に、触ったもの全てに霊力を込めた。
その数日後の夜。ボクは「能力」を発動した。
やる事は簡単。霊力の込められたものを、ただ揺らしたり、動かしたりするだけ。
ボクは数日に一回、その家に顔を出した。
そして二、三日「能力」を発動しない期間を設けておいた。
毎晩、勝手にものが動く。
ボクが現れると、数日それが収まる。
それを、一年くらい繰り返した。
面白いくらいにその人達は気をおかしくして、貴方が居ないと、なんて、ボクに依存するようになっていった。
だからボクは言った。嘘偽り無く、思った事を口にした。
「ボクは貴方達が嫌いです」
その日から、ボクは家に顔を出すのをやめた。勿論、勝手に物を動かすのはやめなかったけど。
一週間後。その人達は全員、発狂して死んだ。
政府からその知らせが届いた時、ボクは思わず身震いした。
十年来、ボクが望んでいた事。やっと、やっと、あの家へ帰れる。
ボクはその人達から財産を全て引き継いで、母さんと共に家へ帰った。
相変わらず母さんは病んだままだったけど、ボクは母さんの世話を続けた。
そんな、とある日。十年以上、譫言しか言わなかった母さんの口が、ボクを呼んだ。
信じられなかった。ボクが「能力」を持った時以上に信じられなかった。
母さんはボクを見つめて、外に出たいわ、と言った。
嬉しかった。涙が溢れる程に嬉しかった。
母さんの正気が戻ったんだ。そう思った。
ボクは母さんを連れて、街を歩いた。
行商の売る品物は、どれもこれもが綺麗だった。
母さんの表情に、だんだんと笑顔が増えていった。
幸せだった。父さんはもう居ないけれど、それでも家族三人で暮らした日々のように、ボクはとても幸せだった。
母さんは、子供が好きだった。
家の庭に子供を集めて、日がな一日遊んでいる姿を、よく眺めては笑っていた。
ボクもそれを見て、思わず笑みが零れた。
でも、五年くらい前。あの日はとてもよく晴れていた。
政府に提出する書類を一日書いて、ふと夕暮れの外に出てみると、庭で遊んでいた子供達がボクに駆け寄って来た。
「一人、あの子がいない」
子供達は口々にそう言った。
────あの時。ボクがこまめに外の様子を見ていれば、こんな事にはならなかったのかな。
ボクは一先ず子供達を帰らせて、庭や家の中を探し回った。
子供らしき姿は、何処にも見当たらない。
残されたのは、母さんの部屋。
何となく怖くなって、恐る恐るノックをすると、母さんの声が返って来た。
あの光景は、今でも鮮明に思い出せる。
ドアを開けた先。
鼻腔に絡み付く、嫌な臭い。
庭木に留まった
細い腕に抱かれてる、首の裂かれた小さな死体。
返り血に塗れた母さんが、窓から射し込む夕日に照らされて、恍惚と笑っている。
「ふふ。これでもう独りじゃないわ。素敵でしょう?」
そう笑いかけた母さんの顔は、ボクが見た事の無い程に若返っていた。比喩でも何でもなく、事実として。
「これと
母さんは正気になんて戻っていなかった。ただ口が利けるようになっただけだった。そして母さんの目には最初から、ボクは自分の要求を叶えてくれるだけの存在としか映っていなかった。
でも、ボクは母さんを憎くも何とも思わなかった。
だって。もしボクが、この人を見捨ててしまったら。
もしボクが、裏切りの末に狂った、このひどく哀れな母親を見捨ててしまったら。
一体、誰が。誰がこの人を慰めるんだろう。
「────良いよ。どんな子が良い?」
その日から、ボクは趣味で学んでいた術式を使って、色んな事をした。
「ギルド」に勘付かれても良いように、物という物に多種多様な術式を大量に描いた。
門や玄関は勝手に開けられないように、術式で常に閉まっておくようにした。
万が一の事も考えて、母さんの部屋の扉にはボクが知る限り一番強力な霊力攪乱術式──精神を侵して自滅するように仕向ける──を、特定の方法以外で扉を開けた時に発動するよう仕組んでおいた。
思い付きで死体を
でも、これを同時に行うには、ボクの霊力だけでは足りない。
だから丁度空いていた隣の土地を買い上げて、食糧庫と称した地下室を作り、そこの壁に巨大な固定術式を描いた。
そして台所から食糧を無人で運ぶ装置を改造して、迷い込んだお人形候補──女の子以外の人間や野良の動物を上手い事誘導し、固定術式の前まで直送して霊力を奪う、そんな質の悪い罠を作った。
その後、台所と地下室を繋ぐ通路が元々あった涸れ井戸と繋がってしまっている事に気付いて、井戸を塞ぐべく、鉢に見立てたそこへ庭木を植え替える、なんて事もした。
こうしてボクはとことん、狂ったふりをする事にした。
何故って、少女誘拐をするような人間が実は正気だったなんて、そんなの笑い種にもならないじゃないか。
風見鶏の洋館/大広間・夜更け
冷たく、鋭利な金属の感覚が首筋を伝う。ボクの操っていた物達は術式ごと全て破壊され、もう動く事は無い。
何だか、とても疲れたなあ。
「アンタに一つ、教えなきゃいけない事があるわ、ネフィ」
教えなきゃいけない事、か。もう殺されるだけのボクに、今更何を。
「アンタの母親を殺したのは、一応、理由があるのよ」
「────は。言い訳の間違いだろう」
自分でもびっくりする程に乾いた笑いが零れる。
「確かに、文句は言えないわ。でもね、アンタが出て来るかどうかは、最悪どうでも良かったのよ」
「……何だって?」
こいつ、母さんの死体を利用したくて殺したんじゃないのか。
「アタシ達は、依頼を受けて熟す人間。大体の依頼は『ギルド』から寄越されるわ。でも、『ギルド』自体が仕事を作ってる訳じゃない。それは分かるでしょ?」
知っているとも。あそこはただの紹介所だ。仕事の依頼も、報酬の支払いも、全て依頼主が行う。
「それでね。今回アタシ達に出された依頼は『少女誘拐事件の原因の解明及び解決』。元々は『ギルド』の掲示板に張り出されてたものなんだけど、これ、誰が依頼主か分かる?」
そんなもの、決まりきっているじゃないか。
「ボクに恨みを持っている人間だろう。子供の母親、とか。それか『ギルド』の報復辺りが妥当かな? どちらにせよ、そりゃあ殺しにも来るさ。その依頼、どうせ『犯人は殺せ』みたいな事が書いてあったんだろう?」
女からの視線がきつくなるのが分かる。何と言うか、怒りと言うよりは、憐れみが籠っているような感じだ。
「そうよ。そこまで分かってて、アンタは──……」
ずどん、どん。
鈍重な音と共に、突然、家が縦に揺れる。それを皮切りに、廊下が崩れ、大広間の天井が落ち、壁が剥がれ、窓硝子がひび割れ始めた。
固定術式とボクとの繋がりが、完全に切れている。ああ、成程。見つかっちゃったか。
「今度は何……!?」
「まずいな、ここも崩れるぞ!」
にじり寄って、母さんの亡骸を抱き上げる。もうとっくに冷たい筈なのに、温もりが感じられた。
母さん、ボクはここに居るからね。ずっと一緒だよ。
「良し、これで通れる。先に行け!」
どうやら赤い上着の彼は、剣で窓を殴り割って脱出通路を作ったらしい。賢い男だ。
崩壊が目前にまで迫っている。今度こそ、目を閉じたって良いだろう。
「……──君! ねえ、君!」
この声は、ボクに向けられたものなんだろうか。それとも、幻聴?
少しだけ、目を開ける。
「……!?」
掌。目の前に、掌がある。思わず顔を上げた。
「早く! 早く掴まって!」
ああ、何て事だ。銀髪の彼女が、砕けた大窓の向こう側から身を乗り出して、降り注ぐ硝子の破片で傷だらけになるのも厭わず、ボクに向かって懸命に手を伸ばしている。
この手を取れば、ボクは助かるんだろうか。
……恐らく、そうだ。ボクはきっと、助かってしまう。
彼女の手を取った。そしてその掌に、霊力を込める。
これが最後の「能力」だ。
ボクは彼女を崩壊の波の届かない、硝子窓の向こう側へ放り出した。
これで良い。これで良いんだ。
色とは縁遠かったボクが抱いた、初めての好意。
銀髪と赤い瞳が美しい君。既に死体である筈の人形達を最後まで傷付けようとしなかった、優しい君。ごめんね。
こんな、愚かでろくでもないボクに手を差し伸べてくれた。
誰かを傷付ける事にしか使って来なかったボクの「能力」を、君を助ける事に使えた。
それだけでボクの心は、もう十分に、救われているのです。
・・・
これは、死の間際に最初で最後の恋をした、一人の青年の話。
狂った母をそれでも愛した、彼の背負う、愛すべき憐憫の物語。
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