2,シュダルト郊外/とある小さな家・午前


 北には険しい山脈が連なり、南には豊かな海を湛える。

 東には森が深々と茂り、西には荒野が坦々と広がる。


 陸軍十個師団、海軍八個艦隊から成る国軍。

 敵の一切を撃滅せしめるに十分な力を持つ人間、武具、技術が揃う。


 国土は幾分か矮小なれど、その国力、侮る勿れ。


 それは、誰もが「龍の住まう国」と畏れる国。

 一対の龍に二振りの剣を旗に掲げる国。


 其は、アレストリア帝国。

 今、世に存在する国々の中で、最強を誇る国である。




 シュダルト郊外/とある小さな家・午前




「…………」


 目が、覚めた。何か夢を見ていたような気がする。

 内容は──……どうやら全く憶えていないらしい。


 まあ良い。大勢に影響は無い。

 今日の天気は晴れ、か。


 こんな家に閉じ籠っているのも何だ。

 偶には訳も無く、外を出歩いたって良いだろう。


 少なくとも今はそんな気分、なような気がする。




 帝都シュダルト/大通り・昼




 艶やかな光沢を持つ石畳が眩しい、初夏の大通り。


 国内最大の敷地を持つ中央政府の大きな建物と、それを取り囲む中心地区──貴族や長者のみが住まう事を許された土地──を中心に、北は山の麓、南は海岸線まで国を縦断し、中心に近ければ近い程多くの店──八百屋、肉屋、行商、等々──が立ち並ぶ。


 その場所に一人、赤い上着の青年が居た。

 軽い足取りで人混みを避けつつ、青年は青果店の前でふと足を止める。


「お婆さん、そのオレンジ、一つくれないか?」

「はいよ。銅貨五枚だ」


 示された金額に、青年は少し眉を寄せた。


「え? ちょっと高くない?」


 青年の言葉に老婆は、仕方無いねえ、と溜息をつく。


「最近、ここら近辺で通り魔が出るんだってさ」

「はあ? 何だそりゃ。すぐそこが警備隊の詰所だってのに、捕まってないのか?」

「みたいだねえ。何でも、なんだってさ。人の持ち物や店の商品を掠め盗っては路地裏にこそこそ逃げ込んでるみたいだよ。警備隊が来る頃には逃げ果せてるって話さね」

「へえ。そいつは迷惑極まりない事で」

「全くだよ。早くお縄についてほしいものさ。お兄さんも気を付けるんだよ」

「そっちこそ気を付けてな。どうも」


 青年は一個のオレンジを手に、店を後にしていった。


「……そう言やオレンジって、そのままかじれねえじゃん……!?」


 リンゴの方が良かったかなあ、と青年が気を落とした、その時。


「誰か! 誰か! わたくしの鞄を────……!!」


 前方の人混みから、絹を裂くような悲鳴が上がる。


「どけどけェ!! ジャマだテメー等ァ!!」


 同時に、人混みから女物の鞄を抱えた小太りの男が一人、飛び出した。

 どうやら逃げる事に必死、且つ怒鳴り散らした事で人が寄り付かないと思っているのか、前を見ていないらしく、真っ直ぐ青年の方へ突っ込んで来る。


「……うわ、マジかよ」


 青年はオレンジを上着のポケットへ強引に捻じ込むと、そのまま男に手を伸ばした。


 瞬間、青年の右手は確実に男の胸倉を捕らえ、その右腕に男の全速力と全体重が衝突する。その衝撃は凄まじく、青年の身体が幾らか擦り下がった。


 男は何が起こったのか理解出来ず呆気にとられていたが、それも束の間。すぐさま青年の手を振り解こうと藻掻いた。


「おい、テメエ、放せッ!! 放しやがれッ!!」


 だが男が暴れる程に、青年の拘束には力が入っていく。


「いやあ、どうもこんにちは。本日はお日柄も良く。ところで、あんたが巷で噂の?」

「あぁ!? 放せっつってんだよ!! フザけてんのかッ!!?」

「全然。俺は至って大真面目ですよ? さ、そろそろ警備隊の一番乗りがやって来る頃だ。観念して大人しくお縄にでも──……ッ!?」


 何処に隠し持っていたのか、男は一振りのナイフを取り出し、青年の腕へ容赦無く振り下ろした。彼の右前腕部が大きくざっくりと切れ、そこから赤黒い血液が滴る。


ッ!!?」


 拘束が緩んだその隙を、男は逃がさない。


「ハッ!! ザマァ見やがれバーカ!!」

「……野郎、やりやがったな」


 青年がその後を追おうとした、直後。


 雷鳴が轟いたのと同時に、男が強烈な光に包まれた。


「うっ!?」


 咄嗟に青年は目を瞑り、腕で光を遮る。

 そして。目を開けたそこには、痙攣しながら倒れている男の姿があった。


「……え、は?」


 暫く呆然と立ち尽くした後、はたと我に返った青年は、男の傍に転がっている鞄を拾い上げ、土埃を手で払う。


「大丈夫ですかー!?」


 間も無く警備隊の面々が到着し、男の身柄を拘束する。その中の一人──栗色の髪を高い位置で纏めた、若い女──が青年に駆け寄った。


「ご協力、感謝致します。お怪我はありませんか?」

「いや、したにはしたけど、大した事無いから大丈夫です──……」

「あっ! 全然大丈夫じゃないじゃないですか、こんなに大きな切り傷! すぐに処置しますので、大人しくしていて下さい!」

「あ、はい……」


 厄介になりたくない一心で腕の怪我をはぐらかそうとしたものの、あっさりと見つかってしまい、青年は溜息をつくように声を漏らした。


 女が携帯用と思しき消毒液と包帯を使って手当てしていく様を、青年は何となく見つめる。


「はい、終わりました! あくまでも応急処置ですから、後で必ずお医者様に診てもらって下さいね!」


 はいはい、と返事をした青年の背後から、艶のある声が掛かった。


「すみません、わたくしの鞄を取り返して下さったのは貴方?」


 青年が振り返ったそこに立っていたのは、白い長髪、白い日傘、白い手袋に薄紫色のドレスが映える、見目麗しい妙齢の女だった。


「はい、そうですが」


 青年が軽く返事をすると、妙齢の女は二人に代わる代わる、何度も頭を下げた。


「ありがとうございます。警備隊の方もわざわざありがとうございました。御二人に何とお礼を申し上げたら良いのでしょう」

「いえ、遠慮していただくには値しません。シュダルトの治安を守る、それが私達、シュダルト警備隊の役目なのですから!」


 警備隊の女が誇らしく言うその横で、青年は持っていた鞄を差し出す。


「気を付けて下さいよ。いくら警備隊が頼もしいとは言え、貴女のように可憐な御婦人は悪人に狙われやすいんですから」


 妙齢の女は鞄を丁寧に受け取ると、軽く頭を下げ、口元に手を添える。


「あら、ふふふ。そんな言葉を誰かに言われたのなんて、

 私、実は中心地区の者でして、地区の外へ出た事が指を折って数えられる程度しかありませんの。帝国軍の警護隊の目を盗んではこうして大通りへ来て、行商人の売る品物を見て回るのが好きなのだけど……そうね。次からは融通の利く護衛を雇って、ここへ来ようかしら」

「ええ、その方が断然良いと思いますよ」


 青年が笑いかけると、妙齢の女も釣られるようにして微笑んだ。


「ああ、そうそう。この辺りに突然、雲も無いのに雷が落ちたように見えたけれど、貴方達、大丈夫だったの?」

「ああ、それ、私も気になりました。でもきっと、貴方の『能力』によるものだったのですよね?」


 不安と好奇の目に晒され、青年は思わず両手を小さく上げて掌を見せた。


「俺は至って無事ですよ。

 後、それが俺も分からないんだ。あの野郎が逃げようとした時に、急に落ちてきたって言うか、何と言うか……」


 青年の言葉を濁す様に、警備隊の女は首を傾げる。


「では、第三者によるものなのですか? 一連の出来事を誰かが終始見ていて、折良くその第三者が男に向かって雷を落としたと?」

「そういう事だろうな。あんまり無い話だが、有り得ない訳じゃない」

「うーん……」


 怪訝そうな顔の二人を見つめて、妙齢の女は、ふふふ、と笑った。


「まあまあ、御二人が無事であれば私はそれで良いのです。では、私はこれで。お世話になりました。本当にありがとうございました」

「あ、待って下さい!」


 女がその場を去ろうとするのを、警備隊の女が慌てて呼び止める。


「中心地区の御邸宅まで送らせていただきます。帰路で万一、貴女の御身が危険に晒されたらいけませんので。申し訳ありませんが、中心地区特別身分証のご提示を願います」

「あら。はい、どうぞ」

「はい、ありがとうございます」


 隅々まで確認した身分証を妙齢の女へ返した警備隊の女は、青年に向き直って頭を下げる。


「この度は連続ひったくり犯の拿捕にご協力いただき、本当にありがとうございました。そして、私達の至らなさの所為で犯人の凶行を止められず、貴方に怪我をさせてしまった事、深くお詫び申し上げます。お礼はまた何時かさせて下さい」

「何、この程度で助けになるんじゃあ安いものさ。お勤めご苦労様」


 青年の言葉を聞いて満面の笑顔を浮かべた警備隊の女は、もう一度深く頭を下げてから、では行きましょう、と女に声を掛けた。


 大通りを北へ──中心地区に向かって──歩いて行く二人の背を見送ってから、青年は大通りを南へと下っていく。


 肩程の長さに切られた黒髪、黒いシャツ、黒いズボン、黒いブーツ。黒で統一された服達を、緩く締められた白いネクタイと赤い上着が鮮やかに彩る。

 右目を覆い隠すように伸びた前髪が特徴的な青年の名は、レギン・ヴァルキード。


 散歩をする筈が、事の始終を間近で目撃する破目になった別の青年は小さく溜息をつき、ふと目先に転がっていたそれ──の落とし物──―の存在に気付くのだった。

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