血のつながらない兄 2



 はじめて兄が学校へ来た日。わたしは幸福だった。

 同じ敷地内にある中等部に通うことになった兄は、チェックのズボンに白シャツ、ネクタイという学校指定の制服を着て登校してきた。職員室に向かう姿は恐ろしいほど完璧な美しさで、周囲は大変な騒ぎになった。

 しかし、兄は動じない。

 兄は他人の感情を、他人の怒りや戸惑いを理解しない。そして、まったく自覚ないだろうが、実際は孤独だったと思う。

 誰も兄を理解できないと、わたしは自分に言い聞かせるしかなかった。というのも、数日後、隣席の友人がわたしの肘をつついた。異星人でも見たような顔つきをしていた。

「ねえ、あれ、櫻子、お兄ちゃんじゃない」

「え?」

「ほら、後ろよ」

 振り返ると、兄がクラスの空いた席にすわっていた。わたしに向かって、ちょっと唇を曲げて合図する。

 まだ、先生は来ておらず、兄の存在に教室内はざわめいた。驚いて兄のもとへ向かった。

「兄さん、教室が違う。ここは初等部なの」

 兄は小首を傾げ、なんとも不思議そうな表情を浮かべた。

「兄さん、わからない? 教室が違うの」

冇問題もうまんたい」と、ぼそっとつぶやいた。

 これは兄の口癖のひとつで、「問題ない」とか、「大丈夫」という意味の中国語だ。

 それから先生が教室に入ってきて、兄と英語で会話した。理由はわからなかったが、なぜか先生のほうが折れた。

 たぶん、兄がとびきり無邪気で美しい笑顔を見せたからだろう。兄の笑顔には破壊力があった。

 そんな奇怪な行動もあり、全校生徒が兄の存在を知るのに数日で十分だった。

 そして、数ヶ月もすれば、兄がひとりでいることに誰もが慣れた。

 ほとんどの人は、もちろん、わたしもだが、自分が見せたいと思う姿を他人に見て欲しいと考える。恥ずかしい姿より誇らしい姿を、不幸な姿よりも幸せな姿を、哀れな姿よりも歓喜する姿を。

 しかし、兄はまるで違う。

 まったく人に関心がない。そんな兄を、わたしはよく理解していなかった。一緒に暮らしながら何もわかっていなかったと思う。



 兄と暮らした五年は、あっという間に過ぎた気がする。ヒョロヒョロとした体格に筋肉がつき、少年から青年へと成長する過程で、わたしたちの関係は微妙に変化した。

 成長するにつれ、兄の容姿はさらに人目を引いた。

 切れ長の目はうれいを秘め、鼻筋がとおり、色白の横顔は完璧な彫刻のようだった。十代という年齢特有の、その時期にしかない危うくも中性的な魅力で人を惹き寄せる。その姿は孤高であり高慢でさえあった。

「ねえ、お兄さんって、誰か好きな人がいるの?」と、友人たちから聞かれる。

「いないわ」

「ほんと?」

「ほんとだけど。でも、やめた方がいい。声をかけた子たちが、みんな泣いてたもの」

「櫻子、まるで自分のものみたいな言い方」

 兄をわたしのものにできたら、どれほど嬉しかっただろう。でも、それは無理だとわかっていた。

 ただ同じ家に住んでいるのだから、たっぷり知る時間はあった。わたしは世話焼きの近所のおばさんのような周到さで兄を観察した。誰よりも兄のことをわかっていると思い込んでいた。

 兄は……、兄が見せたいと思う姿を、わたしに見せていた。

 頼りになって、親切で、無口だが、いつも穏やかな男。

 毎朝、わたしは寝坊することが多く、ギリギリまで寝ている。

「起きる時間だ」と、兄が部屋のドアを叩く。

 兄は、どんなに遅くなろうとも必ず待ってくれた。学校に行き、授業を受け、帰りには先に教室を出て校門で待っている。

 のジオンが校門の柱に背をあずけて立っている。

 わたしは、兄を発見するたびに心臓が高鳴ったが、それは、当時読んでいた小説のように、夏の日の太陽のせいだと思うことにした。

 暑くギラギラ輝く太陽と、校庭から聞こえる生徒たちのかけ声と、木々に吹く風と、そのどれもが完成されたパズルのように、ぴったりとピースにはまる。

 兄がわたしを認め、顔を上げ、あるかないかの笑みをうかべる。

「おぅ」と、無表情のまま、わたしを認める。 

 欠けるもののない、完璧な世界すべてがここにあった。

 わたしは十七歳だった。

 ゆっくりと兄に向かって歩く。速すぎでも遅すぎでもない速度で、幸福に酔い、息を止めながら、けっして飽きることのない兄を見つめる。当時、ジオンはすでに一八〇センチを超えており、わたしより二〇センチは背が高かった。

 わたしは兄にむかって、毎回、同じ言葉と言う。

「ジオン……。帰ろうか、家に」

「ああ、家に帰ろう」

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