血のつながらない兄 3
兄は優秀だった。高校では常に学年トップの成績。
ストイックな性格だから、なにかに
だから、高校三年になり、わたしだけが学習塾に通うことになった。
週三回、近くの駅から電車に乗り、繁華街にある学習塾に向かう。帰りは午後十時近くになった。
暗くなると、兄が駅に迎えに来る。たぶん、母に頼まれているのだろう。
いつも改札口近くで、兄はヘッドフォンをつけて待っている。晴れの日も、雨の日も、兄はそこで待っていた。
ラフなジーンズをはき、春は白い長袖シャツを、夏には白いTシャツを無造作に着こなしたシンプルな姿。それでも、背が高く均整の取れたモデル体型のジオンは目を惹く。
近くを通り過ぎる女たちは、ときに男も、振り返らずにはいられない。
あれは、わたしの兄よ。
そう思うと誇らさに、胸がはち切れそうになった。
それは、夏休みが終わるむし暑い夜だった。近くで夏祭りがあり、ふだんは人通りの少ない駅前が混雑していた。
酒に酔った男たちが騒いでいる。
わたしは兄をさがした。いつもの場所に兄がいない。人出が多くキョロキョロしていると、三人組の、いかにも軽そうな男たちが声をかけてきた。
「ね、俺たちと祭りに行かない?」
「いやよ」
怖かったが、精一杯の虚勢をはった。
「なあ、そう言わなくてもさ。マジ、かわいいな、あんた」と、鼻ピアスをした男に二の腕をつかまれた。
「離して」
「ああ、怒られちゃった」
「離して」
「なあ。いいだろう」
恐怖を感じたとき、兄が隣にいた。一瞬の
「何しやがる。俺を知ってて……」という声が途中でかき消える。
いきがった男が悲鳴をあげるのも早かった。いったい兄は何をしたのだろう。いつものように平静で、その目はさらに冷たく沈んでいる。
「手を離せ」と、兄は静かに言った。
子ども時代の数年、香港の貧しい
三人を相手に互角に戦う兄は、なにかが違った。乱闘のなかで、わたしは心配よりも違和感を覚えた。
何かが違う。
そう、わたしは、その時、はじめて真の兄を見た。三人の喧嘩慣れしていない酔っ払い相手に、兄は機敏な動きで戦う。
相手は一方的に殴られ、赤い血がほとばしる。
ぞっとするような光景のなかで、見てはいけないものを見てしまった。
兄が笑っていたのだ。
それは薄笑いというより、狂気に満ちたうすら笑い。かつて見たことのない恍惚の表情。わたしは叫んだ。
「兄さん!」
ほとんど意識を失った男の顔にゲンコツを振り上げていた兄の右手が、ピタッと静止した。
「兄さん! 兄さん! ジオン!」
警察のサイレン音が遠くから聞こえる。誰かが通報したのだろう。兄が馬乗りになっている男以外は、足を引きずりながら逃げていく。兄の目は最初に出会った日のように黄色く輝き、膝の下の男は人形のように生気がない。
「ジオン、逃げるのよ」
強引に兄の手をつかみ、わたしはサイレン音とは逆方向へ走った。
──なんてこと。なんてことに、どうしよう。
駅から遠ざかり、人通りの絶えた商店街まで来て立ち止まった。心臓の鼓動が激しく、息が切れる。街灯の下でジオンが、わたしの肘を見て、「血がでている」と言った。どこで擦りむいたのか、気づかなかった。
「痛くないのか?」
「大丈夫」
「見せてみろ」
そう言うと、肘に顔を近づけ、ふうっと息を吹き付けた。
「痛むか?」
首を振った。動転して痛みなど感じていなかった。ジオンはポケットからハンカチを取り出すと、わたしの肘にまいた。
それから、めずらしく彼は、ほほ笑みを浮かべた。
「こんな時に笑うなんて」
「遠い昔に、同じことがあったんだよ」
「同じこと?」
「ああ、こんなふうだったな。怪我をした奴にハンカチを巻いたことがあった。奴は年上だったが、なぜか、いつも焦がれるような目をしていた」
兄が珍しく過去の話をした。懐かしむような言葉にわたしの知らない兄がいて、ぎゅっと心臓が縮まった。
わたしだけが知るジオンを、見知らぬ誰かが知っている。それはせつない感覚だ。
冷たいジオン。
誰にも心を開かないジオン。
わたしは、その見知らぬ誰かに幼いジェラシーを抱いた。
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