血のつながらない兄 4



 暴行事件、二日後の朝だった。

 玄関のチャイム音に不吉な予感がした。不吉な予感ってのは、なぜか当たるものだ。「警察の者です」という言葉が二階まで届いて、ぞっとする。

「白川ジオン君はいますかね」

「はあ、まだ寝ていますが」

 義父が応対している。土曜日でも母の仕事に休みはない。その日は顧客とともに新築現場に行く予定があるとかで、朝早くから出勤していた。

「ええっと、息子がなにか」

「三日前の夜ですが、駅前で暴行事件がありまして。ご存じでしょうか」

「いや、知りませんが」

 その後、声がくぐもって内容が聞こえなくなった。わたしは、そろりそろりと階段に近づき、聞き耳を立てた。

「あ、あの、暴行事件と、いったいウチとがどういう関係があるんですか」

 わたしは彼らの注意を引くために、大きな音を立てて階段を降り玄関に向かった。警官がわたしを見て、それから父に視線をうつし、再びわたしを見た。

「あなたは、あの現場にいた、櫻子さんですか?」

「わたしは、あの……」

「そうなのか、櫻子」

「あれは、違うんです。あの」

「玄関口でお話しするのも何ですから、よろしければ中に入ってよろしいでしょうか」

 ああ、なにもかも上手くいかない。警官たちを追い払うべきなのに、父は室内に招きいれてしまう。

「お兄さんも一緒にお話を伺いたいのですが」

「あの、どういうことですか。兄はまだ眠っているんです」

 警官はソファに座ると、わたしに視線を固定しながら父に向かって説明した。

「三人組の一人、柿木真人さんですがね、かなりの重症でして」

 柿木真人って、おそらく兄が馬乗りになって叩きのめした相手だ。わたしは、とっさに弁解していた。

「わたしが塾から帰ったら、三人の酔っ払いに執拗に絡まれたんです。怖かったから断ったけど、しつこくて。腕を引き摺られて」

「櫻子、そんなことがあったのか」と、父がのんびり聞いている。

「それで、お兄さんが来たのですね」

「ええ、兄が助けてくれました」

「ジオンさんともお話したいのですが」

「起こしてきましょう」と、父がリビングから出ていった。

「あの、相手の人は、どうなりましたか」

「かなり重篤な状況です」

 やはり、なにもかも上手くいかない。あの夜のことも、ジオンのことも、この警官たちも……。

 父の声がする。

「ジオン。降りてきなさい。警察の人が来て、話があるそうだ」

 しばらくして、階段上から足音がした。早くもなく、遅くもない。いたって普通の足取りで兄が降りてきた。全員の目がその姿を追う。兄の髪は寝乱れていた。あきらかに昨夜も熟睡した様子で、普段の朝と変わりない。

 警官たちは、素の顔で驚いていた。

 そう、兄の起きがけは、なんというかものすごく魅力がある。とくに寝乱れた髪のとき、その色気には男でも息をのむだろう。

「ジオン君ですか?」

 兄は切れ長の目を動かし、軽く彼らを認識した。まったく気にしていない様子だ。

「話を伺いたいのですが」

「こっちはない」

 寝ぼけた声で、あっさりと否定した。思わず、わたしは調子外れの間抜けな笑い声をあげた。その声は甲高く、「ははは」という泣き笑いのようになった。

「被害者家族から告訴状が出ているのです。署までご同行願いたい」

 なんで、わたしは笑っているんだろう。今は大事な時なのに、ジオンがうまく立ち回れるはずがない。わたしがしっかり弁明しなきゃならない。

「正当防衛だったんです。あれは、わたしを守るためでした」

「そうですか」

「あの人たちは、わたしに言い寄ってきて、わたし、怖くて。強引に手をつかまれて、相手は三人で、だから、怖くて」

 相手は、かなりの重体だと説明される。

 実際のところ正当防衛を主張するには、相手の状態が酷すぎた。

 この場合、暴行罪の適用からも外れ、傷害罪に相当すると、弁護士になった今のわたしなら、すぐわかるだろう。

「署にご同行願えるでしょうか」

 ふたりの警官は、いつの間にか兄の両脇にいた。

 ほんの一瞬だが兄の顔が歪んだ。それは、かつて見たこともない顔で、しなやかな肉体が攻撃態勢に変化して、緊張が高まった。

「ジオン」

 わたしは兄の注意を引くために名前を呼んだ。それは兄ではなく警官のためだった。兄の体から緊張が解ける。

「兄さん、きちんと説明すれば、わかってもらえるから」

 そういう自分が一番確証がなかった。ただ、兄を救いたいと焦っていた。その焦りの理由が何かも理解できずに、震えながら兄がパトカーに乗るのを父とともに見送った。

「大丈夫よね」

「ああ、大丈夫だ」

 兄は人とはちがう場所で生きている。その場所は常に強風にあおられ、砂ぼこりが舞い、乾き、荒れ狂っている。

 パトカーに乗る兄の横顔。その時、兄の内に嵐が吹き荒れているのを感じた。ゴオオオォォという砂嵐の音が聞こえる気がした。

「母さんに連絡しなきゃ」

「ああ、そうだ。すぐ母さんに連絡しよう」

 わたしの不安を、かたわらにいる父は本当には理解できなかったと思う。

 この時まで、わたしは悲哀など知らなかったし、孤独も知らなかった。ただ、それが高尚なものであるかのように扱い、時に、友人たちと訳知り顔で孤独について語ったりする、愚かな幼い女の子だったのだ。

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