血のつながらない兄 5
「相手がね。示談にしようにも……、脳挫傷で障害が残るかもしれないのですって。こちらが一方的に悪いわけではないのだけど」と、母は言った。
「兄さんはどうなるの?」
「あなたは心配しないでいいのよ」
母は笑う。いつでも笑っている。そんなことは大したことでもないように、細い体で家族を背負っていた。
母はあけっぴろげで、大きく人を包み込む心優しい女性だった。兄に対しても分け隔てなく迷いこんだ子犬のように受け入れた。
兄は警察署に連行されたが、任意の事情聴取という扱いで、一日の拘束で自宅に帰ってきた。暴行事件は、そもそも相手側が発端であったこと、初犯であり優等生であることなどの理由で返されたのだ。
当時の法体系では兄は未成年にあたる。母がどう関わったかわからないが、頻繁にいろいろな場所に行っていたことは確かだ。
その後、家庭裁判所から呼び出しがあるまで、保護者を監督官とするとして自宅で待機することになった。
そのことについて、両親から詳しい話はなかった。
あの夜、チンピラを殴りつけた兄の姿は異様で、まったく別の人間に見えた。
あれは、見てはいけない兄の姿だったと思う。いつも冷静な兄が、あの夜だけは興奮して、まるで心底、楽しんでいるかのように相手を殴りつけ薄ら笑いを浮かべていた。
その後、暴行事件は奇妙な方向で終わりを告げた。
家庭裁判所の呼び出しを待っていたとき、暴行相手が病院から行方不明になったのだ。その三日後、近くの川で溺死体として発見された。
兄が消えたのは、発見後の翌日、雨の日だった。
バシャバシャと軒を叩く雨音が響く朝方。昨日までの暑さを雨が奪い過ごしやすい日だった。
早朝、玄関で出かけようとしていた兄に声をかけた。
「出かけるの?」
「ああ」
「傘は持った? 雨がふっている」
兄はなにも言わなかった。いつものように、まっ白なTシャツにジーンズ。黒く大きなリュックサックを左肩に背負うと、チラリとわたしを見た。
「なあ、櫻子。逃げるときは、決して後ろを振り向くな。前だけ向いて走れ」
「なにそれ」
「母さんが、そう言っていた。……じゃあな」
それが兄を見た最後になった。
兄が去った後を追うように、母が自宅を引き払い、引っ越すると宣言した。
「兄さんの帰る場所を捨てるの? 兄さんはどうやって、わたしたちの元へ帰ってくるの。母さん、母さんってば」
「サクちゃん。兄さんは二度と戻ってこないわ」
「そんなの嘘よ」
母は何も教えてくれなかった。兄も黙って出ていった。
いったい、兄は何を思いながら香港から日本へ来て、そして去ったのだろうか。それを知る者も、知ろうとする者もいない。
どんな孤独と怯えを抱いているのか、誰ひとり知らなかったのだ。
兄を見るとき、いつもわたしは泣き笑いのような表情を浮かべたと思う。それは、きっと、今も変わらない。
その兄がアメリカのデトロイトで死んだ? バカにしている。そんなことはぜったいに許せない。
それにしても……、なぜ心がこんなに悲鳴を上げているのだろう。
兄さん。
けっして振り向かずに逃げたんじゃないの? 前だけ向いて逃げたんじゃなかったの?
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