第三章

外務省の男 1



 昨夜の雨が道路に残り空気が湿っている。

 六月、入梅してから蒸し暑い日が続き……、外務省へ向かう道すがら、普段なら気にもとめない天気に難癖ばかりつけて歩いている。

 妙に落ち着かない。

 ちょっとでも気を許すと、ジオンのことで頭がいっぱいになって、だから天気に八つ当たりしているのだ。

 霞ヶ関駅で地下鉄を降りると、すぐ眼前に他省庁に比べ古臭い八階建ての建物が見えた。これが外務省だろう。

 入るには入館許可証が必要で、受付でなんやかやと時間がかかる。

「手続きに時間がかかるのは、蒸し暑いからですか?」と、嫌味を込めたが職員に苦笑されただけだった。

 所在なく待ちつづけていると、生方らしい男が駆け足で寄ってきた。

「お待たせしました」と爽やかな笑顔を浮かべた彼は、肌が白くメガネが似合う知的な風貌ふうぼうだった。

「遅くなりまして申し訳ありません。どうぞこちらに」

 彼の先導でエレベーターに乗り、通された部屋には先客がいた。

 その男は、ちょっと毛色が違った。

 彼も外交官だとしたら、さぞ驚いたことだろう。目つきが鋭く、いかつい風貌だ。がっちりした体格、バーベル持ち上げて鍛えましたという兵士のようで、浅黒い顔は生方とは対照的だった。体から発する空気が違う。

「国際刑事警察機構(ICPO)のフランス本部から、日本に派遣された中原弦なかはらげんさんです」と、紹介された。

 職業を紹介されなくても、おおかたの人が彼を警官とか、軍人とかと想像するにちがいない。

 不思議と人の職業は、その外見に影響する。教師は教師らしく、警官は警官らしく見える。

 ならば、わたしは弁護士という雰囲気を漂わせているのだろうか。

 たぶん、違うと思う。

 口の悪い旧友は、「ほんと、こんなアホな子が」とか、「あんたが弁護士なら、わたしは検察官よ」とか言って笑う。

 ああ、でも今はそんな感想で笑っている場合じゃない。

 兄の悲劇を聞いたのに、わたしときたら上の空だ。きっと、現実を受け入れることを拒否しているのだろう。

「国際刑事警察機構の方ですか?」

「俗に言うインターポールの所属になります」

 彼は値踏みするような視線でわたしを観察して、挨拶もそこそこに話しはじめた。きびきびした受け答えは警官らしいが、声が低くしゃがれている。ヘビースモーカーなのかもしれない。

「デトロイトで発見された遺体ですが。期限切れの日本国籍のパスポートを所持していました」

「それが、兄のものだと」

「そうです。急なことで混乱されるでしょうから、順を追って話をします。よろしいでしょうか」

「お願いします」

「まずは、二十年ほど前にさかのぼります。お兄さまが十三歳の頃です……、当時、香港で起きた事件をご存知でしょうか?」

「いえ、なにも。兄はまったく自分のことを話しませんでしたから。両親は知っていたかもしれませんけど」

「では、かいつまんで事情を申し上げます。母親のツァィ・フランシュさまは、表向き普通の庶民として生活していましたが、それは仮の姿です。実際はある財団の……」と言って、彼はしゃがれ声を止め、わたしの反応を確かめるように目を細めた。

 言葉使いはすごく丁寧だが、まるで取り調べを受けているように感じた。が、これは彼の職業により身についたものだろう。それに丁寧に説明しようとする態度は好感が持てた。

「つまり、ある財団の長でした。彼女は美しい女性で、神秘的なカリスマ性もあり、まさに女王と言える存在だったのです。ところが、どういう事情かわかりませんが、香港が中国に返還されたのち、彼女は川で息子さまとともに入水自殺しました。これが、公になっている事実です」

「息子と? では、兄は母親に殺されそうになったのですか」

「それについては、はっきりしません。ただ、ひとつ事実としてわかっていることは、フランシュさまの水死体はあがりましたが、息子さまは発見できなかった。警察の見解としては、川から海に流されたという記録だけが残っています」

「兄は義父に連れられて家に来ました。ちょうど十三歳です」

「そこです。あなたがご存知の白川ジオン氏は、実際に、この少年であったのかです。あなたにとって義理の父親になります白川氏ですが、彼は財団との関わりがあったのは事実として把握しています。お父様は、すでに他界されていますので、なにか詳細をご存じないですか?」と、彼は途中で言葉を落とし、再び探るような目つきをした。

 義父は一昨年に心不全で母を追うように他界した。ふたりとも苦しまずに亡くなったことが、わたしにとって唯一の慰めである。

 両親はジオンについて何も教えてくれなかったから、わたしが知っていることは少ない。

「古い映像をお見せしたいのです。かなり残酷な映像でも大丈夫でしょうか?」

「それは……。兄と関係があるのですか?」

「おそらく、お兄さまの幼い頃の映像だと考えております。ご自宅に来た少年が、本当に、お兄さまであり、ツァィ・フランシュさまのご子息なのか、これでご確認いただきたいのですが」

「見せてください」

「この映像は、もともとはVHSに録画されたもので、色あせた解像度が悪いものでした。それをDVDに焼き直し、さらにメディアに保存したので、映像が悪くノイズがあります」と、彼は断ってから、パソコンにメディアを挿入して、こちらに画面を向けた。

 ジジジという耳障りな音からはじまり、バチバチという音ともにモノクロ映像が映し出された。

 板張りの広い室内が写っている。かなり古い建物のようだが豪華なインテリアだった。

 異様なのは中央に大きな水瓶みずがめがあることだ。水瓶の周囲に立つ人びとはみな白頭巾を頬のあたりまで下ろし、顔を隠している。

「フワァアアア、フワァアアア」という細い人声のような奇妙な音楽がバックに流れた。

 セピア色の画像とあいまって、退廃的でただれた雰囲気だ。

 映像に少年が映しだされた。

 その瞬間、「あっ」と、声が漏れ口もとを手でおさえた。

 水瓶みずがめに少年が肩まで浸かっている。

 まだ、小学校に上がる前だろうか。その際立って美しい少年は小刻みに体を震えさせている。

 映像からは、新たに祈りのような声が聞こえる。と、中央に立つ大きな体付きの男が少年の頭を抑え、水瓶に沈めた。

 映像だとわかっているのに、「やめて!」と、思わず叫んだ。

 バシャバシャと激しく抵抗する少年。

 あれは、兄だ。

 間違いなく、水に沈められているのはジオンなのだ。

「い、い、いったい何をしているのですか?」と、声がうわずってしまう。

「これが財団の儀式なのです。少年は、あなたがご存知のジオンさまで間違いないですよね?」

「そ、そうです」

「やはりでしたか。この少年は財団があがめる王族の末裔らしいです。それ故に聖なる偶像として扱われ、王の体液が滲む水を聖別する儀式がこれだと聞きました。まあ、普通の人からみれば、あきらかな虐待でしょうが、こういうカルト集団にとっては正義なのです」

 はじめて自宅に来たときの兄を思い出す。

 周囲を警戒し、すべてを敵のような目でにらみつけ、ただ、獣のように唸っていた。う〜〜〜という動物のような声が今も耳に残っている。

「あ、あれじゃ、死んでしまう」

「いえ、死なせはしません。あれは儀式の一環で、彼らにとって大切な王なのです」

 映像は容赦なく続く。水から出された兄はぐったりとして、あきらかに失神していた。

 言葉を発することができない。わたしの前にいる、ふたりの男たちは何をわたしに期待しているのだろう。 

「兄は、義父の子として日本に来たのです」

「どういう経緯かはわかりませんが、彼は日本人、白川しらかわジオンという名前で戸籍簿に登録されました。その際、母親は不明と記録されています。財団から逃げ、日本に潜伏したのです」

「母親が不明?」

 中原は両手を胸の前で組むと、さらに低いしゃがれ声で話した。

「非常にセンシティブな内容となりますが。当時の香港返還時代に話を戻します。共産主義国である中国とカルト集団は、政治の上では相性が悪い。この財団も一種の宗教に近いですからね。マルクスが宗教を『民衆のアヘン』と批判したように、宗教的なものが弾圧されるのが中国です。国で許可した一部の宗教のみ存続が認められていますが制約は多い。香港において、こうした圧力が増すであろう時期に母親は自殺(?)したことになっています」

 自殺というとき、中原は言葉尻を上げた。そう思っていないというニュアンスを込めたのはあきらかだ。

「兄からは何も聞いていません。そもそも自分のことを全く話さない人でしたから」

「言える内容ではないからです。殻にこもったのでしょう」 

 兄が、殻にこもっていた?

 いや、ちがう。

 兄は普通に感情がなかった。無感動でただ日々をやり過ごすだけで生きているようだった。

 兄の顔はすぐ思い浮かぶ。まるで、昨日も会っていたみたいだ。

 当時、わたしは兄にイタズラをしたり、からかったり、あるいは過剰に世話を焼いたりした。

「こら、やめろ」とか、「ほっといてくれ」とかが、兄の口癖になった。

 わたしはやめなかった。なぜか、それが兄に必要な気がしたからだ。嫌がるフリをしながら、それでも構われることに、内心では喜んでいると感じていた。

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