外務省の男 2



 中原が両手をパンッと合わせ注意を促した。ハッとして彼を見る。

「さて、サフィーバ財団についてですが、何か、ご存じですか?」

「なんですか? サファリ?」

 つい、とぼけたが、どこかで聞いた名前だと思った。

 藤川綾乃の名前が思い浮かんだ。

 隅田川で溺死した朱常浩じゅうちゃんはお(藤川綾乃のニセモノ)……。彼女を調べに行き赤っ恥をかいたとき、聞いた財団の名前と同じだ。これは、いったい何の符牒ふちょうだろう。

 中原が先を続ける。

「サフィーバ財団といいます。清王朝はじめ頃ですが、当時の政権に迫害され香港に逃れた人びとがいました。彼らが作った秘密結社のような財団で、かつて中国王朝で栄華を誇った王族の末裔らしい」

「……黒城さま、大丈夫ですか?」と、生方が途中で口をはさんだ。

 メガネの奥で気遣わしげな表情を浮かべ、立ち上がってティッシュペーパーを取ってくれた。わたしの頬に向けた指の仕草で、はじめて自分が泣いていることに気がついた。

 バツが悪く、肩をすくめて照れ笑いした。ティッシュペーパーで鼻をかむ。手の甲で涙をぬぐう。こんなとき悪びれたりしても意味がない。

「それでインタポールの方が、わざわざ会いに来られた意図は何でしょうか? もしかして、兄に国際手配でも出ているのですか? 日本を去ったのは、近所の噂話で家族に迷惑をかけたことが理由だと思っているのですけど」

「ここから先のことは、機密事項に抵触するのです。恐れ入りますが秘密保持書にサインをしていただけるでしょうか?」

 中原は、あらかじめ用意していたのだろう。数枚の書類をビジネスバッグから取り出した。

 仕事柄、こうした書類を見るのは珍しくもない。

 一定の書式で書かれた書類は、機密を漏らした場合の罰則事項などが記載されている。わたしは示された場所に手早くサインした。

「それではお話します。お兄様が出国した当時の記録を残してあります。二〇〇五年十一月に成田からジョン・F・ケネディ国際空港に向かっています。それまでは、横浜の中華街に住んでいました」

 二〇〇五年。

 兄が自宅から消えたのは、その二年前。では、二年ほどは横浜にいたのだ。

「横浜中華街でかくまっていた男は、彼が連続殺人の容疑者という正体をまるでわかってなかった。二年後、その男は溺死体で発見され、お兄さまは消えました」

「まさか、兄の正体が連続殺人犯ですって?」

「容疑者のひとりです。彼の周囲では、常に溺死が関わります。その論理的帰結です」

「兄が殺したというのですか?」

「断定するわけではないのですが。順を追ってみると明らかな事実が浮かびあがります。最初は母親です。彼女は溺死体で発見されました」

「まさか、母親を十三歳の息子が殺したとでも」

 中原はなにも言わなかった。ただ、しゃがれた声で咳払いした。

「香港警署が捜査に踏み切り、秘密裏に捜査員が日本へ派遣されました。インタポールにも捜査協力の依頼があったのです」

 そもそも兄が実家から逃げたのは、溺死体で発見された遺体が例の暴行事件の男で、実家周辺では大騒ぎになったからだ。

 その時も兄の関与が疑われ、近所で噂になった。

「あの子の兄よ」という、わざとらしい小声をよく聞いた。

 兄が消えてすぐ、母が自宅を引き払い引越しを決断したのは、近所の噂のためだとわたしは思っている。

 ──いつまでも、こんな馬鹿げたことに囚われるより、心機一転、あらたな場所でやり直しましょう。わたしたちは何にも悪くない。堂々と前を向いて逃げましょう──と、母は笑った。

 悪くなければ、なぜ逃げるんだろう。釈然としないが、母が逃げようと言った言葉に、ほっとしたのも事実だった。

「事件のことですが」と、中原が再び注意を促した。

 彼は真正面から見透かすような視線でにらんでくる。胃の痛くなるような時が過ぎた。わたしは、ゆっくりと心のなかで数字をかぞえ、自分を落ち着かせた。中原は畳みかけるように話してくる。

「お兄さまですが。国をまたぐ連続殺人事件として捜査対象になっています」

 目を閉じて、息を整えた。彼の顔を見続けるのが辛かった。

「連続って、つまり、どういう意味ですか」

「香港での未解決事件一件、日本では二件、米国では、それと認識されている事件が二件あります」

「日本で二件もあるのですか?」

「あなたが十七歳のときに起きた例の暴行事件の相手です。警察では溺死ということで、そのまま事故扱いとなりましたが、実際は違うと判断しています。それから、お兄さまがしばらく身を潜めていた中華街の店主陳氏も、やはり溺死で亡くなっております。彼は香港系の客家はっかの出身です。例の財団を保護していた人のひとりと言ってよいでしょう」

 わたしは軽く右手を上げて説明を止めた。兄を殺人犯と呼ぶ彼に、それがなんであれイライラしたし、怯えもした。

「兄を水瓶みずがめに沈めた、彼らですか?」

「正確に申し上げれば、違うのですが。単純に要約すれば、財団に所属する者たちと、それから、彼らを支援する人びとがいます。また、サフィーバ財団内にも急進派と穏健派があり、どのような組織でもそうですが、彼らのあいだにも軋轢があります。お兄さまを王、つまり最後の末裔として崇めているのは同じですが、その方法が違う。溺死した中華街の男はいわゆる支援している側の人間で、ジオンさまを保護していた」

「事故や自殺ではない証拠があるのですね」

「その件については捜査上の機密ですから申し上げられない」

「米国でもとは?」

「ニューヨークで二件、同じような条件の溺死例があるのです。すべてに共通していることは、溺死であること、それからジオンさまとの関係性の二つです。財団に発見されるたびに、彼は姿を消し、そこで死亡案件が発生するのです」

「つまり、兄を殺そうとしていたと」

「逆も考えられます。つまり……、タバコを吸ってもいいかな?」と、彼は生方に聞いて鼻をすすった。

「ここは禁煙です」

 にべもなく拒否した生方は続けるようにと彼を促した。中原は頭を下げ、それから、窓の方を眺めた。

「つまり、お兄さまが連続殺人犯なのです」

「わ、わたしは、遺体の身元確認のために呼ばれたのです。兄が殺人犯などあり得ません。あなたはジオンを知らないのです」

「あなたこそ、真の彼の姿を知っていたのですか?」

 もちろん、知っている。兄の孤独も、兄の秘めた優しさも、なにより、感情を押し込めたまま、ただ耐えていた兄。

 凡庸な男だ。いったい、他人の中原が何を知っているというのか。

 中原のような鈍感な男とは友人にはなれない。わたしに、そう感じさせるなんて、まったく稀有けうなタイプだと思う。

 わたしは友人が多い。

 話しやすく親しみやすく、誰とでも、すぐ打ち解けることができる。母もそうだった。おおらかでサバサバして温かい。年を重ねても精力的で、たぶん、わたしは幼い頃から母のようになりたいと思ってきたのだろう。

 心の奥に抱えた孤独とか、寂しさとか、そんな感情がわたしにあるとは誰も思っていない。

 黒城櫻子、三十五歳、十二月の誕生日を迎えれば三十六歳。

 まあまあ有能な弁護士で気楽で明るく裏表のない女性。それがわたしの立ち位置だ。

 だから、いつもの自分を演じるために特上の笑みを浮かべ、同時に裏の感情が爆発して彼をにらんでいた。

「兄に何をしたのでしょう? まさか連続殺人犯として追ったとは仰いませんよね」

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