外務省の男 3
日本語で話しているのに、まるで異言語を使っている気分になる。わたしと中原は噛み合わない。それは、兄に対するスタンスが真逆だからだろう。
「さて、ご遺体ですが、お引き取りに行かれますか?」
「アメリカってことですか」
「そうです」
「本当に兄なのでしょうか?」
「間違いないようです」
中原は少しだけうんざりした表情を浮かべた。
職業上、その気持ちは理解できる。
被害者や加害者家族にとって、事件は唯一のものであり、はじめて経験する異常事態だ。どんなに同情されても足りない気分になる。しかし、警察やその関係者にとっては何百と扱ってきた事件のひとつ。どんな悲劇的な事件だろうと、結局のところ仕事に過ぎない。
「もし、わたしが引き取りを拒否すればどうなりますか?」
「身元不明のジョン・ドゥ一三四号は、通常でしたら冷凍保存後、一定期間をすぎれば共同墓地に埋葬されるでしょう」
「アメリカで引き取り手はいないのですか? 彼がいなくなって、探す人、妻とか、恋人とか」
「在デトロイト総領事館からの連絡では、まったくありません」と、生方が申し訳なさそうに言った。
かわいそうな兄。あれほど非凡で美しい人だったのに、今は誰ひとり引き取り手もなく、寂しく無縁仏として葬られるなんて。
いったい、どんな生活をしてきたのだろう。
「では、わたしが引き取るとしたら、どうしたらいいのでしょう」
「こちらで説明いたします」と、生方がうなずいた。
彼から懇切丁寧に説明を受けた。ただ、どう答えて良いのかわからない。どうしても信じられないのだ。なにより、兄の人生を考えると、あまりにも切なくなる。
わたしは兄を愛していたと思う。たとえそれが思春期の淡い恋愛感情だったとしても。
──兄は……、わたしを特別だと思ってくれただろうか? それさえも問うことができない。ジオン、ジオン。わたしは、とても怒っているの、わかる?
兄は三十六歳になっている。わたしが知る十八歳の青年とは違うだろう。どんな大人になったのだろうか。
いや、重要なことは、そこではない。
兄が連続殺人犯?
悲しいのか、それとも、怒りたいのか、まるでわからない。思考が停止してしまった。
──逃げるときは、決して後ろを振り向くな。前だけ向いて走れ。
あの日の美しい横顔が今も心に強烈に刻まれている。
「では、デトロイトに行かれるのですね」と、生方が確認した。
「ええ、行きます。あちらに報告していただけますか」
「わかりました。領事館に連絡をして、ご遺体引き取りの手配をいたします」
「ところで、死因を詳しく調査したんでしょうか」
生方の話によると、デトロイト川で発見された兄の体は、長時間を水に浸かり膨張したまま、人の形を留めていないという。死後七日は過ぎていたとも聞く。
「ご遺族には申し上げにくいのですが、腐乱状態が酷くて、よくわからないのです。しかし、状況的には事故か、あるいは自殺という結論です」
「司法解剖はされていますよね」
「それは、事件性がない場合は難しいらしく。そもそもですが、数年前にデトロイト市は財政破錠したこともあり、市としての機能は回復してきましたが、実際のところ外国人にまで予算をまわす余裕がないのが現状です」
「都合がいい、言い訳ですね」
デトロイト市が財政破綻をしたのは二〇一三年。回復したと言うが、それでもと彼は続けた。
「デトロイトは昔から犯罪率米国一の都市として有名で、大きな事件でもない限り、なかなか本腰を入れてはもらえないのです。ご遺族には誠に申し訳ないのですが」
生方は疲れた様子でうなずいた。その表情は彼に似合っていた。当惑したような顔付きで、わたしを見ている。まるで、どこかで失敗したのかと自問自答しているようだ。
「ちょっとよろしいですか」と、中原が注意を促すように、しゃがれ声をあげた。
「先ほどの財団の話ですが、彼らは水を聖別して神聖化しています。王族の体に触れる液体を聖水という形にしているようです」
「それは、少し不気味ですね」
「王はとても重要な人物なのです。お兄さまの母親は栄華を誇った王族の末裔で、彼はその血筋、つまり教団にとって神聖とみなすべき人物のようです」
「つまり、兄は、もと王族と?」
「そうです。もう風化した歴史上の末裔なんですが。最後のお一人です」
「中国最後の王族って、清王朝ですか?」
「いえ、清王朝ではないらしく、もっと古いようです。詳しいことは財団関係者でないとわかりません。なにせ、秘密結社のような財団で、こういうケースでは内部の者しか詳細はわからず、表には出てきませんから。ともかく、清王朝から逃げた一族で香港に居をうつし、
わたしは、「ああ、そうですか。ええ、はい」とかなんとか、モゴモゴと返事をしながら動揺していた。
時に兄は想像上の人物だと思ったこともある。一方では昨日のように思い出すこともできる……。現実の兄は王であり、中原のいうことを信じれば、連続殺人犯だ。
「なんて申しますか、とても驚いています」
「ええ、そうでしょうとも」
中原が同情心あふれる表情を浮かべた。心から心配しているような様子さえ見える。それが仕事上であろうと、気持ちが和らいだ。
「しばらく、横浜にいてからアメリカに渡ったのですね。その後もアメリカにいたとしたら、たぶん不法移民になりますね」
「USAは日本人から見ると不思議な国でしてね。聖域都市という場所が昔からあります。不法滞在者を保護している都市を、そう呼ぶのです。全米で300都市以上とか、どうでしょうね、生方さん。あなたの方が、こういう事情は詳しそうだが、ニューヨーク市もそのひとつですよね」
「では、普通に生活できたのですね」
「サンクチュアリシティ(聖域都市)では、不法滞在していようと基本的人権は守られます。医療保険や住宅補償などなどの補償があるのです」
「そうですか……」
それから、生方からデトロイトにある総領事館の場所など、必要な情報を得た。
帰るときには省の玄関まで案内してくれ、外務省をあとにした。
彼らと別れると、背後からふたりの会話が聞こえてきた。わたしがいなくなり、リラックスした内輪の会話になっている。
「この度はお世話になりました」
「いえ、中原さん。総領事館の担当から連絡がありましたので……。ところで、中原さんは、警察庁からの出向でフランスのICPOに行かれたんですよね」
「まあ」
「フランスはどうですか?」
「来仏されたら、ご案内しますよ……」
声が遠去かる。振り返って見ると、夏の太陽の下で彼らはお互いに笑いあっている。そうだ、もう他人事なのだ。わたしがしっかりしなければ、兄はそのままになる。
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