外務省の男 4
法律事務所に戻ると、「所長が呼んでますよ」と恵子ちゃんに声をかけられ、上の空で手を振った。
「五月端先生に相談があるの」
それは単なるコジツケで、実際は彼の顔を見て安心したかったのだ。
五月端の個室ドアを乱暴に開けたが、彼は驚くこともなく、いつものように穏やかに笑みを浮かべた。
よほど、わたしの態度が切羽詰まって見えるのだろう。彼はデスクの背後から出てきた。そのとき、肘がデスク上の書類にあたり、パラパラとフロアに落ちていく。冷静で几帳面な五月端には珍しい失敗だ。
「ミチタカ」と、仕事場なのに名前で呼んだ。
「どうしたんだい」
「ねえ、ミチタカ。緊急で教えて欲しいことがあって」
「何かあったのかい」
「兄が、遺体で発見されたの」
「お兄さんが? あの行方不明になっている人かい? だが、まずは水を飲みなさい。外は暑かったろう。顔が赤い、熱中症になりそうに見える」
彼はコップに冷たい水を汲むと手渡してくれた。冷えた水をゴクゴクと飲み干し、口もとを手でぬぐった。
隣に立つと、わたしの背中に手をまわして、優しく三回ほど叩いた。その手が、あまりに温かくて胸が詰まり、何も考えずに腕のなかに抱かれたくなる。
「ミチタカ」
「大丈夫かい。酷い顔をしている」
「いろいろ複雑で……、ずっと会っていないのだけど……。もう、ずっと。アメリカのデトロイトで遺体が発見されたって。信じられない。本当に信じらないけど、外務省の人から聞いて。それで、検視のために司法解剖をしたいの。向こうでのツテはないかしら」
「さあ、すわって、それから、もういっぱい水を飲みなさい。それで、検視をしたいとか。不審な点があるのだね」
「兄は最後の家族で、ああ、ごめんなさい。わたし、今、冷静じゃなくて。でも行かなきゃ」
五月端は過保護なところがあり、米国へひとりで行くといえば反対するとわかっている。
わたしは彼にとって庇護すべき後輩であり生徒であり恋人であって、一人前の大人として扱われない。残念なことに、そういうところが母と似ていない。常に誰かの
そういう訳で、シワひとつない高級スーツを着こなした五月端から、予想通りの言葉が出てきた。
「櫻子、落ち着いて対処を考えてみたのかい」
「ええ」
「その結論が渡米とは、結論を急ぎ過ぎる。君は相変わらず、まったくもって直情的だ。デトロイトの中心部は昔から危険なところだ。大袈裟かもしれないが、信号が赤になって車を止めれば、事件に巻き込まれる。そんな物騒な街だと知っているのかい?」
五月端は不意打ちの出来事が苦手で、理路整然と生きていたい男だ。だから、感情的になることがない。こういう時、それが弱点にもなって、わたしは意識的に真逆の態度で、彼に対抗する。
「それは別にして」
「別にはできないよ」
「デトロイトに検視解剖をしてもらうツテがあるのかしら? 捜査することができるのか教えてほしいの」
「すべてのことを、取りあえず置いておくとして」
「すぐ、置いて、ミチタカ」
「そうした場合に、手助けとなる人間を知っている。しかし、櫻子」
後の言葉をまったく聞かずに、「じゃあ、連絡を入れて」と強引に言葉をかぶせて彼の手を強くつかんだ。
結局、いつものように彼はわたしの勢いに負けるだろう。
五月端は何か言いかけて、途中で思い直したのか、おもむろに手帳を取り出した。しばらくして固定電話の受話器をとる。流暢な英語で何回かかけ直してから受話器を置いた。メモ用紙にペンを走らせる。そこには連絡先とともに、ふたりの名前が書いてあった。
「この人たちに連絡するといい。最初にメモしたドクター佐藤は米国で司法解剖を勉強する日本人医師だ。ミシガン大学のメディカルセンターで仕事をしている。日本語が話せるから楽だろう。それから、次のコービィ・ウィリアムという男は、アメリカの海兵隊にいた男で、除隊後は警察で働き、今は私立探偵のような仕事をしている。役に立つ男だよ」
「信頼できるの?」
「その保証を完璧にはできかねるが、いわゆるバウンティハンターだ」
「バウンティハンターって……、賞金稼ぎってこと? 胡散臭い感じじゃない」
「日本の常識で、外国事情を計ると間違えることが多い。米国は昔からおたずね者を個人が調査逮捕してきた歴史があってね。私立探偵といえども法的資格を持っている。バウンティハンターは州公認の立場で捜査権を有しているから、収集した材料は裁判でも使える」
五月端は、どんなことでも腹立たしいほど詳しく、ちょっと上から目線で説明したりして、たぶん、こんな状況でなければ、そのドヤ顔がほほ笑ましいと思っただろう。
「ありがとう。どうしても本人か確認しなきゃ」
「どうやって」
「それは後から考えるわ」
「何度も言うが、熟慮が肝要だということを忘れないで欲しいんだが」
「心配しているの?」
「ああ、ここが事務所じゃなきゃ、お尻を叩いているところだ」
彼の言葉を無視して、所長室に向かった。
ドアを開けると、書類仕事をしていた所長は顔をあげ渋い表情を浮かべた。
すっかり忘れていたが、所長が呼んでいるとアシスタントの恵子ちゃんから先ほど聞いたばかりだ。
「お忙しそうでございますな」
いつながらの皮肉まじりの言葉。京都育ちの彼は、ひねくれた会話が得意で、それが魅力でもあった。人というのは面白いと思う。五月端は論理的に武装することで、所長は皮肉で武装することで対外的な自分を作っている。
だとすれば、わたしはどんな武装をしているのだろう。
「あの、所長。実は兄がアメリカで遺体となって発見されまして」
「それは……、また、大変な状況でございますね。しかし、ニュースには常に目を通しておりますが、そのような案件を寡聞にして存じませんが」
「事件として米国で扱われてないようです。要領を得ないのですが。どうも事故死したらしいのです。それを確認しに、アメリカへ行く許可をお願いしたいのですが。幸いにも、今、担当している案件に支障はありませんし」
「詳細について、お伺いしてもよろしいでございましょうか」
かいつまんで話すと、所長は「さようで、ございますか」と頷いた。その相槌には、否定と肯定という両方の意味合いが含まれると感じた。
「新しい案件があって、お願いしようと思っておりましたが」
「申し訳ございません」
所長の口もとが引き締まった。
「どうしても行かれるのでございますか」
「ええ」
「さようでございますか。即断即決、まあ、黒城先生らしいと申しますか。五月端先生とは正反対で、本当に絶妙な味わいのあるご関係でございますな」
彼は電話のボタンを押すと、「五月端先生に来てもらってください」と秘書に告げた。
しばらくして、ドアを丁寧にノックして五月端が入ってきた。
「お待たせしました」
デスクの前、戸隠所長の向かい側に端然と彼はすわったが、わたしはまだ立ったままでいた。
ここで、五月端に言葉を挟ませてはまずい。絶対だめだ。質問形式ではなく、あくまで決定事項として宣言するしかない。
「今、戸隠所長から休暇をいただいたところで、いつもご迷惑をおかけするけど、新しい案件をお願いしてもいいでしょうか。じゃあ、後のことは、よろしくお願いするわ。では」
「ちょ、ちょっと、待ちなさい」
わたしは速攻で部屋から逃げ、恵子ちゃんの所に向かった。
「恵子ちゃん」
「なんでしょうか」
「デトロイトまでの航空チケット、邪魔が入る前に予約して。できれば直行便で」
「直行便ならデルタ航空だけですね。了解しました」
「わたしは自宅に帰って荷物をまとめてくるわ。空いている便が取れたら、スマホに連絡してくださる?」
事務所を後にすると、すぐにメールが入った。さすが彼女。
[今日なら、ギリギリ十五時○五分発があります。ほぼ満席で、予約した後のキャンセルは無理ですが]
[予約を入れて。ありがとう♡]
メールが入った。五月端だ。
[まだ、デトロイトに行くことを納得しておりません]
さて、どうしたらいいのか。無視するか。それとも……。
[トンボ帰り致しますので、すぐ戻ってきます。数日の留守でしょうから]
長々と書いてもしょうがない。とりあえず、これで煙に巻けるとは思わないが。しかし、返信は戻ってこなかった。
自宅に戻りバッグに着替えを突っ込み、パスポートとコロナワクチン接種証明書を入れた。
[恵子ちゃん、あなただけが頼りよ。所長に有給休暇を五日分で書類を出しておいて]とメールを書き、スマホの電源を切った。
荷物をつかむと、成田エクスプレスに乗車するために走った。
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