第四章
危険 1
成田からデトロイトまではデルタ航空しか直行便がない。恵子ちゃんが、すぐ手配してくれて助かった。
なぜなら、わたしは慌てていたし、悲しみとか驚きとか恐怖とか、ありとあらゆる感情に押しつぶされそうで、冷静ではなかったからだ。
全力疾走で成田エクスプレスに乗ったあと、しばらく列車内を走った。全く意味のない行動、いっそ他の乗客に迷惑だが、それほど気持ちだけが泡立っていた。
なにはともあれ、ぶじに座席シートベルトを装着したときは安堵した。
滑走路から飛行機が離陸して空気が震える。ゴゥーという音が高鳴り、血液が泡立ち、ふっと座席が持ち上がる。気がつくと空の上。小窓から先ほどまで活動していた地上が模型のように見える。オモチャの街は非現実的で、人が生活しているとは思えなくなる。
十四時間後、わたしはデトロイト国際空港に降り立った。
荷物はキャリーオンだけ。荷物受け渡しのベルトコンベアー前で待つ人びとを尻目に、いち早く出口に向かう。
走らない、走らないと、心で唱えながら、入国ゲートへと足早に歩いた。
──空港で目立つ行動をしないように。とくに入国審査が終わってゲートを出るまでは走らない方がいい。あなたのことだから、せっかちに急ぐだろう。
数年前、五月端の下で扱った企業案件で米国出張した。その時、彼が伝えた注意事項だ。
大丈夫だと言うと。
──その根拠のない自信が怖いな。空港の管理室で荷物審査を受けるはめになるから注意するように。911以降は厳しくなった──と、困ったように頭をかいた。
五月端はわたしのことが心配でたまらないのだと思う。わたしは、まるで子どもが親に反抗するように、彼の言葉を一笑に伏しては、後で呵責の念にとらわれる。その感情が長く続いたことはないけれど。
いつからか、わたしは黒城櫻子という他人の人生を生きているかのようだ。
兄が去ったあと、心に傷をつけることが怖くて、常に第三者のように振る舞う癖ができた。
一緒に暮らしはじめる前、五月端は「君を幸せにしたい」と真剣な表情で告げた。
彼の陽だまりのような愛情は、時に安っぽい恋愛小説のようだが、その時、わたしには心から必要なものに思えた。
いったい誰が抵抗できるだろう。
メガネをかけた知的な風貌のいい男が、「君が必要だ」と照れたように吐露するとしたら。わたしは、ちょっとだけ罠に落ちたと感じたが。いずれにしろ、その罠は思っていた以上に甘く幸せな日々になった。
だからか、入国ゲートを前にして、五月端に黙って来てしまったことに気が咎めた。
「大丈夫よ、ミチタカ。日本で待っていて、すぐに帰るわ」と、思わず小声で呟いた。
ゲートの重く頑丈そうなドアがシューと乾いた音を立てて開く。
キャリーバッグの車輪をゴロゴロと鳴らし、ドアを通り抜け到着ロビーを歩いていく。このまま真っ直ぐにホテルまで行く。
いや、そのつもりだった。
と、ふいに大柄な男に二の腕をつかまれ、思わずのけぞった。
誰? 客引き?
『
聞き取りやすく綺麗な英語で名前を呼ばれた。
驚いて顔を見上げる。カウボーイハットを被る背の高い男がいた。コロナ用のマスクとサングラスをしている。
名前を知っているなんて、誰?
わたしの二の腕をつかむ手の甲は骨張っており、 Tシャツから出た腕は筋肉質で、鍛えあげた体つきだ。しかし、ゴツくはなく、どことなくエレガントな身のこなしで、いったい、どういう男なんだろう。
『誰ですか?』
ぶっきらぼうな声で、「Who are you?」という喧嘩腰の英語を使った。人目も多く空港警備員もいるロビーだ。恐れることはない。
『コービィ・ウィリアムだが』
『コービィ・ウィリアム?』
『そう、僕です』
『え? あ、あの五月端に紹介されたコービィ・ウィリアムさん? ウィリアムさん、では、まずは手を離してくださる』
例のバウンティハンターだろう。相手はこちらが知らないのが間違いだと言わんばかりに堂々としている。それにしても、なぜ、わたしのことが分かったのだ?
『はじめてお会いしたのに、よくわかりましたね』
『メイが、最初に到着ゲートから、ものすごい勢いで飛び出してくるブラック系の服を着た細身の女性が、
メイ? 誰? もしかして、五月端だから、五月でメイ? 状況が違ったら吹き出すとこだ。あの几帳面でしかめっ面の彼をメイと呼ぶなんて。笑えるけど、笑えない。
『五月端が、そんなことを』
『そうです』
『まだ、どうしてあなたを寄越したのかも、その意味がわからないのですが、ウィリアムさん』
面倒だとばかりに舌打ちする音が小さく聞こえた。
『では、ありがとう』と、わたしは断った。
『おいおい、どこへ行くつもりだ』
『ホテルに。バスを使いますから、どうか気にしないで。あとでご連絡します』
男が吹き出した。初対面で本当に失礼な態度だと思う。いや、わたしの方が失礼だけど、時差ボケのわたしを甘くみてはいけない。本当に五月端が紹介した男なのかと警戒もしていた。
いろいろな意味で、外国では神経質になってもなり過ぎることはない。
『確かに無鉄砲な人だ。大人しい日本女性だと思ったが。変わらない』
『どういう意味ですか? ウィリアムさん』
『コービィです。さて、今は午後五時です……。この時間ですと、シティに到着するのは早くても六時半過ぎになる。陽が長くて、まだ明るいが、アフターファイブに女性ひとりで、その上、ハイヒールに濃紺のワンピースというリッチな姿だ。まあ、ホテルまで何もなく行き着けたら、ある意味、奇跡かもしれない』
十四時間も気圧の異なる狭い空間に閉じ込められ、ただただ機内食を食べさせられたのだ。胃がもたれているし、体は怠いし、最高に気分が悪い。愛想笑いする元気もない。それに、この男が信頼できるかどうか、それも不安だ。
なぜかわからないが、この男、妙にわたしの感情をざわつかせる。
彼を無視して、空港地図に従ってバスターミナルに向かおうとした。そして、迷った。普段は方向感覚がいいほうだが、周囲が無機質な灰色の壁ばかりで、方向感覚がずれる。キョロキョロしていれば悪い奴に狙われそうだ。
後ろからノンビリした足取りでついてくるコービィにも苛立つ。わたしは立ち止まって、振り返った。
『いったい、何かしら』
『何とは』
『どうして、わたしの後ろを追ってくるの』
『契約ですから』
『契約?』
『聞いていませんか』
聞いてない。渡米を止められるのがいやで五月端とは話していない。後でメールしようと思うが、それも心が重い。
『聞いてないわ』
『簡単な話です。調査と警護を頼まれました。しかし、簡単なことだと思ったが、かなり厄介な仕事だとわかりました』
『厄介な仕事? どういう意味かしら』
『この警護です。あなたはかなり厄介な人のようだ』
思わず彼をにらみつけ、それから、数秒後に吹き出した。この男、図々しいが、細かいことを気にしない余裕のようなものを感じる。あきらかに面倒くさそうなところも笑える。
いったい五月端は幾らで契約したのだろうか。
『では、バス停を教えて下さいます』
『もし、よろしければ車でお送りいたしますが』
Would youを頭に使う馬鹿丁寧な英語だった。嫌味か、きっと、嫌味だ。外国語で、更に嫌味を感じさせるとは、いい度胸だ。
『それから、もし仮に危険を、それも僕に感じているなら、あなたは好みのタイプではないので、心配いりません』
思わず頰が赤くなった。なんの表情も変えずに嫌がらせを言われた? といっても、サングラスとマスクでは表情も見えない。それが不安なのかもしれない。外国であること、兄のこと、それも遺体で発見されたという事実に、日頃は人を信じやすいわたしだが、今は警戒心がマックスになっていた。
『では、あなたの顔を見せてちょうだい。サングラスとマスクで、まったく顔が見えない相手は不安だわ』
彼は小首をかしげた。
そして、何も言わずにマスクをしたままサングラスだけを軽く外した。その目は想像とは違った、奥二重の切れ長の目で美しく青い瞳をしている。
英語の発音が聞きやすいので、アジア系アメリカ人かと思ったが、ちがうのだろうか。そういえばカウボーイハットからのぞく髪は金髪だ。
『では、行きましょうか』
「こんなカウボーイハットを被った、脳みそのなさそうな男なんて、なんでミチタカは紹介したんだろう」と、日本語で毒づいた。どうせ意味はわからないだろう。
彼が振り返ったので、肩をすくめてほほ笑んだ。
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