危険 2
──最悪な状況で、非凡な行動ができる人がいれば、それは隠れた英雄なのよ。たいていは動揺して的確であるべき判断を誤るから──と、母が言っていた。
的確な判断とは何だろう?
わたしは的確な判断ができているのだろうか。
得体の知れない男が先を歩いている。まるで、わたしが後をついてくるのは当然といった無頓着な様子だ。ふと、その背中に
『まだ、遠いの?』と、耐えきれずに言葉をかけた。
『ああ、もう少しだ』
シルバー色の鉄箱みたいな頑丈なエレベーターに乗って、階上へ向かう。
むき出しのコンクリート壁に囲まれたデトロイト・メトロ空港。その駐車場は、ほぼ車で満杯だった。いま、この瞬間に銃撃戦をしながら大型車が走ってきても驚かない。そんな殺風景な場所だ。
コービィはのんびり歩いているが歩幅が広く、早歩きしないと置いてきぼりを食いそう。
ガラガラとキャリーバッグを引っ張る音がむやみに響く。
駐車場のまん中あたりに、古びた青色のピックアップトラックが駐車してあった。普通のトラックとはちがい、後部座席があって四人乗りになる日本ではめったに見ない形の車だ。
彼は、わたしのキャリーバッグを受け取り、乱暴に後部座席に放り込んだ。運転席に乗り込んでから助手席側のドアを開ける。
『サンクス』
タイヤを改良しているのか車高が高く、両手で懸垂するように体を持ち上げないと乗車できない。
疲れから力が入らず、ジタバタしていると運転席に乗り込んだコービィが手を伸ばして、引っ張り上げてくれた。その手が熱く、ヤケドしそうだ。
彼は、わたしがシートベルトを閉める前にバックしはじめた。この男は同乗者がいることをまったく気にかけていない。
これは五月端が決してしないことだ。
わたしがシートベルトをするまで、エンジンもかけない。安全を確認してから、ゆっくりとアクセルを踏むのが彼だ。
コービィのピックアップは、たぶん年代も古いのだろう、揺れも音もひどい。
その上、運転も雑で路面から突き上げてくるような衝撃がある。駐車場の床には減速ロードハンプがあり、越えるたびにガタンガタンと振動を受けるのだ。
『楽しい車ね』というのは、社交辞令で返事はなかった。
空港の駐車場を出て、すぐフリーウェイに乗った。米国の高速はフリーウェイと呼ばれ、文字通り無料だ。そのせいだろうか。日本の高速に比べると道路自体が汚い。片側三車線で路肩も広いが、アスファルトにヒビが入りゴミも多い。
そして、どこまでも続く平野は無機質に乾いて見えた。
一時間ほどのドライブ後、デトロイトの中心部に近づくと、フリーウェイの両脇に住宅が増えてきた。よく見ると窓ガラスが割れた荒んだ建物が多く、人の住んでいる気配がない。こんな遠くまで兄は何をしに来たのだろうと思ってしまう。
『ずいぶんと建物が崩れているわね』
『この周辺は……、以前は金持ちの地域だったが、金のある人間は郊外へ引っ越した。それでゴーストタウンのようになっている。残っているのは、明日の食事にありつくことしか考えない人間ばかりだ』
『人が住んでいるんだ……』
『ほとんどは無人だがね』
目をこらすと、日本なら邸宅のような大きな家もある。多くは壁が壊れ、木枠がみえ傾いている屋敷さえある。
高速を走る車は多いが、建物に人の住む気配が感じられない。
『この先はダウンタウンだ』
いつの間にかデトロイト市内に入っていたのだろう。しかし、街の中心部も、歩いている人がいない。ビルの壁が壊れ、ここもゴーストタウンのようだ。
コービィは無造作に車を飛ばしていく。
交差点に近づいた。
と、信号が赤になったが、ブレーキを踏む様子がない。
えっ!
信号無視して走るの? 次の瞬間、バンと音がして、座席がガクンと振動、車はスリップした。銃で撃たれたみたいな音だった。そんな音を聞いたのははじめてで、思わずシートベルトを外して、フロントの下に体を隠した。
『おい、何してる』
『銃で撃たれたの?』
彼は呆れたように、狭い空間に頭を隠したわたしを見た。意表をつかれたような、微妙な表情をしてから、皮肉を込めた微笑を浮かべたと思う。なんだか、マスクをしていても表情が読めた。
『タイヤが破裂したんだ』
『でも、すごい音が』
『なにか、ものすごい誤解があるようだ。アメリカにってことだが』
『例えば』
『例えば、常に銃撃戦があると思っていないかい』
『ないの』
『国内で戦争しているわけじゃない』
わたしは座席に這いずり上がった。
『タイヤがパンクしただけ……』
『銃で撃たれたわけじゃないが、しかし、パンクだけなら、ああいう大きな音はしない』
『じゃあ、なに』
『おそらく、何かを踏んでタイヤが裂けたんだろうな。ときどき、そういうイタズラをする奴がいる』
そんな冷静な声で話している場合だろうか。全米一の危険都市デトロイトの交差点で立ち往生ですって。わたしの警護が大変って言ったけど、今は警護されているわたしがマジで危ないと思う。
ガタガタと音を立て、路肩に寄ってピックアップが停車した。
『どうするの?』
『待っていてくれ』
彼は運転席から降りると、後部座席のシートを上げ、予備タイヤとジャッキを持って、外へ出た。
時計を見たら午後七時前、しかし、外はまだ昼間のように明るい。そして、誰もいない。車が横をすれ違っていくが、わたしたちに関心を示さない。
じりじりと時間だけが過ぎた。
わたしがドアを開け、外に出ようとすると、一台の車がすぐ手前に停車した。数名の黒人がバラバラと降りてくる
『ヨウヨウ、大丈夫かい、おっさん。手伝ってやろうか』
酷く訛りのある英語だった。言葉の半分くらいしか理解できない。数名? いや三人だ。派手なシャツによれよれジーンズを着た太った男たちで、いかにもたちが悪そうだ。
コービィは返事をしない。
わたしは助手席のドアを手に掛けたままでいると、一番小さい男がこちらに来て、強引に助手席のドアを開けた。
『困ってるだろ。ヨウ、ねえちゃん、助けてやるよ』
『結構……』と、言いかけた時、コービィの声がするどく飛んできた。
『ドアを閉めろ!』
わたしは両手でドアを引いた。ふいをつかれて、派手なニット帽を被った若い男が手を離した。
両手でドアノブを持ちながら、ドア鍵の場所を探した。
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