危険 3



 大男が、こちらに向かってきた。ニット帽の男を乱暴につき飛ばし、強引に助手席ドアを開けようとする。わたしはドアの取っ手をつかみ、必死で開かないようにしたが、簡単に開いてしまった。ドアから入った熱風が激しく顔を打つ。

 ああ、もうムリ、ムリだから。

 と、ふいに、車がバウンドするように揺れ、大きな音がしたと思うと『ギャッ』という男の悲鳴が聞こえた。

 同時にドアを閉じることができた。

 コービィがゴツイ男をはがい締めにしている。

 耳を塞ぎたくなるような音がして、男の顔が助手席側のガラス窓にひしゃげた。目玉が半分ほど押し潰され、ほんの数センチほどで、黒い肌の毛穴まではっきり見えた。ガラス面にべったりとくっつく男の顔、目から出た血が滲み出ていく。

「ヒッ!」と、声が思わずもれた。

 それが自分の声なのか、相手の悲鳴なのかわからなかった。恐怖で体の震えが止まらない。コービィの低い声が聞こえる。

『去れ!』

『おう、なんだよ。おっさん、親切に言ってんのによー』と、怯えたような声が別の方角から聞こえる。

 どうも形勢が逆転したようだ。

 いつのまにか大男から銃を奪ったコービィが、その銃を残りの二人に突きつける。

 いずれにしろ、どんな理由にしろ、理屈などない。わたしには暴力的な状況はムリだ。しかし、眼前ではムリな状況が続いている。押さえつけられ、なお大暴れする男が、車をガタガタ揺らす。

 目を閉じて見ないようにしても、バウンバウンとか、ビシビシッという音が車内に響く。

 ある種の男たちは、たとえば、プロレスとかボクシングとか、飛び散る血を見て歓喜するようだが、わたしには絶対にムリ、吐き気しかない。

 恐る恐る、薄目を開けて、「ひっ」と喉から音が漏れた。

 助手席の窓に押しつけられた男は、瀕死の魚のように目がつぶれ、そのままの顔で、わたしを睨みつけている。コービィが左手で彼の頭を押さえつけ、体重をかけてピックアップトラックに抑えつけているようだ。

 空いた右手で銃を持ち、空に向かって発射した。

 パンという乾いた音がする。

『オーケー、オーケー、わかった、ブロ』

 あやすような声で、残ったふたりは後退りして、なんと、そのまま仲間を置き去りして逃げた。

 それを確認したコービィは羽交い締めにした男の後頭部を銃のグリップで殴る。グッと小さくうめき、男はその場に崩れ落ちた。

 コービィが何事もなかったかのように、運転席に戻ってきた。息も切れていない。わたしのほうがハアハアと全身で空気を欲している。

 大男は、ひしゃげたカエルのような、ぶざまな姿で道路に横たわった。

『あ、あの、倒れた奴は』

『そのうち意識が戻るだろう。ここで面倒に巻き込まれるほうが厄介だ。怪我はないか』

 ピックアップトラックはスペアタイヤで走りはじめた。言葉をかけようとしたが、声が出ない。目撃した乱闘に震えが止まらなかった。

 わたしは自分の安全について、驚くほど無知だったのかもしれない。自分だけは襲われないと神話のように信じていた。安全な日本で、安全に過ごす方法を無意識のうちに常識にしていたのだろう。

『ごめんなさい』

『なんだい、急に』

『迎えにきてもらったのに、空港で失礼な態度をとったわ』

 コービィは肩をすくめただけで、何も言わなかった。

 五月端は彼とどう知り合ったのだろうか。

 企業法務弁護が専門であり、北米との取引きで顧問をすることも多い。その関係で知り合ったと思うが、どうにも接点が見えない。

 コービィから所帯じみた匂いをまったく感じないからだ。きっと家族はいないだろう。妻とか、子どもとか想像できない男だった。

『もうすぐホテルだ。比較的安全だから、部屋に入ったら鍵とドアガードをしておけば、心配する必要はない……』と言って付け加えた。『怖い思いをさせたが、心配しないでほしい。安全は守る』

 ピックアップトラックは巨大なビルが立ち並ぶ一角に向かっていた。

 遠くからは立派な高層ビル群に見える。ちょっと西新宿のオフィスビル群に似ているが、近づくにつれ、何かが違うと感じた。

 広い道路のためだろうか?

 いや、違う。

 アスファルトにはヒビが入り凹凸が多く、寂れた感じだからか?

 それも、違う。

 異質な何か。

 そう、歩いている人が異常に少ないのだ。

 途中で見かけた人間は汚れた服をだらしなく身につけ、ゴミ袋のような袋を引きずるホームレスのような男だけ。

 静かだ。

 風と車が通り過ぎるだけで、都会というのに静か過ぎる。時間のせいかもしれないが、ほとんどの店はクローズドしており、ショーケースは埃が溜まり、壁がひび割れた店もある。

 想像できるだろうか。

 汚れた高層ビルが立ち並ぶ人気のない通りを。この風景を眺めていると、世界が未来に向かって進化しているとは信じられなくなる。財政破綻した過去の街は、こういうものかもしれない。

 わたしは美しく発展した西新宿のビル街を思い出した。大勢の人びとが歩く活気ある東京の夜の街を。

 数分後、ピックアップはルネッサンスセンター内にあるホテルの車寄せに入っていた。

 ここはミシガン州では有名な高級ホテルだ。安全なホテルをと、恵子ちゃんに予約を頼んでおいた。商業施設もビル内にあり、その上、在デトロイト総領事館が同じテナントビルの十六階にある。

『マリオットホテルのロビーは入った三階だ。エレベーターで上がるといい。今後の打ち合わせは明日しよう。連絡するよ』

『ありがとう』

 わたしが、ぎこちなく手を振ったときには、すでに青いピックアップトラックは消えていた。そっけない男だ。

 空港を出て、今、はじめて息ができる気がした。軽くため息をつき、ガラガラと音を立てキャリーバッグを引く。

 ビルに入ると、彼の言う通りホテルの案内がすぐ目に入った。エレベーターで上がった三階がフロントだ。嬉しいことに、商業施設もホテルも荒廃した雰囲気はなく近代的で美しい。ビジネスマンらしい背広姿の人も見かける。ともかく普通に人がいる。それは、なんと安心感を与えるのだろう。

 マリオットホテルはデトロイトの中心地に近く便利な場所に位置している。

 一方ではカナダの国境に接するデトロイト川に面してもいる。

 ロビーのガラス窓から、海のように広いデトロイト川が望める。大河を挟んだ向こう岸は、もうカナダで川の真ん中が国境になる。

 デトロイト川。

 ──兄さん。この暗い川で溺れたのね。

 少し霧が発生しているようだ。

 兄を飲み込んだ川は、ようやく暗くなりはじめ、幻想的で美しいとさえ言えた。

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