危険 4



 フロントでキーをもらい、エレベーターで五十階にあがる。広いエレベーターホールを出ると、絨毯敷きの廊下は安っぽくはないが殺風景に見えた。

 誰もいない。

 まだ、心臓がドキドキしている。

 荒々しい暴力を前にした弱い人間は、たとえば、わたしのことだけど。しばらくは、その衝撃から立ち直れないもの、……てのは神話かもしれない。

 からっきし弱いくせに部屋で安心すると、コービィの鮮やかなチンピラ撃退劇に興奮した。まるで、自分がやっつけたかのように鼻息が荒い。

 ほっとしたという意味ではない。

 日本での生活は、ほぼほぼ安全だ。おそらく、世界中を探してもめったにない環境だ。

 安全だけではない。サービスも一流、電車は一分単位のスケジュールをこなすなんて普通のことで、どこも行き届いている。そういう国は少ない。そして、だからこそ逆に窮屈なところもある。

 この国は大雑把おおざっぱだからこそ、いろいろな意味で解放された気分になる。

 無意識にシャドーボクシングの真似事をしていて、それが大きなガラス窓にうつり、はっとして恥ずかしくなった。

 まあ、要するに、わたしは今、興奮していた。

 午後九時を過ぎ、ようやく暗くなった風景を眺め、無事に到着したことを祝いたくなった。

『ルームサービスでワイン一本、お願いします』と、頼んだ。

 天井まで届く大きなガラス窓から広い川面が見わたせる。

 対岸のカナダ側は河岸に沿った細長い公園で、移動式遊園地だろうか、人びとが集っているのが遠目に見えた。安っぽい裸電球が空中に飾られ、色とりどりの光を放っている。遊園地といえば、お約束の観覧車が廻っているが、巨大なものではなく、高さは五メートルくらいで、オモチャのようだ。

 それが逆に、なんとも言えない郷愁を誘う。

 雪が世界を白く隠すように、夜のイルミネーションは世界を美しく幻想的に隠す。

 興奮が冷めると、今度は感傷的になった。非日常に接して、わたしの感情は上に行ったり下に行ったりと忙しい。

 部屋にワインが届く。チーズがおまけでついていた。

 アルコールと、夜と、衝撃的な体験と。世界が湿り気を帯び、黒くなっていく。

 ──兄さん……。あなたもこの風景を見た? この国で、どんな人生を送ったの。幸せなことはあった?

 乾杯、兄さん。

 天国では幸せに過ごして。それから、母さんによろしく伝えて。兄さんのことを心配していたのよ。

 乾杯、兄さん。

 その夜、わたしは乾杯する理由を見つけては、つきる事なくワインを飲み続けた。




 翌朝、スマホの電源を入れると大音量に頭を殴打され、苦痛で飛び起きた。それは五月端からのメール音だった。

[無事、到着したのか連絡してください。大丈夫なのかい?]

 昨日から同じ内容で何度も届いていた。便利な世の中になったものだ。地球を半周する距離でさえ、隣にいるようにメールが到着する。

[無事、到着しました。すべて順調]と、なんとか返事を書いた。

[やっと、連絡をくれたね]

[ありがとう。時差ぼけが抜けて元気になったら連絡します]

[どうか、無茶はしないように。心配になる。くれぐれも突っ走らないように]

 頭痛薬や二日酔いの薬を探していると、再び電話が鳴り響いた。頼む、神さま、わたしを殺す気ですか。

「どなた、でしょうか」

「五月端弁護士から連絡いただいた医師の佐藤ですが」

 さとう、佐藤? あっ佐藤先生!

 ミシガン大学メディカルセンターの日本人医師にちがいない。

「そちらから、お電話いただけるなんて、本当に、あ、ありがとうございます」

「ご遺体が、こちらに届いていますので、ご連絡をしなければと思いました」

「お世話になります。本当に申し訳ないです。すぐ、そちらに参ります」

 男の声は誠実そうで穏やかだった。できる限り早く向かうと言って電話を切った。

 フロントに電話してアナーバーにあるメディカルセンターまでのタクシーを頼むと、スタッフが優しく、『それはお薦めいたしかねます』と言った。

 ここのスタッフは教育が行き届いている。常に笑顔でサービスが良い。チップのお陰もあるだろうが感じが良かった。

『アナーバーまででしたら、アムトラックという電車で十三ドルです。タクシーでは百ドル以上は掛かりますし、遠距離は運転手が行ってくれるかどうか』

『その、電車は安全かしら?』 

『電車は比較的安全なお乗り物で、アナーバーまでお使いになっても問題はございません』

『ありがとう、ご親切に。お名前は』

『シャーランドでございます。マム』

『ありがとう。ミスター・シャーランド』

 彼は、わたしのような彷徨さまよえる旅行者に慣れているのだろう。いい人だと思う。

 とりあえず、二日酔い用の薬を飲むと、今度は部屋の電話が鳴った。日本で仕事している時より連絡が多い気がする。

『コービィだが』

『コーヒーはいらないわ』

『コービィだ』

『わかっているわ、ミスター・コービィ』

『ロビーで待っている』

 急に吐きそうになり口元を押さえた。

 ワインを調子にのって飲み過ぎた。頭がガンガン鳴って薬の効きが悪い。もう、酒は止めよう。この誓いをこれまで、いったい何度したことだろう。

 わたしは着替えを持つと、洗面所に飛び込んだ。

 ささっと化粧水を肌になじませファンデーションを塗ったが、目の下にできたクマが隠せない。ま、いい。別にデートするわけではない。ここはアメリカだ。見知らぬ他人の姿を気にする人などない。

 粘っこい口に歯磨き粉を突っ込んで磨く。それから、ルージュを塗って、ロビーに降りた。

 昨日と同じカウボーイハットを被ったコービィが、椅子でくつろいでいた。長い足を持て余すように組んですわっている。

『おやおや』と、コービィが言った。

『女性は夜寝ると劣化すると聞いたが、劣化しすぎじゃないか』

 最初からそう思っていたが、ひどく失礼な男だ。

『コーヒーでも飲むといい。スタバで買ってこようか。それで、今日はどうするつもりだ』

『ミシガン大学のメディカルセンターに。兄の検視を頼んでいるのよ』

『では、車で送ろう』

『大丈夫よ、電車で行くわ』

 コービィは皮肉に口もとを歪めた。

『この国は日本とはちがう。公共機関の乗り物が時間通りに来ると思わないほうがいい。それに女性ひとりなら、タクシーだって安全なものばかりじゃない。昨日で凝りたろう』

 いずれにしろ、五月端が用意してくれた男なのだ。ただ、なぜか彼を使うのに躊躇ちゅうちょしてしまう。

『中央のロータリーに車を回すから。しばらくしたら、外においで』と言って、彼は立ち上がった。

 時計を見ると、午前九時。

 わたしは、玄関口のアプローチへ出た。通勤時間なのだろうか。今日は外を歩く人びとがいる。

 ぼんやり見ていると、例の青いピックアップトラックが停車した。

 わたしが乗り込むと、すぐにコービィはアクセルを踏んだ。やはり、シートベルトのことなど気にしていない。

『アナーバーのメディカルセンターでいいな』

『お願いします』

 車はデトロイト市内を走っていく。

 コービィは無口だが、要所要所で、建物の名前だけぶっきらぼうな声で教えてくれる。五月端もあまり話すほうではない。だから、このふたりが、どういう経緯で友人となったのか、本当に不思議な気がする。いつか聞いてみよう。

『あれが、デトロイトセントラルの旧駅舎だ。今は廃墟になっている歴史的な建築物だ』

 欧州の古い貴族館みたいな巨大な建造物だった。何層も続く三角屋根は、過去の壮大な美しさを教えていたが、今は寂れ、その上に鉄網で囲まれ、壁もガラス窓も壊れ廃墟になっている。

 実際に運行されている駅は、近くの平屋の小さな建物だという。その場所には列車が停まっていた。

『あの列車に乗っていくつもりだったかな』

『頑丈そうな列車ね』

 日本の列車のような愛らしさは露ほどもない。装甲車のような車体が線路沿いに見えた。

『定刻通りに出発することはないし、途中で止まることも多い。この暑さだ、線路の膨張で止まる可能性は高い。運が悪いと数時間は停車したまま車内で待たされることになる』

『それは困るわ』

 フリーウエイに乗ると、そこは昨日と同じような退屈な道になった。

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