危険 5



 デトロイト市から車で五十分ほど、フリーウエイを降りミシガン大学に向かう国道に入る。

 ヒューロン川を渡る鉄橋を抜けると景色が一変した。街路樹が道を彩りレンガ造りの建物が多くなる。まるで古いヨーロッパの街並みのような美しさに驚く。

 デトロイトが全米犯罪率一位としたら、ミシガン大学を有するアナーバー市は全米でも屈指の住みやすい街としてランキングされている。

 デトロイトで見た廃墟のような場所とは違う。道路沿いにある石造りの重厚なレストランは、外部に設えたテーブルで昼食を楽しむ家族がすわっている。まるで一幅の絵画のようだ。

 葉が生い茂った樹木が美しい道路を抜け、目的地ミシガン大学メディカルセンターに到着した。

 円形の車寄せから病院の正面に車を付ける。

 ミシガン大学附属病院は、日本のそれと比べてスケールが違った。ただ、バカでかいという意味でのスケールだが、それでも圧倒される。

 そもそもアナーバー市は大学街であり、街全体がミシガン大学のためにあるようなものだ。

『佐藤先生に到着したと連絡します。なんか、無事に会えるか不安になってきたわ』

『連絡先はわかっているのかい』

 雑にものが入ったバッグをあさり、やっと五月端のメモとスマホを探しだした。

『これよ』

 メモが見つかって、ほっとした。

 コービィが、やれやれという様子をしている。なぜか理由はわからないが、男たちは、わたしとしばらく一緒にいると、必ずこの顔をするようになる。わたしは哲学的境地から、こういう態度について深く考えないようにしている。

『見つかったのか?』

『ええ、待って。今、電話をかけるわ……。あ、はい、黒城です。先ほどはご連絡をいただきありがとうございます。ええ、はい。わたしです。わかりました。ええ、正面玄関で待っています。わたしの服装は白いシャツと黒いスラックスで、カウボーイハットの男と一緒です』

『車を駐車場に入れてくる』と、コービィが言った。

『あ、あの、いっしょに来てくれますよね』

『俺が一緒に行くと言う前に、すでにドクターにそう伝えていただろう。どれだけ自由なんだか』

『そこが数少ないわたしの美点なのよ。なぜか不思議だけど、皆わたしを助けたくなるみたい』

『まったく……』と、言って彼は先に行けというように右手を振った。

 颯爽さっそうと、わたしはピックアップトラックを降りた。カッコつけようと思ったのだ。が、二日酔いと時差ぼけと、ま、いろいろな理由から頭がぼうっとするし、眩しい日差しに目も眩んだし。一瞬、カクッと左足を取られてしまった。

 気のせいだと思うが、去っていくとき、コービィが吹きだしたように感じた。でもまあ、この体調でベストをつくしたと思う。

 ともかく、メディカルセンターの正面玄関まで辿り着いて待っていると、先にコービィが来て、さらに数分後にアジア系の男性が大股で歩いてきた。小柄で三十代前半の真面目そうな人、黒ブチの大きな眼鏡と白衣がいかにも医師らしい。

 カウボーイハットの男といると伝えたので、まっすぐにこちらに向かってくる。

「この度は、大変なことでしたね」と、佐藤は日本語で話しかけてきた。

 日本人特有の日だまりのような優しさ。その穏やかな声の調子とか、物腰とか、決して興奮しない態度とかが、日本なら普通のことだが、ここでは宝物のように感じた。

「お忙しいのに、すぐに検視をしていただいて感謝しています」

「いえいえ。ともかく、わたしのオフィスで話しましょう」

「兄の遺体は、今」

「後で荼毘にふす手配をしております。まだ、検視の後始末が終わっておりませんので、もう少しお待ちくださいますか?」と、言葉を濁された。

 佐藤はせかせかした足取りで病院内を先導して行く。

 エレベータで三階までのぼり、降りて廊下を歩き、途中で振り返った。それから頭を掻きながら、罰の悪そうな顔で戻ってきた。佐藤は通り過ぎた一つ前のドアを開ける。自分のオフィスを間違えたのだろう。なぜか、わたしと同じ匂いを感じて、すぐに好感を持った。

「汚いですが、どうぞ」

 雑多なものがごちゃ混ぜとなった部屋だった。棚のビーカーには細胞のスライスが並んでいる。

 部屋の右片隅に来客用なのだろう。ソファと椅子があった。

 ソファに座るよう案内してから、彼は書類を持って正面に座った。コーヴィは扉の近くに立っている。日本語で話しているので、いずれにしろ会話が理解できないだろう。

「最初に申し上げておきますが、僕は検視の専門家ではありません。ただ、病理学者の研究として検視をしているのです」

「はい」

「本来なら検視局にまわすべきだと思いますが。事故扱いということで、個人で検視をと、その認識で問題ありませんね」

「そうです」と、声に不安が混じるのを止められない。

「順を追ってお話します」

 いかにも学者らしい朴訥ぼくとつな様子で、彼は話しはじめた。

「ご遺体ですが、外部には目立った損傷は見当たりません。これは正確な表現ではないのですが。川水に浸かって七日くらいというのは警察の所見と同じです。遺体の膨張が激しく、皮膚が剥離して体表上はわからないという意味です。推測ですが、この場合の推測というのは仮定としてで、あくまでも実際の状況を見聞した訳ではないという意味ですが。長時間、水に浸かっていたため死斑はありません。死亡後二十四時間以上経過すれば、死斑は消滅していますが、そういう理由ではないでしょう。幸いなことに腐敗は、それほど進んでいませんでした。これもずっと川水に浸かっていた理由からでしょう。しかし、表皮剥離が著しく体表面での傷の確認は不明です。大丈夫ですか?」

「間違いなく、兄なんでしょうか」

「それを調べることはできません。DNA検査をするためには、血族の髪の毛や皮膚片とかが必要ですが。ありませんよね」

「ないです」

「ただ、検視でお伝えできることは、骨格的にはモンゴロイドの特徴があります。骨格からみれば、アジア系。内蔵などの様子から三十代から四十代くらいの男性ということは確定できます」

 あの美しかった兄が、おそろしく醜い姿になったということだ。

 わたしは助けを求めるようにコービィを見た。

 コービィは光を反射するサングラスをかけており、そこに自分の顔が鏡のように写っている。

 今にも倒れそうな不安な表情に、自分でも驚いた。

『俺が聞いておこうか』と、コービィが英語で言った。

 ここまで日本語で話していたが、佐藤先生も英語で返事をした。

『その方がいいかもしれませんね。詳細な報告書を作成いたしますから、それを落ち着いて読まれるということもできます。えっと、ミスター』

『コービィだ。黒城さん、無理をしないほうがいい』

 コービィの声に気遣いを感じた。

『わたしにとって大切な兄なんです』

『では、ご自分で聞かれますか』

『お願いします。専門用語だと英語ではわかりませんから、日本語でお願いします』

『わかりました』

 コービィが頭を軽く傾けた。まるで無理をするなと言っているようだった。彼を無視して、わたしはバッグから手帳をだして聞く体勢を取った。

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