危険 6




『コービィ、日本語では何もわからないでしょうから、後で、どこかで待ち合わせましょうか』

『メイから警護を頼まれている。気にしなくていい』

 軽くうなずき、佐藤に向き合った。

「では、日本語でお願いします」

「助かります。実は日本語を話すと、ほっとするんですよ。ああ、すみません、関係のないことを。さて、ここからが本題です。死因は溺死です。胃や肺にはデトロイト川に生息する微生物が大量に残っていました。特に十二指腸内にプランクトンが発生していたことから、川に入ったときには生きていた可能性があります……、大丈夫ですか? お辛くないですか」

「続けてください。あの、兄は運動神経がとても良かったのです。水泳だって、スポーツはなんでも得意で、……溺れたとは信じられないのですが」

「理由はわかりませんが、その場合の仮説があります。そこは後ほどということで。さて、水中では毛細血管が長い時間をかけて収縮を起こします。また、体が膨張した結果、皮膚離脱の、専門用語は難しいですか?」

 素直に頷いた。米粒ほどのプライドで知ったかぶりしてもはじまらない。

 ともかく、わたしは兄の酷い状況を聞いても痛みを覚えなかった。あまりに無感動で恥ずかしくさえあった。きっと形ばかりでも悲しむべきなのだろう。しかし、十九年ぶりに知った兄を現実として受け止めるには、時間が短過ぎて、あるいは、時間が長過ぎて、現実味がない。

「少し噛み砕きましょう。川で亡くなった場合は、水の流れで体が動くので、死斑が出にくいのです。また、水中では体が時間経過に従い膨れ上がり、皮膚表面の皮が剥がれていきます。こういった点を、今回のご遺体で検証しますと、溺死であることを間違いなく裏付けています。また、皮膚の剥がれ具合から死後七日くらいというのは正しい結論です」

 やはり自殺なのだろうか。淡々と説明する佐藤は表情を崩さない。

「ところで、中指を怪我したのでしょうか、絆創膏を貼っていたので、そこに残った皮膚で指紋採取を試みました。デトロイト市警は財政破綻で人手が足りない状況が続いています。事件性がなければ、おざなりの検視で詳細な調査はしません。ふやけて皮膚表皮が剥がれていたところに、グリセリンを注入して指紋採取などという手間をかけなかったと思います。ともかく、これで、指紋がうまく取れるか試してみました。微妙ですが、なんとか形にはなっています。あとは、おそらく公の機関にある指紋と照合してみるといいと思います。指紋が残っているといいのですが」

「データであるんでしょうか」

「ええ、後でお渡しします」

 兄は米国に入国したとき、外国人として指紋採取をしたはずだと思う。だから、そのデータを手に入れることができれば。ただ、かなり昔なので残っているかどうかはあやふやだけど。

「ありがとうございます。ところで、先生のご判断では、兄は事故か自殺でしょうか」

「警察署では、事故という結論だそうです。確かに外部の所見から判断すれば、その通りです。おそらく、溺死の兆候があり外部に損傷もないとなれば、しかし」

「しかし?」

「ひとつ引っかかることがあります。実は薬物吸引の可能性があります」

 まさか、ジオンがドラッグ中毒のあげく川で溺れたなんて、自殺は最悪だと思ったが、これはそれに匹敵する。いや、それ以上に最悪だと思う。

 米国まで来た理由のひとつは兄の生活を知りたかったからだ。もう十九年も会っていない。いっしょに過ごしたのは五年しかないが、その短い期間でも兄は家族であり特別な存在だった。だから、幸せに生きてほしかった。

「ドラッグの常用者という意味ですか」

「メスという薬物を発見しました。血中で、かなりの量が反応しています」

「メスとは、なんでしょうか」

「コカインとは違うのですが。今、米国で流行しているドラッグです。大量に吸引すれば、朦朧もうろうとして前後不覚になります。おそらく、メスを吸って川に落ち、溺死したとしても、まったく驚かない量を吸引していました」

「では、ドラッグ中毒だったと」

「常習者の典型的な体的特徴が出ています。薬物常用者は骨が脆くなったり、特に歯が簡単な言葉で表現すれば、ボロボロになります。彼の歯にはその兆候があります。お兄さまは、確か、三十六歳のはずですが、この歯は六十代といっても不思議じゃない」

「では、そのメスとかいうドラッグを吸ったことで溺れたと」

「そういう結論になります」

「吸わされた可能性も」

「否定はできません」

 単なる事故で川に落ちたということだろうか。本当にそうだろうか?

 予断を許すなと、五月端なら説教しそうだ。わたしは弁護士だ。真実に見える嘘が必要悪として存在することを知っている。

「兄に会えますか?」

 佐藤はスマホを確認してから立ち上がり、うなずいた。

「こちらに。霊安室にご案内します」

 病院内の地下にある霊安室に案内された。ふだんは患者が死亡した場合に運ばれる場所だと佐藤が説明した。

 部屋は悪臭を消すためだろうか、消毒薬の匂いがきつい。

 木箱の前で合掌してから、佐藤が顔の部分の蓋を外した。

 近寄ろうとしてよろめき、コービィが肘を支えて倒れるのを防いでくれた。礼を言う力もない。

 木箱の顔を見た。わたしは兄に触れることができなかった。

 皮膚が剥がれ、目玉が剥き出しとなり、鼻の骨が浮き出ている。あの美しい顔は醜く黒ずみ、人の顔とは思えない。

 ──逃げるときは、決して後ろを振り向くな。前だけ向いて走れ。

 別れの日、ジオンはそう言った。

「バカね、ジオン。逃げそびれたの?」

 泣けなかった。声も出ない。あれほど会いたいと渇望し、あれほど捜しまわり、未だに背格好が似た男を見ると確認してしまう自分がいる。

 十九年。

 何度も何度も、見知らぬ他人に声をかけ、兄と違うと知って落胆してきた。

 わたしは棺桶のふちに手を置き、その場に崩れ落ちた。

 コービィが肩に触れようとしたが、『触らないで』と、低く唸った。

『ひとりにしてください』

『しかし』

『お願い。しばらく、兄とふたりにしてください』

 ふたりは逡巡したようだが、何も言わず霊安室を出ていった。

 わたしはひとりになって、叫ぶような悲鳴をあげているのに気づいた。一度、叫ぶと止められなくなった。兄さん、かわいそうな兄さん。なぜ、こんな姿に。

 涙が溢れる。

 しばらくして、霊安室を出ると、コービィが壁にもたれて待っていた。

 彼は黙って二階のカフェに連れていってくれた。思い過ごしかもしれないが、優しさを感じる。

『お兄さんとは、もう十九年も離れていたのだろう。本当の兄でもないと聞いているが』

『ええ、そう』

『そんなに悲しむことなのか』

 彼の表情はマスクでわからない。

『兄は、わたしにとって、かけがえのない人で、一度だって忘れたことはない。ずっと探していた。とても大切な人なのよ』

 彼は下を向いて首を振ったが、なにも言わなかった。

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