第二章
血のつながらない兄 1
藤川綾乃の事件があった十数日後、事務の佳子ちゃんがドアをノックして顔を出した。表情がやたらと硬い。
「黒城先生、やらかしました?」
「どういうこと?」
「外務省海外邦人安全課とかの
「外務省? そう、でも、なにもやらかしてないけど……、いいわ、つないで」
外務省から電話が来るなど理由がわからない。しかし、ちょっとだけ藤川綾乃(
彼女とは関係ないから、言いがかりだったら撃退してやるという勢いで受話器を耳にあてると、「もしもし」と、男性の渋く素敵な声が聞こえてきた。
いい声だと思ったとき、ガラス越しに恵子ちゃんが指を丸めて合図した。彼女も声に惚れたなと苦笑いが浮かぶ。
「
「ええ、そうです。わたしですが」
「
嫌な予感は別の意味で的中した。
兄と別れて二十年弱、まったく消息がわからなかった。兄の存在は遠い昔のようでもあり、昨日のことのようでもある。
「ええ、……兄ですが」
「国際警察機構から連絡がございました。米国デトロイトで、ジョン・ドゥ一三四号として発見された身許不明のご遺体が、どうもお兄さまらしいのです」
「ジョン・ドゥ?」
「あちらでは身元不明の遺体に番号をつけます。男性ならジョン・ドゥと、女性ならジェーン・ドゥとします」
「ちょ、ちょっと待ってください」
──落ち着け、わたし。落ち着け、わたし。落ち着け、わたし。
「なぜ、米国の身元不明遺体で連絡が来るのですか」
「ご遺体が所持していた古い邦人パスポートが期限切れの白川ジオン氏のものでした。詳細につきまして、こちらでご相談したいのですが。かなり込み入った事情のようです。国際警察機構からも連絡を受けております」
その声は低く落ちついていた。声がいいだけに、いっそ不吉ですらあった。
遺体、込み入った事情。なんともお役所的だが、わたしは息が止まりそうだ。
兄が、まさか……。体が熱を帯び顔に嫌な汗が吹きだす。
「すみません、よくのみ込めなくて、兄とは二十年近く音信不通で、どこにいるのかさえも知りません」
「ご両親さまが、すでに他界されていますので……」
電話の向こうで沈黙した生方は、ひと呼吸おいて続けた。
「唯一の親族である黒城さまにご連絡した次第です。在デトロイト総領事館からの連絡事項ですが、遺体はアジア系の男性で、三十代から四十代の間とのこと。そして、白川ジオンさまの旧日本パスポートを所持されています」
「すみません。あの」
「お電話ではなんですので、こちらにご足労いただくことは可能でしょうか」
「その、兄と思われる人。そのどこで発見されたのですか?」
「米国ミシガン州デトロイトの河岸です。詳細については、後ほど」
受話器を置くと同時に膝が震えた。デトロイト……。
……兄が死んだ。
なんということだろう。なんと、それは現実感がないのだろう。
これが嘘であってほしいのだろうか、それとも、逆に真実であってほしいのだろうか。自分の気持ちがわからない。
わたしは兄と血が繋がっていない。義父が亡くなった今、兄に血縁関係のある親族はひとりもいないはず。
それでも、ジョン・ドゥ一三四号なんて、あまりに悲しいと思う。
兄にはじめて会ったとき、わたしは十二歳で兄は十三歳だった。香港へ所用で出かけた義父が兄を連れて帰ってきたのだ。
義父の背後で玄関に立つ痩せこけた少年、それがジオンだった。彼はなんというか、十三歳で子どもだったが、大人のようでもあった。
ひ弱な感じではなく、野生の狼のように凶暴な雰囲気で。ヒョロヒョロと伸びた体に汚れた白シャツを着て、ボサボサの髪は何ヶ月もまともに洗ってないようだ。
「部屋へ入ろう。わかるか? 家で食事。食べる、Eat、
「う〜〜」と、少年が低い声で唸る。
白目は血走り、喉仏が上下して、口もとが強張り、首に青筋が立っていた。なにより異様なのは、その瞳が黄色に輝いて見えたことだ。
そのままの姿で、いっこうに中に入らない少年に、母がキッチンからおにぎりを作り持ってきた。
「さあ、食べて、お腹が空いたでしょう」
兄は、するどい目つきで睨みながら、匂いを嗅いだ。次に母の手から、おにぎりを奪い取り、まるで野生動物のように周囲を警戒して、玄関の扉を開けようとする。
ガチャガチャという音だけが響く。
扉を内向きに引っ張るので開かない。開け方がわからないようだった。すぐに諦めると、
暗闇で再び兄の目が黄色く光ったような気がした。
それが、母と事実婚をした男が連れ帰ってきた少年だ。呆れたことに義父は過去の恋人が亡くなるまで、息子の存在を知らなかったらしい。まあ、そんな愛すべき
相手の女性は、義父と別れたとき
そして、中国へ返還された年、女性は溺死して、兄が日本にあらわれた。
今から思えば、実家は複雑な環境だったと思う。幼いわたしが普通だと思っていたのは、そういう環境しか知らなかったからだ。
若死した実父をほとんど知らないとか、新しい父のことを母に聞けないとか。そういうもの全部をひっくるめて疑問に思わなかった。わたしは家族が好きだった。とくに母はわたしの理想像でもあった。包容力にあふれ、時に皮肉屋で、とても魅力的な女性だったのだ。
母は一級建築士として小さな設計事務所を経営する建築デザイナーで、主に一般住宅の設計をするやり手の女性。大手ハウスメーカーと年間契約をしていたので、収入は安定している。
義父とどう知り合ったのかわからないが、母にとって彼は夫ではなく妻だった。
今から思えば、義父は女が
「母親が亡くなってね。こちらに引き取ったんだが」と、義父は心から申し訳なさそうに言ったものだ。
兄を見て母は複雑な思いを抱いただろうか。
どんなに汚れても、その人並みはずれた端正な
とくに強烈な印象を与えるのは、その瞳だ。光の加減で黄色く見えることもある特徴的な茶色の目は、死んだ人間のように冷たい。母は、その美しすぎる顔に女の面影を見たにちがいない。だが、これだけは確信を持って言える。母は、それを気にも止めなかっただろう。そんな温かく豪快な女性でもあった。
「なんともはや、どんな育ち方をしたのかしら」と、母は嘆息しただけだ。
「すまない」
「いいのよ。かわいそうな子だわ。日本語もわからないのでしょう」
「ああ、英語と中国語しか話せないはずだ」
わたしは少年に言葉をかけることもできず、固まっていた。
彼の指、爪が黒く汚れギザギザに割れている。洗っても落ちなかったにちがいない。これまでどんな生活をしていたか、容易に想像できる
「櫻子、兄さんを部屋に連れて行ってくれないか。母さんと話がある」
「わかった。こっちよ」
少年は黙ってわたしを見た。
「日本語がわからないんだ。名前はジオンだよ」
「ジオン」と言ってから、兄さんと呼ぶか迷った。
それで立ったままの少年の袖をひいた。なぜか、そうすることで何かから彼を救い出したいと思った。廊下の先に来ても、両親の声が聞こえ、しばらく、耳をすませた。ジオンは、黙って立っている。
「あの子のことは本当に知らなかった。すまない、こんなことになって」
「本当にあなたの子なの?」
「たぶん、僕の子のようだ」
「そう……」
そうやって、ジオンは家にやって来た。
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