美しい依頼人 5



 砂利の敷き詰められた石畳のアプローチ。途中で初老の男が出迎えるように玄関から出て来た。着崩した絽の着物は色落ちしており、庶民的に見えた。

「おう、おうおう」と、男は両手を広げ陽気な声で笑っている。

「よう来られた、待っとったでよ。あんたが、戸隠法律事務所の黒城先生なんかい、お綺麗な方だわ」

「この度は……、あの」

 陽気な老人は、「まあまあ、堅苦しい挨拶は置いといて、妻のことで、ワシに会いに来なさったのかい」と、言った。

「ええ、あの藤川拓次郎さまに、ご在宅でしょうか」

「わしが藤川拓次郎だわ」

 白髪が交じった頭を左右に振りながら、顔をくしゃくしゃにして笑っている。妻を失ったばかりとは思えない態度で。いくら愛人がいて、子供ができたからといって、少しは悲しむふりをして欲しいと思う。

 これがあの品が良く色っぽい綾乃の夫なのだろうか。外見だけの印象なら、親子ほど年が違って見える。

「はじめまして。戸隠法律事務所の黒城櫻子と申します」

「かたっ苦しい挨拶はええで、ええで」

 彼には、その場の空気を一息に吸い寄せる能力があるようだ。その勢いに、思わず狼狽ろうばいしたわたしは、気がつくとペースに巻き込まれていた。しっかりしようと思いながらも、彼の姿はどこか滑稽で、つい親しみを覚えてしまう。

 五十九歳のはずだが、小柄で白髪が多いせいか、年齢より、ずっと老けて見えた。

 ──ご主人に魅力を感じてらっしゃるんですね──という問いに綾乃は頰を染めた。その相手がこのジジィ。

 わからない。人間とは本当に不可解なものだ。

「この度は、ご愁傷さまで……」という言葉に被せるように、「はあ、よう来られた、まあ、そんで、まあ」と、ジジィが話しかけてくる。

 人の話を聞かない男だ。ただ綾乃が言っていたように、他人を惹きつける魅力は確かにある。

「さて、どんなお話じゃか。とりあえず、座敷にあがってちょ」

 彼はわたしの話を聞かずに、強引に座敷へと通した。玄関から渡り廊下を抜け、障子を開けて入る昔ながらの広いタタミ部屋である。

 真ん中には大型の卓が置いてあった。

「遠慮せずに、かけてちょ。それで、お嬢ちゃん、用件はなんだったかね」

「お電話でお話したように、込み入ったことなので、大変にご迷惑とは存じますが、こちらにお伺いいたしました。奥さまのことですが。実は調査依頼を受けておりまして」

「電話で聞いた調査依頼かや。それは面白いでねぇか」

「あの、面白い話ではなく……」

「ちょいっと待ちや」と、途中でわたしを遮り、藤川拓次郎は大声をだした。

「おーい、おまえ」

 その声で、渡り廊下から反対側のふすまが開かれた。向こうも畳部屋になっており、端正な女性が正座していた。

 彼女は、その場で一礼すると、膝をつかって中へとにじり寄り、襖を閉じる。まさに完璧な礼儀作法を身につけた品のいい女性だ。

 この人にどこかで会ったことがある。そう思った瞬間、立ち居振る舞いの品の良さが、藤川綾乃に似ていると気づいた。綾乃にあった儚げな風情とか、美しい容姿はまるで違うが雰囲気は酷似している。

 藤川のざっくばらんな態度を見て気を許していたが、彼女の登場で思わず背筋が伸びた。

「おまえ、法律事務所になんの依頼をしたんかね」

「あなた、落ち着きになってください。失礼いたします、粗茶ですが」と、女性は卓のついた湯呑みをテーブルにおいて、ほほ笑みながら言った。

「それで、どういう意味でしょうか。わたくしは調査も依頼もしておりませんけれど」

 話が妙な方向へいっている。わたしは態勢を立て直そうと粗茶を見た。こんな奇妙な状況は予想もしていなかった。

「いえ、奥さまのご依頼なんです」

「だから、奥さまに聞いとるがね。ワシに黙って法律事務所に依頼とは、なんでや」

「奥さま?」

 それから、わたしたちは一連の奇妙な、ある意味、笑える寸劇を演じることになった。事情がわかったとき、わたしは赤面し、藤川拓次郎とその妻は驚愕した。

 藤川綾乃は確かに彼の妻だが、彼女は生きていて、品よく座敷に茶を運んできた人物だったのだ。

 それでは、わたしの出会った女性は誰なのか?

 スマホで件の記事を見せると、彼らは一様に驚いた。同時にわたしも驚いた。今読むと、ニュースに藤川綾乃は身もと不明と書かれている。

「どえりゃあことで、なんちゅうか、ワシには全く見当もつかんこった」

「申し訳ございません。調査の委任状をご覧ください。このようにご自宅の住所とともに、ご依頼がありました。事務所には調査料が振り込まれており、それをお返しすべきだと思い参ったわけです」

「奇妙なこともあったもんだ。実は、今朝方も警察、どこの警察じゃったか。奥さまは在宅かと聞かれたんだが、妻が出ると、確認して切れたんじゃ。つまり、そういうことじゃったか。その妻を名乗った女性の写真はあるんかね」

「事務所の監視ビデオで撮影されています。ちょっと、お待ちください」

 わたしは恵子ちゃんに連絡して、綾乃の画像をメールに転送してくれるように手配した。写真が数枚、添付されて戻ってきた。

「この女性です。とても品のいい美しい女性でした」

 藤川拓次郎は写真を見るなり、驚いた表情を浮かべた。

「これは? この子は……」

「ご存じですか?」

「ああ、知っちょるよ。香港から来た子だ。なあ、おまえ、なんちゅう名前だったかの?」

「わたくしにも、お見せくださいまし。ああ、じゅうさんですよね」

「そうそう、朱さんだ。たしか、そうじゃ、思い出したわ。朱常浩じゅうちゃんはおさんだ。ある財団を調べていると言って香港の知り合いから紹介されたんじゃ。香港人にもかかわらず、そっちゃ系の訛りが全くなくて、丁寧な日本語を話す子だったなぁ。しばらく、手伝いとして屋敷にいてのう。あんげないい子が、なんちゅうこった」

 藤川は目を細めて、単純に驚いていた。一方、わたしは言葉を失った。本物の妻である女性を目の前に、まだ成り行きが信じられない。

 朱さんって。

 いったい、どんな理由から、法律事務所に来たのか……。

 そう思ったとき、ニセ綾乃が恥ずかしそうに、「アレがなくて」と言った声を鮮明に思い出した。

 目の前の好々爺を前にして、アレがないって。

「どうなさったかい」

「いえ、あの、その。あまりのことに呆然として……、例のアレじゃなくて、アノ財団とは何ですか?」

「財団かね。あまり詳しくはないが、父の代からの古い知り合いがいてのう。まあ、日本もそうじゃが、中華には古い歴史があるんじゃ。その財団は王朝の子孫を守るとかいう秘密結社みたいなもんで、なんちゅうた?」

「サフィーバとかでしたかしら」

「おお、そうそう。歴史からは忘れられたカルトに近い集団じゃよ。サフィーバ財団、彼女はその財団に関係していた。なんでまた、妻の名前をかたったのかのう。よお、わからんが、警官じゃったよ」

「警官? フジカ……。いえ、その朱さんは警官だったんですか?」

 警官って? 綾乃から受けた印象から、警察関係者とは全く予想もできなかった。目の前に品よくすわっている奥方と容姿は違うが、双子のように仕草や所作が似ている。

「そうじゃよ。朱さんは香港警署から派遣された、日本流に言えば婦警じゃったよ。刑事情報科とかいう部署だった? いや、ちがったかの? 記憶がないわな」

「なぜ、そんな人がわたしのところに、浮……、いえ、相談に来たんでしょうか」

「なんでかのう。おまえの方が知っているだろう」と、藤川は妻を見た。

「さあ、わたくしは何も。ただ、連続殺人犯を追うのが仕事とか、ぽろっと漏らしたことが、それから、なんでも犯人を追って米国のデトロイトに行くとも言ってましたけど。とてもしっかりして、あっさりした女性でした」

 あのネチネチした女らしい華奢な女性が、あっさりしていた? では、品のよい金持ちの主婦を、ただ演じていただけか。いま、目の前にすわる女性をモデルにして。それにしても、よく似せたものだ。

「あっさりした女性でしたか」

「ええ、とても真面目な子で、あの子が……。なんてまあ、かわいそうに。まだ三十歳になったばかりでしたよね」

 頭を振るしかない。完全に騙された。

 この事態は手に負えない。あまりに荒唐無稽で、早々に失礼を詫び、ほうほうの体で屋敷を後にした。

 これまでの弁護士人生で、これほど奇妙キテレツな案件ははじめてだった。

 事務所に戻って、所長に報告をして、五月端から大きな包容力で慰められ、恵子ちゃんと、ひとしきり呆気に取られてから、丸ノ内署に連絡を入れた。担当した警官は名前しかわからず困惑していたという。

 のちに事情聴取の依頼が来た。

 てん末を話すと、「ご協力感謝いたします」とだけで、その後は何の連絡もない。

 それから、ときどき綾乃のことを思い出すようになった。

 いったい、彼女は何をしたかったのだろう。わたしに嘘の経歴まで作りあげて会いにきた理由は? デトロイトへ行くことも嘘だったんだろうか?

 彼女を思い出すと兄を思うのは、おそらく、兄の母親が同じように溺死しているからだろう。

 釈然とはしないが、納得するしかなかった。こんな仕事をしていると、釈然としないことなど、山のようにある。その度、わたしは、ただ首をふってやり過ごしてきた。

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