美しい依頼人 4
戸隠所長からの連絡でたたき起こされ、スマホのスピーカーをオンにした。
「……。もしもし、戸隠所長。いいえ、起きておりました」
「黒城先生が、ご相談を受けていた藤川綾乃さまのことですが。最後にお会いになったのはいつでしょうか」
「藤川綾乃さん? パソコンで確認しないと、でも、もう一週間以上は前だったような」
「さようでございますか。警察から連絡がありまして、水死体で発見された藤川綾乃さま名義の携帯に事務所の電話番号があり、黒城先生の名前が登録してあったのです。先ほど丸ノ内警察署から連絡が来たのでございます。どうもお亡くなりになったのでございますよ」
「え? なんとおっしゃいました?」
「藤川綾乃さまが溺死体で発見されたと。すぐに事務所に来てくださいませんか。今後の対応など、一応、お話しなければならないかと」
「す、すぐに向かいます」
一気に眠気がふっとんだ。
事務所に到着してすぐ、戸隠所長からプリントアウトしたネット記事を渡された。
『……時、丸の内警察署は隅田川の支流で、身元不明の女性の遺体を発見したと発表した。発見された女性は、三十代から四十代の女性。淡い色の花柄ワンピースを着用していた』
写真もない小さな記事だった。
「わかりました。対応します」
「よろしくお願いしますでございますよ。問題がございましたら、すぐ相談してください」
私室に向かう途中、恵子ちゃんがエレベーターから降りて来た。彼女も所長に呼ばれたという。
「恵子ちゃん。至急、振込みの明細を見て。もしかして、藤川綾乃さんから新たにお金が振り込まれていない?」
「ちょっと、待ってください」
隣室の小部屋から、キーボードを叩く音がして、それから、すぐに恵子ちゃんが顔を出した。
「先生。超能力者ですか? 今日付けで十万円の金額が振り込まれています」
「そう、十万円。二十時間分の調査ってこと?」と、上の空で返事した。
「郵送物は?」
「待ってください。ああ、郵便物が書留速達で届いてます。時間指定の郵便物ですが、あっと、藤川綾乃さまからですね」
「中身をあてるわ。調査を頼む依頼状よ」
「やっぱ、預言者ですか、先生」
背筋が凍りついた。
警察が死因を究明中だという溺死体。やはり藤川綾乃なのだろうか。彼女から送られた不穏なメールを読み返した。
これは、自殺か、あるいは、もしかして他殺なのだろうか。相談内容からすれば、夫の愛人が怪しい。しかし、それも不可解だ。殺されると知って……。つまり、予測して、わたしに調査を依頼したということになる。それにメールの内容も不可解だった。アメリカで調査してほしいとは意味不明な内容だ。
受話器を取って、丸ノ内署の警官に連絡を入れた。担当の刑事が、すぐに応対にでてきた。
「ご連絡いただいた戸隠法律事務所の黒城です。墨田川で発見された女性の溺死体の件ですが」
「黒城櫻子さんですね」
「そうです」
「わかりました。確認のために、こちらから折り返します。お待ちください。わたしは丸ノ内署の警部補一ノ瀬と言います」
きびきびした声が聞こえ電話が切れた。すぐに折り返しのベルが鳴った。
「黒城です」
「お手数をかけます。間違いない電話か確認しました。さて、隅田川で遺体としてあがった女性ですが、使い捨てのプリペイド携帯には、戸隠法律事務所と黒城櫻子先生との通話履歴だけが残っておりました」
「事務所だけですか? わたし個人の連絡先を伝えてありましたが」
「いえ、携帯には法律事務所の連絡先だけでした。データを消した痕跡があり、名義人は藤川綾乃となっています。ご存じの方ですか?」
「依頼人なんですが。間違いなく藤川さんですか?」
「遺体の特徴を申します」と、言って彼が描写した女性の特徴は、まさに藤川綾乃に一致した。
「黒城先生から詳しい事情をお聞きしたいのですが」
「ええ、わかりました。時間が出来次第、そちらに連絡します」
「よろしくお願いします」
もう一度、戸隠所長と話しあうために、席を立った。日頃はどっしりとした彼が、めずらしくソワソワしている。
「所長、藤川綾乃さまから、調査依頼料が振り込まれておりました。このまま取り扱ってもよろしいでしょうか」
「ほお、どのくらい」
わたしが金額を伝えると、所長は驚いた顔をした。
「なんとも微妙な金額でございますね」
「このままにはできないと思っておりますけど。ともかく、藤川家に行ってきます」
「そうですね。判断はお任せいたしますので、どうぞお好きなようになさってください」
いったい、藤川綾乃とは、どういう人物だったのだろう。夫の浮気で、いきなり自殺を選んだのだろうか。
世の中には危険に自ら飛び込み、みずから不幸へと落ちていく人間がいる。安全な道を選択していれば、なんの不幸もなく、平和に生きていけるとは限らないが、それでも藤川綾乃が安全な道を選べば、死ぬ必要はなかったのではと思う。
調査してほしいという依頼に、彼女の覚悟が感じられて心が痛む。
警察は、事故と自殺など多方面から捜査するらしいが、わたしは自殺だと思った。そうでなければ、調査料が振り込まれるはずがない。わたしに何を望んでいるのか。
すぐに、フジサワ貿易ホールディングスに連絡を入れ、「奥様のことで社長とお話ししたい」と伝えると、自宅まで来てくれという。
おそらく、今日は妻の死で大騒ぎになっているだろう。そう想像するだけでも気持ちが萎える。
午後から、戻り梅雨のような雨が降りはじめた。
駐車場から愛車である水色のパオを出す。最近、エンジン音がくたびれている気がするが、それでも雨のなかを、なんとか走ってくれた。
約束した時間の数分前に屋敷に到着した。
周囲は重厚な門構えの家々が建ち並ぶ。その内の一軒に『藤川』と毛筆で書かれた表札が威嚇するように張り付いていた。
通用門にあるインターフォンを鳴らした。
「戸隠法律事務所の黒城櫻子です」
名前を告げると、すぐ手伝いの女性が現れた。
「どうぞ、お入りくださいませ」
内部に足を踏み入れた。すぐ左手に木戸があり手入れされた日本庭園が美しく、その小路の先が玄関だった。
それにしても、シンとして静かな場所だ。
閑静な住宅街だから落ち着いた環境なのはわかるが、新聞に掲載された事件が起きたのに、静かすぎる。
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