美しい依頼人 3



 三回目の面接後、はじめて綾乃は夫の浮気相手について話しはじめた。

「相手の女性ですけど……」

「女性というのは、ご主人の不倫相手ですね」

 ただ彼女の言葉をおうむ返しにした。話を聞くだけというおだやかな態度を保ち、問い詰めそうになる自分を抑える。こんな苦手なことも仕事だとできるものだ。

 それでも、次の言葉には驚いた。

「相手の女性が妊娠したというのです」

「え?」

 思わず素の声が出た。まったくプロとしては最低だ。

「妊娠ですか?」

 妊娠を誰から聞いたのか問い詰めようとして、口をつぐんだ。また沈黙されては困るし、さらに問題の本質から逸れるのを恐れたからだ。

 しかし、これは、まずい。子のない夫婦で不倫相手が妊娠した。離婚したくないのは彼女だけか。追い詰められているのだ。

 わたしはソファから身を起こして、両手を膝の上で組んだ。

 それにしても、どういう落としどころをさぐろうか。妊娠、それも夫にとって初めての子で、年齢的に考えれば最後の子だろう。

 綾乃が離婚を望まなくても難しい。生まれてくる子の認知問題から、きわめて厳しい対応を迫られるケースだ。

 相手から慰謝料をもらい、精神的苦痛に匹敵する対価を得る方向が一番だと思うが、感情的に割り切れないのは理解できる。

 綾乃の相談は三回目だが、最初から相手の妊娠を知っていたにちがいない。それを言うことができなかったのか。それゆえに無駄に時間だけを使ったのだろう。

 ときどき、わたしは思うことがある。

 なぜ、この七十七億も人間がいる世界で、たったひとりの人に執着し、その執着から逃げることができないのかと。綾乃は十分に美しい。第二の人生を多額の財産とともに生きることができれば、ずっと幸せではないだろうか。

「離婚は考えてらっしゃらないのですね」

「先生、大事なことをお話ししたいのですが」

「はい」

「夫につきまして、実は秘密があるのです。夫も知らないことですの」

「ご主人が知らないことですか?」

「実は、遠い昔ですが、不妊治療を致しました。わたくしに問題はなくて、だから……」

 彼女は控えめにうなずいた。ウブでかわいらしい仕草で、思わずクラッとくる。男性が、こんな清純な色気のある女性を放っておけるだろうか。

「あの、あの後で、翌日に産婦人科で、あの、お恥ずかしいのですけど、膣内検査で、その夫のアレは全くないと」

「アレ?」

 彼女はまた下を向いた。はっとして、わたしもうつむいていた。いい歳をした女ふたり、この程度で恥ずかしがるなんて。

 顔をあげると、アシスタントの恵子ちゃんが、ガラス窓から顔を出している。

 目があうと口もとを引き締めうなずいた。あの子は若いのに、わたしたちより大人か。いや、今はそこじゃない。なぜ、妊娠したのかという問題だ。

「つまり、不妊は男性側の問題ということでしょうか」

「ええ……、あの、その……後で、射精した内容物を、それを病院に届けまして、膣内検査を二回とも、全くアレはありませんでした」

 無精子症。

 彼女は書類をバッグから取り出した。

「これは、その診断書です」

 診断書には[精子量0・三ミリ、精子濃度一万個/ミリリットル、精子運動率0等]と書かれている。

「乏精子症というより、無精子症で顕微鏡受精も無理だとお医者さまから診断されました」と、彼女の声はしっかりしている。

「ご主人にお話されたときは、なんと?」

「主人は、そのことについて存じておりません」

「ご存知ないのですか?」

「昔、わたくしは嘘をつきました。診断結果を教えませんでしたの。主人が傷つくと思いまして、わたくしに問題があると申して子どもは無理だと伝えました」

「ご主人はそれを信じているんですか」

「ええ」

「じゃあ」

「ええ、先生はどう思われますか?」

「わたしですか?」

「先生はお子さんを欲しいと思われないのですか?」

 返答に窮してしまった。

「わたしは、前も申しましたように結婚をしておりません。子供のことは、さらに考えたことがありません」

「でも」

「すみません。この際、わたしは置いておきましょう。大事なことはそれではありませんから」

 もしかすると、無精子症である事実を夫は薄々感じていたのかもしれない。夫の浮気が今回はじめてとも思えない。浮気する男は何度でもするが、妊娠ははじめてだろう。だから、子ができた事実を信じて有頂天になっている。男って、そんな無邪気なところがあると思う。

「ご主人は離婚を望んでらっしゃるのですね」

「ええ」

「あなたのお考えでは、相手の女性に騙されていると」

「おそらく、そうなんだと思っております」

「ご主人に真実を話されましたか?」

「主人は」と言って、彼女は軽くため息をついて、そして、続けた。

「主人は話を聞いてくれるような人ではありません」

 こんな夫は熨斗のしをつけて相手に送り届けたいと思わないのだろうか。

 なぜ、そこまで夫にこだわるのだろう。新しい人生を歩んだほうが建設的だ。そう考えるわたしが非常識なのだろうか? 一般的には、このまま結婚を続けたほうがいいとアドバイスするのだろうか? 

 正直、わたしにはわからない。男に執着したこともない。いや、十代の頃、兄に執着したことは別にしてだけど。あの時から、心に鍵をかけてしまった。

「ご主人とお話しになってはいかがでしょうか? この診断書をお見せになって」

「それはできません」

「なぜでしょう」

「あの人の性格から信じないでしょう。例え、この事実を信じたにしても、そうか、奇跡が起きたと言い放つような人です」

 面白い男だ。魅力的で精力的な人物かもしれない。

「豪放な方なんですね」

「そうです」

「魅力を感じてらっしゃる」

 彼女の目はランランと輝いていた。わたしはぞっとして視線を外した。

 白目に血管が浮き出て瞳孔が開いている。そうか、彼女は夫を深く愛しているのか、いや、これを愛と呼ぶには、どこか異常だ。カルト的な新興宗教に依存して、教祖に執着する人の目に似ている。

「問題を整理いたします。離婚はしたくない。ご主人の無精子症を知らせたくない。相手の女性と別れてほしい。子どもの認知もしたくない。そういうことでよろしいでしょうか」

「はい、先生なら、どうされますか?」

 まただ、またわたしの意見を聞いていくる。

「わたしの意見はこの際、関係ありません。大事なのは藤川さまのお気持ちで、ここまでお話しを伺ったことから、これは民事裁判に発展する可能性がありますが、そうご希望なさいますか?」

「少し考えさせてください」

 そう言って、彼女は帰った。その夜、綾乃からメールが届いた。

『今日は、いろいろ相談をさせていただき感謝致します。取り留めのない話にお付き合いくださって、お疲れになっていないか心配申し上げております。さて、このようなことを申し上げるのもはばかられますが。仮定としてお聞き流していただければと存じます。もし、わたくしに何かございましたら、その原因を調査なさって頂けますでしょうか? できれば渡米なさってください。藤川綾乃拝』

 渡米? なぜ、ここにアメリカが出てくるのだろう。本当に奇妙なメールだった。

 なにか悪い予感がしたが、そのまま日々が過ぎ、そして、今朝午前七時前、戸隠所長から「ワルキューレの騎行」の勇壮な着信音でたたき起こされたのだ。

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