美しい依頼人 2
弁護士としての経験から──だからと言って、その経験が正しいとも限らないけれど──わたしは自信満々に断定する癖がある。それで痛い思いをすることもあるし、実際、穴があったら入りたいなんて過去の言動は多い。
それでも、あえて断定してみたい。
夫の不倫で離婚になるケースは案外と少ない。その反対に妻が夫に愛想をつかした場合、別れるケースが多い。
しかし、藤川綾乃のケースは、わたしの
人は、よくわたしを気のいいノンキ者というが、実は、あまり忍耐強いほうではない。表面に出さず我慢しているだけで、心のなかで
そんなわたしに、ガラス窓の向こう側から、アシスタントの恵子ちゃんが口もとでバッテンを作り、要所要所を固めている。
できるアシスタントだ。
とりあえず、わたしの成功報酬と歩合の一部が恵子ちゃんへも流れるから、ここぞとばかり後方支援をしてくる。
「それでは、離婚されたいのですか?」
「いいえ」
「ご結婚して十四年ですね。ここで一度、問題を整理してみましょう。まず、ご主人のお名前は藤川拓次郎さま、年齢は五十九歳。フジカワ貿易コーポレーションを経営する成功した経営者ですね。暮らし向きにご不自由はない。浮気のお相手は秘書の女性、こういうことですね」
「はい」
綾乃は、いつも待っているだけだ。そして、わたしも待っていた。
この根比べは永久に長引きそうで、わたしはソファの背に深くもたれた。
「それで、ご主人ですが」
「主人ですか?」
「浮気を認めていらっしゃるのですね」
彼女は、また、うつむいて指を口もとに寄せた。少し小首を傾ける様子が演技のようにぎこちない。
「ええ」
「お辛いですね」
「いえ、その。主人の浮気は病気と申しましょうか。そのことは、もう」
また話の要領を得なくなった。
「ご主人から離婚を求められているのでしょうか?」
「いえ、そうではないのですが。ただ」
「ただ。あの、先生は毎日、残業されますか?」
「……え?」
「お時間が、もう午後7時をすぎておりますから」
「どうか、お気になさらないでください。普段は定時に帰りますけど、ご心配にはおよびません。ただ、ご相談に時間外料金が加算されますけれど」
彼女は下を向いて黙った。しばらくして、「今日は、ありがとうございます。なんだか、わたくし、混乱していて、また、次回にお時間をさいて頂いてよろしいでしょうか?」と言った。
「ええ、どうぞ、いつでもお気軽にご相談ください。次の予約ですが、必要でしたら、アシスタントに申し付けてください」
そうは応えたが、もう来ないだろうと思った。おそらく、このまま不幸な結婚を続けていくにちがいない。だからといって、それが異常という訳でもない。世間にはよくある話だろう。
翌日、恵子ちゃんに頼んだ夫の資料が届いた。
「櫻子先生。わたし、有能ですね。自分を誇りたい」
「へえ、なに?」
「ご主人なんですが、中華系の帰化人なんです」
「それは、在日中国人ということじゃなくて」
「日本国籍を持っているんですが、もともとは、父親と一緒に香港から移住してきて。香港がイギリスから返還される一年前です。その後、日本国籍を取得して、それで改名して藤川姓になったんです。仕事は香港との貿易が主です」
「業績は?」
「東証二部に上場しているくらいですから、悪くないですね。もと香港財閥。こりゃ、いけますぜ、旦那」
恵子ちゃんが悪い顔で笑っている。つまり、離婚となれば、相応の慰謝料が貰える財力があるという意味だ。必要経費や時間請求以外に、成功報酬として三割は取れそうだから、戸隠所長はほくほくするだろう。
そして、綾乃は二日後に再び訪れ、逡巡の末にこう言った。
「困っていることがあるのです」
それは他人事のような声だった。本当に心が読めない。薄いベールが何枚も何枚も彼女を包んでいて、本体に達することができない。真実を知るために、どれだけベールをめくればいいのだろうか……、もどかしくなる。
わたしは、なぜか兄を思い出した。
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