美しい依頼人 1
翌朝、スマホから鳴り響くワーグナーの「ワルキューレの騎行」にたたき起こされた。五月端が左手で雑にわたしをゆすっている。
ベッドのシーツをはぎ取り、思わずうめき声をあげスマホをにらみつけた。
この騒音とも言える呼び出し音は、法律事務所の所長である戸隠平九郎だ。彼、物腰は紳士的だが、実際は
時計を見ると午前七時前。
今日は在宅ワークのつもりだったから、まだベッドにいたかった。
「所長からのようだが」
「ええ、そうね。そのようだわ」
「取らないのかい」
「まだ就業時間前よ。なんで時間をかまわないのかしら。ああ、もう……。もしもし、戸隠所長。いいえ、起きておりました。きっちり、ぱっちり、しっかり目が覚めております」
「さすが黒城先生、朝早くからお元気のようで何よりでございましてございます。さて、お電話したのは、緊急にお伝えしたいことがありまして、藤川綾乃さまのことでございますが」
藤川綾乃……。
彼女は夫の浮気問題で、法律事務所に来ている依頼人である。
小柄で、むっちりとした色白の肌、四十四歳というが、わたしと同年齢と言っても違和感はなかった。ちょっと悔しくはあるが、三十歳前半でもいけそうだ。
品がよく、いつもゆったりとした正確な発音で、ともかく美しい日本語を使う。だから、初対面は好印象だったのだが、徐々に不可解な思いを抱くようになった。
夫は東証二部(スタンダード市場)に上場する株式会社フジカワ貿易コーポレーションのオーナー社長。主に中国との貿易を業務とする会社だ。
彼女の言葉は、ともかく、ねっとりした印象で、人妻というより愛人のように聞こえた。
「疲れましたの。子どももおりませんし、このまま老後を夫と過ごすことを考えますと。先生には、そんな思いはありませんか」
「わたしは、結婚していませんので」
「まあ、失礼いたしました。知的で魅力的な方ですのに。ご結婚されているとばかり。どなたとも、お付き合いをされてないのですか?」
ああ、また、この質問か。その上に、失礼などと詫びてくる。
三十五歳で、彼女の言う魅力的で知的な女が結婚していない。それだけのことだ。相手は軽い気持ちで言うが、わたしは、ちょっとだけ傷つく。
普段なら断固として「いろいろな生き方がありますから」と、きっぱり返答して非難を滲ませる。
しかし、いまは仕事モードで、それは大人気ないから言葉を選んだ。
「わたしの私生活は別にいたしましょう」
なぜだか、「うふふ」と面白くもないのに声を出して彼女は笑った。細く長く手入れされた美しい指が口もとにかかっている。
その声はうつろで、本当には笑っていない。
笑い終わると真顔になり、また途切れ途切れに話しだす。内容に脈絡がなく、あちこちへと話題が飛ぶ。もしかすると、心の病を患っているのかもしれない。愚かなことに、わたしはそう思ったのだ。
「おかしいですわね、わたくし。先生は、そういうお気持ちになったことはございませんか」
「いえ、ガサツな女ですから。わたしは」
結局、彼女の話は全く進展せず、わたしのことに話をふったりして取り止めがない。
夫が浮気したと告げたが、そこに怒りを感じない。会話のための会話がエンドレスに続くだけだった。
「ねえ、どう思う?」と、有能なアシスタント恵子ちゃんに聞いたくらいだ。
「う〜〜ん、わたしの運命線は彼女と交わらないようです」
「どういう意味よ」
「なにか隠しているように見えますが、わたしとは交わらないので、どうしても尻尾がつかめません」
「恵子ちゃんでも」
「はいな」
戸隠法律事務所に所属する弁護士は五十三人。
それぞれ専門があり、民事の夫婦間訴訟を主に専門としているのが、わたしだ。離婚引き受け仕事人を自認している。
藤川綾乃は女性弁護士を希望して、年齢が近い人を頼むと言ったそうだ。事務所に女性弁護士は十二人。わたしより若い者ばかりと、かなり年配の女性ふたり。必然的にわたしが担当になった。
それにしても、弁護士とは因果な商売だ。
警官や医師と同じで、人が不幸なときに必要とされる。だから、ヘラヘラ笑っているより偉そうな態度のほうが受けがいい。
実のところ普段のわたしは、おっちょこちょいで他人を信用しやすく、ちょっとだけ抜けたところのある人間だ。五月端に言わせると「ちょっとだけ」はなくてもいいらしい。失礼な男だ。
藤川綾乃は、次の日も事務所に現れ、相談料を支払って無駄に取り止めのない会話をして帰っていくだけだった。
「それで、ご相談なさりたいことは」と、何度も会話を止めて聞いた。
彼女は口ごもる。うつむいたまま半開きの唇に細長い指をおき、眉間に困ったような皺を寄せる。
そんなことが続いていくと、妙に違和感を覚えた。わずかな視線の動きから、彼女が表情を作って演技していると思ったのだ。
「こくじょう、さくらこ先生」
噛み締めるように、彼女はわたしの名前を繰り返した。まるで宝物でも扱うように名前を呼んで、そして、沈黙した。
理由はわからないが、直感的に自分が値踏みされていると感じた。この女に頼ることができるのか、あるいは、できないのかと、そんなふうに。
「実は、夫につきまして……。あの先生のご連絡先を個人的にお聞きしてもよろしいでしょうか」
「わたしのですか?」
「あの、内容がとてもデリケートなことですので。もし、よろしければ、個人メールに、ご相談内容の写真とかお送りしたくて。もちろん、その際はご相談料をお支払いいたしますので」
「ええ、構いませんが」
「ありがとうございます。このスマホに」
彼女は自分のスマホを差し出した。わたしもスマホを取り出して彼女を友達申請して追加した。
「ありがとうございます。これで、先生とつながることができたんですね。それで、あの、夫なんですが、別の女性がいるようなんです」
「確認だけ先にしておきたいのですが、最初のお話になられたときは、離婚したいような、ご様子でしたが。それがご希望でしょうか」
「とてもお恥ずかしい話ですが」
「恥ずかしいことではありませんし、それに、あなたの罪でもありません」
「そうでしょうか」
「そうです」
彼女はうっすらとほほ笑んだ。その顔は泣いているように見えた。なんとも可憐で守ってあげたくなる。こんな女性を妻に持ち、なお浮気する男とは、とんでもない贅沢だと思うが、一方、この割り切れなさはなんだろう。
「それで、今後ですが、どういったことをお望みでしょうか」
「わからないんです。わたくし、どうしていいのか」
「立ち入ったことをお聞きいたしますが。お子さまがいらっしゃらない。それは、どちらかが望まなかったという結果でしょうか」
「子どもは……、不妊治療もいたしましたが妊娠できませんでした」
子どもがいない場合、離婚のハードルは低くなる。とすると、夫を捨てたいのか、捨てたくないのかという話になる。
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