第一章

禁断の恋



 キッチンの窓ガラスが微細な水滴で曇るのを、あきもせず見つめていた。

 パシャパシャと軒を叩く雨音に思い出す男がいる。

 それは、せつなくもあり、甘やかでもあり、あまりに慣れ親しんだ感情で、ときどき、どう折り合いをつけていいのかわからなくなる。

 十代の頃、愛してはいけない男に恋をした。

 あれから、道徳的という言葉を故意に避けるようになった。避けるあまりに道徳的に生きようと無理をしている。

 これが、わたしの底の浅い生き方。

 都会の片隅で、同居人と暮らして五年である。

 苦労して、それが軽い苦労だったのか、あるいは堪え難い苦難のすえかはわからない。ともかく、苦労したすえに得た同居人との距離間を、それなりに大切にしている。

 わたしの名前は黒城櫻子こくじょうさくらこ、三十五歳、弁護士。

 数年前、漠然とした不安から、同じ弁護士事務所で働く五月端さつきばた道隆みちたかと同居に踏み切った。

 彼との関係は結構うまくいっていると思う。

 たぶんだけど。

 その夜。わたしは洗いものをしながら、リビングで仕事している五月端に声をかけた。

「藤川綾乃さんのことだけど、覚えている? 弁護士事務所に不倫問題で相談にきた人よ」

「そお」

「今はどうしているのかしら。夫の浮気って、ありふれているけど、本人にとっては重大事だから」

「そお」

「なんだか、単純な浮気って問題じゃないような気がして、すっきりしないの」

「そお」

 五月端さつきばたは上の空だった。

 彼は三歳年上で、わたしが学生インターンとして働いた弁護士事務所の指導教官だった。大学卒業後、そのまま事務所に雇われ、一緒にお酒を飲んだり、映画を見たりの軽い関係を続けているうちに、のっぴきならない状況に陥った。

 あるロマンティックな夜。

 彼とキスするか、逃げるかの選択肢を迫られ、わたしは「ん?」と疑問を投げかけ、彼は「いい?」と、照れながらささやいた。

 あの顔を思い出すたびに、こそばゆいような気持ちになる。

 当然、そこは次の段階へと進むか、関係を終わらせるかの選択肢しかなく。進んだ結果が同居になった。

「ねぇ、ミチタカ。わたしの話、聞いてる?」

 声に不穏なものを感じたのか、五月端はパソコンの手を止め新聞を横に置いた。几帳面に新聞のタテヨコを机の線に合わせている。

「僕は常に君と正直に向き合って話しているつもりだが」

「いいえ、上の空で『そお』としか言ってないわ。会話は相槌じゃなくて、感想を交えて話すことよ」

「それなら、わざわざ口に出すより、楽しいとか苦しいとか、その感想を顔で表現すれば済むことだろう」

 ふいに五月端が大げさに表情を歪め、しかめ面をした。

「これは、言葉で表現すれば、僕の邪魔をしないでくれ、と顔で会話した例だ」

「面白いわ」

「そうか」

「んな訳ないでしょ」

「そうだね、おいで」と、彼がほほ笑んだ。

「悪かった。ちょっと仕事がこみ入ってね」

「いいのよ。あなたの案件、厄介そうだもの」

 わたしは特上のほほ笑みを浮かべ、両手を上げてひらひらしてみた。

「愛してるよ」

「知っているわ」

 彼から愛していると言われるたびに戸惑う。そんな自分をうまく隠しているとは思う。彼に対して優しい感情を抱いている。これからもずっと抱きつづけていくだろう。そして、いつかは彼が望むように結婚するかもしれない。しかし、それは今ではない。それは永久に今ではないかもしれない。

「さっきはね、藤川綾乃さんのことを話していたの。なんか、すっきりしなくて」

「ああ、不思議な依頼人だよね」

「実際にどうしていいのかわからない」

 彼はふんという顔つきでメガネの位置を直した。わたしは食器を洗う手を休めた。

「わたしの対応が悪かったのかしら?」

「いや、深入りしすぎてもよくはない」

 五月端は優しい。常にわたしが言って欲しい言葉を、言って欲しいように伝えてくれる。それが彼の性格なのか、愛情なのか、時に不安に感じる。

 こういうとき、兄を思い出す。

 わたしには血のつながらない兄がいた。

 兄が今どこで何をしているのか知らない。兄は五月端とはちがい、言って欲しい言葉をけっして口にしない男だった。さらに安全とか、常識とか、そういった思考を持たない男でもあった。

「屋上に行くわ」

 一応は断って部屋を出たが、彼は気付いていない。まるで倦怠期の夫婦のようだ。

 なぜ、結婚しないの? 

 関係を知る友人は必ず聞いてくる。

 なぜだろう?

 この中途半端な関係が、ちょうどいい距離感だからかもしれない。

 わたしは肩をすくめ、玄関に置いてある竹刀を手に取って屋上にのぼった。いつの間にか雨は止んでいた。

 空気が洗われ爽やかな匂いがする。澄んだ空気を肺に入れ、大きく深呼吸してから竹刀をふった。

 学生時代から剣道を習ってきた。最近は仕事が忙しく稽古にいけないので、夜に素振りをする。二十回目くらいから汗が吹き出した。

 竹刀をフロアに立て両手をついて体を休める。

 ふいに、兄の顔が思い浮かぶ。

(ジオン……)

 記憶のなかの兄の顔はいつも不思議なほど同じ表情だ。そこには表情と呼べるものがなく、まるで能面のようだ。

 兄は香港生まれで、母親は美しい女性だったらしい。その美貌を受け継いだのか、黙っていても人を惹きつける憂いを含んだ美しい顔立ちをしていた。

 わたしが十七歳の時に別れたまま、その顔は永遠にせつない思いを抱かせる。

「兄さん……」

 深い夜の闇に声が吸い込まれていく。

 わたしは汗を散らしながら竹刀をふる。竹刀の先に兄の顔があった。

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