【完結】彷徨える王
雨 杜和(あめ とわ)
デトロイトの闇
米国東部、デトロイト川の岸辺では、雨が土手にからむ波音を消していた。カナダと米国を結ぶ国境の橋、通称ブリッジを一台の車が通り過ぎる。フロントライトが橋の下にいる男を照らした。
眩しい光に目を細め、男は身を竦める。痙攣するように首をまわすと、ぽきぽきと骨の音が響く。
「重いな……」
男の声がもれた。
暑いと言い間違えた。いや、本当に間違えたのだろうか?
コットン糸のような柔らかい雨が、したたる汗を拭ってくれる。母の記憶などないが、こういうのが親のぬくもりというのかもしれない。
それにしても、川から死体を引きずりあげている自分が、母親のぬくもりでもないだろう。こんな場合、人間はどんな感情を持つのだろうか。
男は頭をふった。
再び鎖を引く。体が引きちぎれそうだった。先ほどからこの馬鹿げた行為に、どれほどの時間を費やしたのか。
もういい、もうどうでもいい。息をしている自分が嫌になるのは、こんなときだ。投げやりな気分を持て余し、再び鎖を引く。
ズリ、ズリリ、ズズズリ……。
護岸の湿った壁と鎖が擦れる音が雨に混じる。
意識を持たない人の体が重いとは知っているが、こいつは格別だ。いったい、どれほど
ああ、ムカつく。こんな重い物体を引きずり出そうなんて、もう滑稽でしかないだろう。
な、そうじゃないか?
もし、過去が異なっていたら、こんな時間はもっとマシな、たとえば普通に家族とかも作って、テレビで野球観戦しながらビールでも飲んでいただろうか。
いや、それは違う。
あの方の面影が浮かんだ。今は手に入らない人が端正な顔を苦痛に歪めている。
恐怖、喜び、悲しみ、怒り、愛……、残酷なほど、そうした感情すべてが、あの方に向かっていく。
(いい加減にしてくれ)という、あの方の酷薄な声が聞こえる。
(おまえのことが、まったく理解できない)
その声にも感情はない。そもそも、あの方は感情を持っていないだろう。
「なあ、そうなんでしょう? あなたさまは感情を捨てたんでしょう?」
男は誰もいない空間に向かって話しかけ、また首をポキポキと鳴らした。
「それにしても重いな」
顔にかかる汗と雨粒を拭い、再び鎖を引いた。
ズリズリリッと錆びた鎖がアスファルトをこする。永遠とも思える時間、鎖を引く事だけに集中した。
と、ふいに足もとから腐臭が立ちのぼり、とっさに鎖を手から離しそうになった。ブロックの固まりが岸辺に上がっている。
口端を引き上げ、頬をゆるめた。
「やっと出てきたか。世話をかけやがる」
ブロックに結ばれた鎖を外して川に投げ捨てると、ボンっと鈍い音がした。周囲を見渡したが誰もいない。こんな場所に人がいるはずがない。デトロイト市は財政破綻後、人が消え廃墟のようになった。今ではかなり回復したというが、さて、どうだろうか。
再び首を振って骨を鳴らした。
最後の仕上げでロープを引くと腐臭が増した。喉の奥に迫り上がった胃液を、ぐっとのみ込む。
遺体を岸部に持ち上げるのに、それからさらに三十分ほど要した。ぶざまに水を含んで膨れ上がった体。
さあ、これで終わった。
息を整え使い捨て携帯を取り出した。ひと仕事終わった気楽さでメールをうち、すぐに携帯を踏みつぶした。壊れたそれを川に向かって投げ捨てると、半円形の軌跡を描いて音もなく水面に消えた。
今度こそ、すべてが終わった……。
コンクリートの出っぱりに腰をおろす。川岸の先を眺める。
カナダ側の川面には、シーザーズ・ウインザーホテル&カジノのイルミネーションが映っていた。あの中には、徹夜で一攫千金を夢見て、スロットを押し続けている愚か者たちがいる。
そうだ、愚かな奴らだ。いわゆる崇高な思想も持たない、普通の奴ら。
この土砂降りの雨も知らない。あるのはスロットのレバーと押す指だけ……。
どっちが愚かだろうか。ただ時間をつぶすために雨に濡れている自分と、カジノで無意味な金を失っている者たちと。
なぜか愉快だった。
「さあ、時間だ。行くか……。あの方にお会いできるのが楽しみで仕方ない。褒めてくださるだろうか。よく探しだしたと、きっと言ってくださる……、今度こそ、きっと今度こそ……」
言葉は中途半端に口のなかで消えていく。いったい、どこにおられるのか。どれだけシグナルを送っても、あの方は気づかれない。
(ああ、俺の王よ。あなたさまに全てを捧げているのです)
疲れた身体を引きずり川岸から公道へと向かう。雨にぬかるんだ泥で足を取られそうだ。
線路が行く手を遮っている。
赤錆びた古い線路は、腐った血に染まっているようだ。
更に歩くと塀がある。公道と私有地の間にある侵入禁止のために作られた一メートルほどの塀で、これで誰かの侵入を防げる訳ではない。境界を示すだけの簡易なものである。
その塀を乗り越えると、いきなり強い車のヘッドライトが顔に当たった。無意識に手をあげ、眩しさから目を守った。
『動くな! 両手を頭の上に、その場にひざまずけ!』
光を手で遮った隙間から、黒い人影を透かし見た。何人いるんだろうか。いや、何人じゃない。たった二人、メールの通報では半信半疑だったんだろうな。
まあいい、抵抗はしない、心配するな。
両手を大きく頭上にあげてから、恭順の意を示すために後頭部で組んだ。いつものことだ。こんなことには慣れた。なんの感情も動かない。
ゆっくり片膝を付いてから、ひざまずいた。
ひとりの警官が飛び出してきて乱暴に倒された。片頰がコンクリートに打ち付けられる。泥水に頬がぶつかり、降ったばかりの雨水が鼻に流れこんだ。
乱暴な奴だ、泥水を飲んでしまうだろうが。
『名前は?』
『そんなことは問題じゃない。メールしただろう。遺体が向こうにある』
『お前が殺したのか?』
『なあ、この世界は醜いな。けどな、俺には、たった一人だけ、この世界の真実から守りたい、いや、守ってくれる方がいるんだ。夢のようだろう』
『こいつ、何を言っているんだ』
男は落胆とも失望ともとれる奇妙な表情を浮かべ、それから、『向こう側だ』と促した。
『おい、マーク、向こうを調べてこい』
拳銃を突きつけた警官が、もうひとりに命じた。ひとりが先ほどの場所へ向かう。しばらくして声が聞こえた。
『こりゃ、ひでぇ、腐ってる。おおぃ、遺体がある、あるぞぉ! すぐ応援を呼べ! ちょっと調べる。こりゃあ、ひでぇ』
逮捕時の決まり文句を警官が早口に告げた。
『お前には黙秘権がある。いかなる供述内容も法廷で本人に不利に使用される可能性がある。弁護士の同席を求める権利があり、弁護士を雇えない場合は、こちらで選任することができる。わかったか』
決まり文句が終わり、手錠を出そうとした隙をついて、彼のみぞおちに拳を入れた。
『うっ!』
体をふたつ折りにした警官の銃を奪い、グリップで脳天に一撃を加える。
ふいをつかれた警官が今度は泥水を飲む番だ。なんでも順番ってのがある。
死体を確認に行った警官がすぐに戻ってくるだろう。彼の発見するのは、泥水のなかで倒れた同僚のうめき声だろうがな。
男は軽くため息をつき闇に紛れて、すっと消えた。
雨が再び強く降りはじめ、周囲の音をもみ消していた。
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