王朝最後の末裔 4
薄暗闇にぼんやりと人影が見える。
こいつは何者? ぼうっとした視界が徐々に鮮明になる。人ではない。単なる壁の汚れが人の形に見えただけだ。
手足が動かない。体の自由もきかない。そうだ、注射をうたれた……。思い出すと嫌な汗が滲む。いったい何をうたれたのだろう。毒ではないはず。たぶん麻酔薬だろう。大丈夫、落ち着け、わたし。
徐々に体の感覚が戻ってくる。
軽く頭痛がして、ひどく喉が乾いた。そっと体を動かしてみたが、ビクッともしない。殴られた
両手は背後できつく結ばれ、指先に血が通わず感覚がない。足も縛られ、長く同じ格好をしていたのだろう、痺れがひどくて苦痛だった。叫びそうになったが、ひっしに耐えた。
「ここは?」と言おうとして、声が出ないことに気づいた。
いったいどうなっている。喉に何かを突っ込まれている。空気が十分に吸えず息苦しい。もともと口呼吸をしがちなわたしに鼻呼吸は辛く、さらに息がつまる。
感覚を総動員して、状況を見極めようとした。
いまは荷物のように冷たい床に転がされている。ぐるぐるっと目玉を動かして、まわりを確認した。
目の前はコンクリートの壁。両手両足を縛られ床に転がされ、壁と向き合っているのだ。
ああ、クソッ。なんて奴ら。
叫びだしそうになる。実際、喉に詰め物がなければ叫んでいただろう。
つかまってから、どのくらい時間が過ぎたのかもわからない。体の下敷きになった左腕が痛むし、硬い床だから腰にも激痛が走る。殴られた鳩尾も痛くてたまらない。
鼻から必死に空気を取り込んだ。そうしないと発狂しそうだ。
水の音がする。
誰かが、なにかに水を入れている、そういう音だ。ジャーと音がして、しばらくして、また繰り返し水を注ぐ音が続く。
まさか……。
恐怖に胃が縮み、夏なのに、ひどく寒いと感じた。
「気がついたか」
中原の特徴的なしゃがれ声が聞こえた。が、顔が見えない。
すぐに体が乱暴に転がされ、顔が上を向く。強張った腰が楽になったが、逆に両手が下敷きになって別の痛みで悲鳴をあげたが声にならない。
「う〜〜」という、か細い声が漏れる。
わたしの腹を躊躇もなく殴った大柄でぶよぶよと太った男が、ペンチみたいな金具を取り出して近づいて来た。
来ないで!
そう叫びたかったが、ただ詰め物の間からスースーと息が漏れるだけだ。汗臭い男の体臭がしたとき、片手で両頬を強く押された。ペンチが口の中に入り、口を塞いでいた布を引きずりだす。乱暴な扱いだったので歯にあたり、ゴギっと音がして、ぽろりと前歯が欠けた……。
わたしは再び気を失った。
気付くと椅子に縛られたまま、一人残されていた。
周囲を観察すると、斜め横に、ちょうど人間ひとりが入れそうな
今は近くに誰もいない。わたしがここにいることを知る者が誰もいないのだ。その事実に愕然として心が震えた。
これが日本なら、わたしの姿がなければ大騒ぎする人たちが思い浮かぶ。しかし、今は違う。
なぜ、こんなことになった。
そんな無駄なことを考えても仕方がない。
両手を擦り合わせ、縛られた紐に隙間をあけようともがいた。ねじれた縄が食い込み、動かすと擦れて皮膚に擦り傷をつける。全身の痛みが耐え難いのに、さらに激痛が走る。
こんな場所で最後を迎えるなんて、ぜったいにダメだ。
「あの野郎!」と言うつもりが、ただのうめき声しか出なかった。
心のなかで繰り返し悪態をつきまくった。
そうやって、怒鳴っていると、逆に落ち着く、恐怖が怒りに変わる。
椅子の上に両足を乗せ、背後に縛られた両腕を椅子の背から抜こうと試みた。腕が痛み、筋が切れるかもしれない。
どれだけ無駄に努力しただろう。やっと腕が椅子の背から抜けると、体の重心が狂い、ドサリと床に落ちた。無理な体勢で落ちたために、横顔をしたたかに打つ。
しまったと思った瞬間、ドアが開いた。
コツコツコツと靴音が近づいてくる。
男の磨かれた黒塗りの靴が見えた。床にぶざまな姿で転がったまま視線を向ける。やはり中原だ。絶望に心が沈んだ。
「がんばってますね」
「助けて……」
誇りもなにもなく、過去に味わったことのない全身の苦痛に震えながら、わたしは哀願した。
「あなたは、どちらにしても死ぬんです。苦しんで死ぬのか、それとも楽に死ぬのか。その違いだけですが、どちらを選びますか? それは、あなたの選択次第です。ことによると長く生き延びられるかもしれない。それは、あのお方の選択次第です」
その言葉で気がついた。わざといたぶって楽しんでいるわけではない。わたしを観察していたのだ。そして、無駄だと知り、絶望するのを待っていたのだ。このサイコ野郎!
「さあ、お遊びは終わりました。教えてもらいましょうか。ジオンさまに会ったのですか」
ジオンさま?
兄に対して敬語を使っている。どういうことだろう。
頭も体もずきずきして、まともに判断できない。でも冷静にならなければ、息を深く吸った。
「いいえ」
中原のしゃがれ声は恐怖をあおるのにもってこいだった。
「そんな返事は期待しておりません。さあ、こんなふうに転がっていては話せないでしょう。すわらせてあげよう。おい」
彼の言葉に、先の大男がわたしの体をいとも簡単に持ち上げると椅子におろした。
「暴れると余計に痛い思いをする。静かに従いなさい」
「ハアハア……、だから?」
「仲良くしようではありませんか。わたしは、そんなに悪い男じゃありません」
「あんたのことなんて……、どうだっていいわ」
「そうですか」
「どのみち、嫌いなんだから」
中原はサフィーバ財団の関係者にちがいない。わたしに興味があって、こんなことをしているとは思えない。これまでの過程が不自然すぎる。女を傷つけることに喜びを感じる変質者でもなさそうだ。
息を整えた。
苦痛のために、いつもよりゆっくりした口調になる。
「なぜ、わたしが兄に会ったと思うの。ハアッハア……、兄は荼毘に伏して、ホテルの部屋に、へ、部屋にいる」
「今さら、嘘をつかなくても良いのです。あの溺死体がジオンさまでないことは、よく知っています」
「嘘よ」
中原は背後から、折りたたみのパイプ椅子を持ってくると、わたしの正面にすわった。がっちりした体がパイプ椅子をギシギシと耳障りに鳴らしている。
この男は、こういうことに慣れているんだ。
「嘘じゃないですよ。あの遺体は自分がデトロイト川から引きずりだして、警察に通報したんですからね」
言っている意味を理解するのに数秒かかった。
「あ、あなたは、あなたはインターポールの警官じゃないの」
「おや、なぜ、そう思うんですか。自分は嘱託として、あの組織で働いていますがね。正式の職員ってわけじゃありません。まあ、こういうコネが財団にはあるのです」
「いったい何者なの?」
ギャハハっとしゃがれた不快な声がした。たぶん中原が笑ったのだろう。こんな不気味な笑い声はホラー映画でしか聞いたことがない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます