ゴースト 名前のない男たち 8
「米国に入国したとき、空港の到着ゲートにいたのは、なぜなの?」
「それは、俺の遺体が発見されたというニュースを知ったからだよ。こんな生活をしているが」
兄は、ほとんど家具もなく飾り気のない殺風景な部屋を手で示した。その骨張った手の仕草が、やはり優雅で美しい。すべての動作が心臓に悪い男だが、きっと兄には自覚なんて全くないだろう。
「ネットで世界を把握している。簡単に説明すれば、自分に関する情報は、どんな些細なものでもピックアップするように検索システムが組んである。黒城櫻子の名前も入っているんだよ」
「でも、この……、なんて表現したらいいのか。シンプルな家がネットに繋がっているの?」
ジオンは立ち上がり、なにもない壁ぎわに向かった。その一箇所を手で押す。それが隠し扉のロックだったのか、壁が大きく開いた。その先に複数の大小モニターと、オレンジ色のLEDがピカピカ点滅する黒い箱が現れた。こんな貧弱な家に最先端のシステムを構築している。そうだ、昔からジオンは数学が得意で頭脳明晰だったことを忘れていた。
「成田発のデトロイト着便に黒城櫻子の名前をシステムが感知した。俺の遺体が発見されたばかりだから、まさかと思ったが。本当に変わらないな。思ったら後先を考えず、すぐ行動に移す。誰にも言わずに日本を飛び出したんだろう」
わたしは鼻にシワを寄せ、唇をすぼめた。まったく、誰も彼もが、この性格を咎める。もちろん、欠点だとわかってはいるけど。
三十五歳になり、ああすれば良かったという過去の後悔は多い。しかし、こうした後悔を持たない人がいるとすれば、それはそれで不幸だとも思う。安全ばかり考えて行動する人生ってのも退屈じゃないだろうか。
「でも、ウィルのことは、なぜ知っているの?」
「実はその男は知らない。ただ、見てごらん」
キーボードを叩き、わたしの名前にタグづけした人びとがパソコン画面にあらわれた。
そこには弁護士事務所の人間関係から、いま現在、わたしが請け負っている案件まである。特に五月端道隆とか、戸隠法律事務所とか。
「五月端ってのは誰だい? 家の住所が同じだが」
「わたしの同居者よ」
「そうか。良い人なのか」
「ええ、優しい人よ」
ジオンはじっとわたしを見つめた。それから、唇の端を上げ、寂しげにほほ笑んだ。なぜか自分が罪を犯したような気分になる。別れてから十九年。義理だてする理由もない。恋人でもなく兄なのに。
「彼がデトロイトに住むコービィに連絡を入れている。そして、金も送金していた。調べると、わりと名を知られているバウンティハンターだ。だから、関係者だとわかったんだよ。SNSへの発信には気をつけた方がいい。少し調べれば、あらゆることがわかってしまう。ツィッターとか。なあ、櫻子、おまえは車の運転で、スピードを出し過ぎるようだな。警察の記録に」
「黙って」
この世界にはもうプライバシーがないのだろうか。
「空港で、すぐにわかったの?」
「自動ドアが開いた瞬間、妹だとわかった。懐かしかったよ。昔と変わらないな。頑張りやで、おっちょこちょいで、用心深いくせに、すぐ人を信じる。あの時、おまえの後ろを不審な男がひとり追っていたから、ついコービィになりすました」
「不審な男って、まったく気づかなかった。兄さん、まるで相手の心あたりがあるみたい」
「ああ、おそらくサフィーバの連中だろう」
「わたしを、なぜ尾行するの」
「俺のせいだよ。俺を探しているんだ」と、言ってからジオンはそれ以上、話したくないのか、急に話題を変えた。
「お母さんは元気にしているか?」
「あの、母さんは……、母さんは他界したわ。知らなかったの?」
「サフィーバや俺と関係がなければ検索に引っかかることはない。俺は自分のなかにある怒りが大きすぎて、他人を心配する余裕がないんだ」
「嘘つきね、兄さん」
たぶん、母はジオンの状況を知っていたのだろう。
ずっと自分の家族は仲の良い平凡な一家だと思っていた。世間一般からは、複雑な家庭であったかもしれない。しかし、わたしは秘密のない愛情深い家族に恵まれたと思っている。それでも知らない秘密は、いろいろあったようだ。
「いったい何があったの?」
「覚えているかい。あの祭りの日のことだ。おまえに暴行を働いた男。奴が川で溺れた後、母さんから金をもらった。危険だから、中華街にいる父さんの知り合いを頼れと言われてね」
「どういう意味なの?」
「母さんは、俺が何者かを知っていた。知っていて養ってくれたんだ」
ジオンは右ほほを引き上げ笑みを作った。それは笑っているような、泣いているような美しい表情で、思わず視線を逸らしてしまった。
「あなたの正体を?」
「家族が危険に晒されていると知ったのだと思う。父が話したんだろう。だから、俺を逃して、自分たちも引っ越したんだよ。住民票の移動をしなかったよな」
「かなり長い間、住民票を移動しなかったけど。その理由が、そんなことなんて」
「あの家はどうなった?」
「そのままになっているわ」
「残っているのか……。そうか」
孤独なジオンにとって、わたしたちとの生活は家族のぬくもりを得た唯一の時代だったのかもしれない。この、いかにも殺風景な小屋で暮らすジオン。寂しい生活だろうと思うと胸が痛む。
「母さんのこと、辛かったか」と、彼が呟いた。
頬に手をあてて、首を振った。
わたしが五月端と暮らしたのは、母を失った喪失感に耐えられなかったからだ。彼は常に傍にいて慰めてくれた。そうでなければ、たぶん、わたしの心はもたなかった。
「辛かったけど、そばで慰めてくれる人がいた」
「俺は日本の家から去るのは一番辛かったよ」
「でも、本当に簡単に捨てたわよね」
ジオンは何か言おうとして、口を閉ざしコーヒーを口にふくんだ。
「ねえ、兄さん。覚えている。母さんの手料理」
「下手くそだったな。父さんのほうが料理は美味かった」
「ええ、そう。でも、あれだけは美味しかった」
「イワシとにんじんと椎茸と柿ピーを入れた、変わった炊き込みご飯」
「そうそう、あれだけは出汁といい、最高だった……。でも、あれって、母さんのオリジナルよね」
「あんな妙なレシピは母さんくらいしか思いつかないだろう」
「ええ、そう、そうよ。だから母さんがいなくなって寂しいわ。今でもとても辛い」
ジオンの手が伸び、わたしの頭をなでた。その手から彼のぬくもりが肌に馴染んでいく。
「俺のことが好きなのか?」
「ジオン」
「俺は話すことが下手だ。それは日本語だからじゃない、そもそも人と会話するためのスキルがない。ただ……、いや、だから、これだけは伝えたいと思っている。俺は日本で、俺に付きまとっては世話を焼くおまえが好きだった。野菜を食べ残すと、皿ごと持ってきて強引に食べさせようとするし、二日も同じシャツを着ていると脱がせようと追いかけ回す。そのくせ、自分の姿には無頓着で、朝はいつもクシャクシャの髪のまま、ちょっとしたことに興奮して笑ったり泣いたりと、くるくる表情がかわる。そんなおまえが可愛いと思っていた」
「……ジオン」
ジオンの切れ長の目が、触れるほど近くにある。彼の低い声が、さらに低く深くなる。悪い男だ。自分の魅力をまったく知らない。
あなたは、いったい何者なの? わたしが痛い思いをしないように、わたしの心が傷つかないように、優しく教えてほしいと思う。
「わたしは、あの頃の、十代の女の子ではないわ」
「ああ、わかっている。今後、もう会うこともないだろう。だから、最後に言っておきたかった」
彼の人生を愛情深い人びとに囲まれた最高に幸せなものにしてあげたい。こんな思いを抱かせるのは、ジオン、罪だと思わないの?
「さあ、明日には日本へ帰ってくれ。そして、俺のことは忘れて幸せに暮らせ。俺はいつまでも自分勝手なんだ」
「それは……」
「帰ってくれれば、俺も安心できる。荷物をまとめたら連絡をくれ、飛行場まで送る」
わたしの頭から手を離して、ジオンが立ち上がった。オレンジ色の光がジオンの顔を照らしている。
うるんだ瞳が黄色く輝く。兄が感情的になったとき、光の加減で現れる馴染みのある目の色。わたしがジオンを思うように、ジオンもわたしを思っているのかもしれない。そう思うことは、なんて甘美なんだろう。
この人と、どうして離れていることができたのか。愛おしさに胸がつまる。わたしは、このまま日本に、五月端のもとに無事に帰ることができるのだろうか。
無事にとは。それは、なんという皮肉な単語だろう。わたしとジオンの関係に無事なことなんてひとつもない。
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