ゴースト 名前のない男たち 7




 冷蔵庫の中身は拍子抜けするほど、独身男のそれだった。

 缶ビールが並ぶ横には、電子レンジで温めるTVディナーが無造作に突っ込まれている。この様子では訪ねてくる者もいないだろう。

「ミネラルウォーターをもらってもいい」

「すわってくれないか。話したいことがある」

 部屋には手作りのような無垢材のテーブルがあり、無骨な木の椅子が二脚あった。

 ここに? と無言の仕草で聞くと、ジオンは軽く笑みを作ってうなずいた。優しげな表情が、一瞬うかんでは消えていく。

「例の遺灰のことなんだが、どうするつもりだ」

「遺灰、あ、あの例の、兄さんじゃない……」

 ホテルの部屋で待っている誰とも知れない遺灰。どうしたらいいのだろうか。

「頼みがあるのだが。そのまま日本へ運び、俺の名前で葬ってほしい。ここにあっても、ジョン・ドゥー(名無し)として共同墓地に葬られるだけだから、気にすることはない」

「でも、それは」

「そうして欲しいんだ。それが、おまえの安全にも繋がる。なにも知らない方がいい。そんなことが世の中には多いんだよ。安全な日本で、これまで通り幸せな生活を続けて欲しい」

「そんなことはできないわ。だって、兄さん、どれだけ」という語尾が途中で消えた。兄が困ったような表情をしているからだ。

「俺はひとりで命が尽きるまで、ここで過ごしていく」

「誰とも話さず、誰にも会わずに?」

「ああ、そうだ」

 ジオンは、急にとまどったような表情を浮かべた。この場所に、わたしがいることに驚いているような顔つき。孤独が深く刻みこまれた寂しげな表情に、空気がよどんだ。

 不安が徐々に増してくる。

 ジオンが立ち上がって冷蔵庫を開け、コーラの缶を片手で開ける。プシューと音がして、泡がこぼれた。ごくごくと喉を鳴らして飲むジオンを見ていると、さらに悲しくなり下を向いてしまった。そのまま頑固にテーブルの木肌を見続けた。

 こんな孤独な場所。

 ゴオオという風の音や、グルグルルというカエルの鳴き声、虫の音、完全に自然の音だけが支配する寂しい世界で、ジオンはひとり食事をして、たぶん、本を読んだり、作業したりしているのだろう。

 そう思うと、切なくなる。

 孤独を受け入れ、暗いトンネルのなかをひとりで歩くと、兄は遠い昔に決めたのだろう。なんという人生なのだろうか。

「話をするのは苦手なんだが」

 兄は自分のことを話すのが苦手だ。昔も今もそれは変わらないと思う。それでも、なんとか説明しようと試みてくれた。

「俺を追う者がいるのは知っているだろう?」と、前置きしてコーヒーを口に含むと、自嘲するようにほほ笑んだ。

「これまで、すべてを捨てて逃げたのはおそらく六回かな、いやそれ以上かもしれない。はじまりは香港だった。俺は母とともに豪華ではあるが、どこへも出られない部屋にずっと閉じ込められていた」

「想像できないわ」

「そうだろうな。その屋敷は豪邸だったとは思う。中庭とふたつの部屋と儀式の部屋しか知らなかった。全体像はわからない」

「生まれてからずっと?」

「そうだ。母はときどき、どこかへ消えた。帰ってくるたびに泣いていた。その理由は知らないが、今なら想像はできる。俺たちは血筋を存続するためだけに、ただ生かされていたのだから。俺ひとりでは、心もとなかったろう」

 まさか、子どもをつくるために。しかし、ありうることだ。

「そんな生活が長く続いた。ある日、母は協力者の力を借りて屋敷から逃亡した。しかし、生活する術を知らなかったし、また、その方法もなくてね。結局は香港のスラム街に身を潜めるしかなかった。常に飢えるしかない過酷な生活だった。半年後、母は諦めたんだ。命を捨てたのは俺を逃すためだ。この呪われた血筋を断ち切ろうとした。『子孫を残さないで、最後のひとりとして生きなさい』。それが母の遺言だった。そして、俺を白川の父に託して川に飛び込んだ」

「最後のひとりとしてなんて、悲しい遺言ね」

「いや、合理的だよ。もう終わらせていい。こんな呪縛からはね」

 ジオンが実家に来たときを覚えている。異様に痩せこけた姿で、飢えた野生動物のようだった。

 日本語が話せず、唸り声を出すだけの彼。目が血走り、喉に青筋が立っていた。いかに逃亡生活が過酷だったか想像できる。

 あの記憶に刻まれた兄。なにか異質な、自分の常識では計り知れない異物が紛れ込んだ。そう思えて圧倒されていた。

 十二歳のわたしは、忽然とあらわれた兄に、平静を装い平気なふりを精一杯したと思う。それが成功したか、失敗したかわからないが。

「父さんは本当の父親だったの?」

「父さんは、ああいうちょっと人いいだろう。たぶん俺の実母に頼まれ、危険を承知で引き取ってくれた親切な人だったと思う。実際のところ、実の父親かどうかはわからない。たぶん、違うだろうな」

「でも、なぜ日本人である父さんがそんなことを。母さんに自分の子だと言うなんて」

「父さんはサフィーバ財団の関係者だった。俺を隠すために日本国籍を取ってくれた。財団の関係者は多くはないが、世界中に広がっている。まあ、言うなれば王家の血族を守る古い家臣団の血脈だ。彼らの一部に俗世で非常に成功し力も持っている者たちがいて、サフィーバの主な財源になっている。俺の存在は彼らの結束であって、俺なしではそんな成功者たちから財団のカルト集団に寄付金が入らない」

「お金が絡んでるなら、厄介ね」

「カルト的な要素があってね。今どき、愚かにも血の聖性とか、本気で信じている奴らがいるから、困ったものだ」

 世界には公にはならない多くの、それも奇妙な集団が存在するのは確かだが、それにしても兄が王族の血筋などとは、普通に信じられない。その上、義父がサフィーバ財団と関係があったとは。もしかすると家族で何も知らずにいたのは、わたしだけだったかもしれない。

「じゃあ、父さんは中国人だったの?」

「たぶん、父さんは帰化人で中華系日本人だったのだろう。サフィーバ財団を後援する人びとから頼まれたのかもしれない。サフィーバには二つの流れがあってね。その中に内部の者でも、持て余すような狂信者がいる。特に高浩然ガオハオリャンは危険な男だ。優秀だが凝り固まっている。俺よりも三歳年上で、ほぼ一緒に育った従者のようなやつだった。いつも憑かれたような目で俺を見ていた。俺のためなら、どんなことでもする」

 ジオンが疲れたような表情を浮かべた。感情を表に出さない兄が嫌悪感を見せる高浩然ガオハオリャン。いったい何者なのだろう。

「彼が狂信するのはサフィーバの古い掟だが、それはもう信仰に近い。関係のない人間からみたら、馬鹿馬鹿しいことを心から信じるのがカルト集団だ」

「その財団に属する人は、みなそうなの?」

「そうではない。高浩然ガオハオリャンを中心にした一部の狂信者だけだ。しかし、それが厄介だ。王家を守る家臣団としての使命を、体の芯から正義だと信じている。だから逃げても逃げても血眼ちまなこになって探される。俺という存在が、あの集団にとっての唯一無二だからだ」

 サフィーバ財団の歴史は古い。新興宗教と同じで完全に洗脳された狂信的な人物がいるのだろう。外務省で見た幼いジオンの映像を思いだして、吐き気がする。

 水瓶みずがめに沈められ、苦しみ、失神していた少年。ジジジジジという古い映像テープから出る音が、まだ耳に残っている。

 兄さん……。なぜ、兄さんだけが。世の中は本当に不公平だ。そんな業を背負って生まれてきた理由なんて、何もないに違いない。

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