ゴースト 名前のない男たち 6
「何を笑っている」
「笑ってないわ。ただ、わたしはバカだと思っただけ」
「いいや、いい女になったよ」
あの兄がほめ言葉を使うなんて、思わず喉の奥でごくりと
窓の外は何も見えない暗闇で、ジオンの運転は雑でスピードもかなり出ている。
わたしは無意識に五月端の運転と比較した。五月端は几帳面な性格で、きっちりと道路交通標識を守り、時に慎重すぎて、わたしをよく笑わせる。なぜ、黄信号で停車するのかと、せっかちなわたしはイラつくこともあった。
──この交差点、進めたわよ。
──信号が黄色に変わった。
──黄信号なら、行けるじゃない。赤信号、まだまだって!
──それでも弁護士かね。遵法精神が足りなさすぎる。
──へいへい、教官。
その後、信号で止まっている間中、「へいへい、へいへいへい」とリズムをつけ、首を左右にふって歌い続けた。彼は呆れ、それから静かに笑いだしたものだ。
あの、なんでもない午後の、なんでもない日曜日、普通のドライブを思い出すと泣きそうになる。五月端との日々が、なんと遠くに感じるのだろう。
きっと、わたしはどれほど一緒にいても、ジオンの隣で軽口を叩き「へいへいへい」とバカみたいな鼻唄を歌うことができないだろう。
「目的地はもうすぐだ。ジャリ道を進むから、揺れる」
「どこへ向かっているの?」
ジオンは答えなかった。ウインカーを右に出すと車線変更して、フリーウエイから一般道に入る。
どこに向かっているより、本当は何のためにと聞きたかった……、十代の頃と同じように、わたしは言葉を喉もとでとどめてしまう。
おそらく、男には二種類のタイプがあると思う。かたわらでくつろげる人と、ドギマギしてしまう人と。五月端とジオンはまさに両極端だ。
「この少し先だ」
ジオンはさらに脇道へと乗り入れた。一本道から細い砂利道へ右折する。舗装されていないため、ガタガタと車体が揺れる。わたしはドアポケットにしがみついた。
星明かりも届かない真っ暗な道で、ヘッドライトが照す木肌しか見えない。深く暗い森に入り込んだようだ。
砂利道が突きあたりで終わる。木で作ったフェンスがあり、簡易的な門もある。ピックアップトラックは、ガクンという音を立てエンジンが切れた。
しーんとした静寂に満ちた世界が広がる。
キョッキョッキョッという
こんな何もない、車も通らない人気のない場所で、もしも……。
一瞬、恐ろしい考えが浮かび、はっとして否定した。
たとえジオンが連続殺人犯で冷血な男だろうとも、わたしは彼と五年の歳月をともに過ごした。わたしのために暴漢を痛めつけた。そう考えたとき、あの男が溺死したことを思いだした。
インターポールの、そうだ、あの男の名前を思い出した。中原だった。あの警官によれば、ジオンは国際手配されているという。
「ここに、何があるの」
ジオンは返事をせず、運転席から降りて後部座席のドアを開けた。降りろということだろう。
「喉が渇いてないかい?」
「いえ、なぜ、こんな場所で」
わたしは冷静な態度でいたかった。しかし、実際は怯えており、兄を理解できないし、ウィルの凄惨な姿を思い出すと恐怖を感じる。
「緊張しなくていい。誰かの監視がない場所で話がしたいだけだ」
「それが、ここ?」
「おいで、
左手をリアドアに置いて、かがんだジオンが右手を差し出した。顔が近づく。彼がいかに魅力的かということを、わたしは完全に忘れていた。
年を経て憂いを増した美貌。中性的な魅力は相変わらずはっとするほどだ。
まるで、催眠術にでもかかったように彼の手を取る。かすかに体臭のまじった汗の匂いがする。
外は昼間の熱が残っているが、心地よい夜風が吹き過ごしやすい。空気に混じり水の匂いもする。すぐ近くに川か湖があるのはまちがいない。
ジオンが懐中電灯を照らした。
そうでもしないと、真っ暗闇で足もとがおぼつかない。
「怯えることはない、櫻子」
歩いた先に湖があり月の光にキラキラ輝いている。岸辺に木造の貧しい掘立小屋がぼんやりと見えた。
ジオンは慣れた様子で掘立小屋のポーチを上がり、扉を開いて、わたしを招き入れる。
オレンジ色の照明がつく。
木の香りがした。すぐ目につくのは暖炉だ。その前にはロッキングチェアがひとつ。いかにも男のひとり暮らしという雰囲気で飾り気がない。
玄関の右手には、シンクとガス台があるが、ガスは引かれてないのか。野外テントなどに使うカセットコンロが置いてある。電灯があるところを見ると、電気が来ているようだ。
全く女気が感じられない。ここでひとり暮らしをしているのだろう。そう思うと、せつなくなる。こんな人里離れた場所で、たったひとりで。
「ここで暮らしているの」
「ああ」
「ひとりで?」
「ひとりだ」
ジオンは手慣れた様子で湯を沸かしはじめた。
「コーヒーでいいかい。冷たいものなら、冷蔵庫に水とかコーラとかある」
大型の冷蔵庫がシンクの傍らにあった。どんなものが入っているか興味があったので、「自分で取っても?」と聞いた。
「好きにしてくれていい」
普段なら、わたしは他人の生活にあまり興味を持たない。
近所に、やたら関心を持つ人がいるが、何の意味があるのか正直なところ理解できない。
人は人、自分は自分と思っているわけでもない。
なんとなくだが、少し普通ではない家庭に育ったせいか、世間に馴染めない。どうせ他人と達観したところがある。
しかし、ジオンは別だ。
彼がどんな生活をして、どんなものを食べ、これまでどう生きていたか、すべてを知りたいと思う。思うだけでなく、彼が穏やかで幸せに生きていてほしいと願っている。
この気持ちにどんな名前をつければ、完璧にあてはまるのか……、わたしは迷っている。
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