ゴースト 名前のない男たち 5



 ピックアップトラックは夜のフリーウエイを走り抜ける。

 ミシガン州は高速道路を数十分も走れば、民家はまばらになり牛舎やショッピングモールがポツポツ現れるだけの牧歌的な風景になる。

 夏のギラギラする太陽が西に落ち、カラッとした夜の空気が肌に心地よい。

 なにもかも忘れ、このまま兄とともに遠くへ行く。そんな風に、しがらみや仕事を捨て去った先に何があるだろう。

 兄と逃げたいのか……、そう迷う自分に驚く。

 外務省で会ったインターポールの男、なんて名前だっけ、思い出せない。

 ともかく、あの警官は兄が危険だと言った。しかし、困ったことに、わたしはリラックスして、延々とつづく真っ暗な夜を楽しんでさえいる。

 周囲はどんどん寂れ、走る車もまばらだ。ときどき対向車のライトに浮かびあがる景色以外、暗闇しかない。地球上には兄とわたしだけがいた。

「空港で出会ったとき、まったく疑いもしなかったな」

 ジオンが先に口を開いた。兄は寡黙かもくな人間で、自分から話しかけることはなかった。十九年という歳月は、やはり性格を変えるのだろうか。

「それは……」と、わたしは誤魔化した。「記憶を上書きしていない? わたしは逃げようとしたけど、しつこく追ってきたのは、そっちよ」

「そういう意味じゃない」と、兄が口もとを緩めた。

「コービィ・ウィリアムと疑いもしなかった」

「最初に断っとおくけど、遺体を引き取りに来たの。兄さんが孤独のうちに溺死して、ジョン・ドゥ何番と知ったときの気持ち。そんなわたしをウィルになりすまして、ただ見ていたなんて。控え目に言っても、酷すぎる」

 眉をひそめ、唇をすぼめ、横目で兄をにらんだ。わたしの表情がよほど変だったのか、ルームミラーに映る兄の目は笑っているように見えた。

「悪かったよ、俺の小さな妹。心から悪かったと思っている」

「じゃあ、デトロイト川で発見された遺体が誰なのか教えて」

「わからない。ちょうど同じ時期、行方不明になったアジア系アメリカ人だとすれば、ゴーストのひとりだろう」

「ゴーストって?」

「そうだね、どう説明すればいいのか。ゴーストとは企業に潜り込み、機密文書などを盗んで転売することを職業にする。まあ、そんなアウトローな男たちのあだ名みたいなものだよ。彼らには名前がない。だからゴーストと呼ばれている。文字通り幽霊のような人間だ。政府関連や民間企業からすれば、うるさいハエみたいなものだろうな」

「ハッカーってわけ?」

「ハッカーでもあるが。最先端技術を盗む者たちだ。一例だが、外部からハッキングできない企業機密などが標的になる。そもそも機密情報を外部ネットに繋げていなければ、ハッキングは無理だ。ネットというのは外部からの攻撃には強いが、内部からならばセキュリティを破るのは簡単だ。ゴーストと呼ばれる者たちは、仮の身分で企業に潜り込み機密データにアクセスして、それを売り渡して莫大な報酬を得る」

「つまり、兄さんも、そういう仕事をしているの?」

 兄は何も答えなかった。

 運転に集中した様子でハンドルを握っている。フリーウエイを走る車は昼間に比べて少ないが、逆に乱暴な車は多くなった。集中しなければ危険だが、質問から逃げたようにも見えた。

「ウィルは知り合いなの?」

「あの探偵事務所の男か。いや、まったく知らない」

「じゃあ、なぜ、空港でウィルのフリができたの?」

「昔と本当に変わらない。質問が多い」

「その上、目の色が青いなんて」

「あの時は、わざとカラーコンタクトをつけていたんだ。バレないようにな」

「つまり、今回のことがなければ、わたしに知らせずにいたというわけ」

「許してほしい」

 そう言った声は昔のように冷たく、嫌になるほど理性的だった。わたしが知る学生時代の兄と性格は変わっていないようだ。その上、十九年すぎても、ムカつくほど魅力的だ。

「わたしの質問に答えたくないのね」

「もう十九年だな」

 兄は深く長いため息をついた。かつて、わたしが知った少年の幼さはない。その代わりに、成熟した男の顔になっている。

 兄が頭を左に傾けた。その拍子に首筋に傷跡があることに気づいた。

 たぶん、わたしの想像もできないほど厳しい人生を歩んできたにちがいない。それがどんなものであったにしても、生きていてくれて良かったと思う。

 いや、そうだろうか? 

 もし兄が連続殺人犯なら、よかったと手放しで喜べるだろうか。わたしは頭を振って、余分な考えから逃げるように質問した。

「どうして、わたしが日本から来るとわかったの?」

「遺体がどうなるのか、チェックしていた。そこで、お節介な妹が引き取り手になると聞いて驚いたよ」

「ふ〜〜ん。それで、空港で待っていたのね」

「あまり知らないほうがいいんだが。俺を狙う財団の話を聞いているだろう?」

 サフィーバ財団。王族の末裔を祀る秘密結社とかいう非現実的なストーリーだ。

「聞いたわ。王族の血筋とか。その財団には二つの組織があって、古いしきたりを完璧に守ろうとする急進派とか、対立する穏健派とかいて、兄さんを追っていると」

「ああ、大方、そういうことだよ。だから、妹の安全を確認したかった」

 わたしたちは互いに大事なこと避けて会話しているような気がした。

 わたしは窓の外に目を凝らした。夜は深く暗い。郊外に来るとフリーウエイ上には街灯がなくなり、真っ暗闇だ。対向車がなければ、ピックアップトラックの細いヘッドライトしか光は見えない。

「兄さんの周囲で多くの溺死体があがったわ。兄さんが殺したの?」

 明日はいい天気かしら? と聞くような調子だといいと思った。

「いいや」

 兄は否定した。その言葉を信じたいと思った。たぶん、わたしはどうかしているし、これまですがってきた常識も捨てたかった。

「ねぇ、わたしが、これまでどう生きて、今、何をしているか知っている?」

「……」

「これでも、日本で弁護士資格を取って働いているの。もし、法律を犯しているなら、気軽に相談して、安くするわ」

「それは安心だ」

 優しい声。優しい声。優しい、わたしのジオン。

 わたしは無謀なところがあって、五月端にいつもたしなめられている。時として、その場しのぎに動き、時々、いや、すごく反省はするが分別とは馴染みがない。分別のある生活ができるなら、今、この場にいないことも、連続殺人犯と警察が認定する男の車に乗っていないのも明らかだ。

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