ゴースト 名前のない男たち 4



 深く洗練された低音。この声が兄以外に誰のものだというのだろう。

 多くの人を惹き寄せるその声、その表情、その仕草。ジオンは悪魔だ。本人はまったく意識もせずに、周囲はみな蜜に群がるアリのように吸い寄せられる。

 空港で出会ったときも、その後も、なぜ気づかなかったのだろう。

 いつものことだが、ひとつのことに集中すると他が見えなくなるのがわたしの欠点だ。弁護士の仕事でも五月端によく注意された。

 わたしは兄が死んだものと思い込んでいた。

 その思い込みから、偽ウィルに会ったとき、マスクとサングラスで顔を隠した兄だとは予想外だったのだ。異国の地、兄の溺死。多くのことに動転して大事なことを見過ごした。十九年ぶりの大人になった兄に、少年だった彼を重ねることができなかった。

「兄さん……」

「元気だったか?」

「ふざけないで、兄さん。ジオン、元気って、元気かって、それだけ? あの時、空港で、なぜだましたの。なぜ最初に言ってくれなかったの。どれだけ、どれだけ心配していたか。そんなわたしを見て面白かったでしょ。バカみたいに泣いて。バカみたいに苦しんで」

「悪かった」

 驚きと怒りで顔が火照った。言いたいことは山ほどある。しかし、実際には、その場に茫然と立ったまま、近づくこともできず、支離滅裂な言葉を繰り返すだけで。冷静になんて、役にも立たない言葉だ。

 弁護士としてある程度の尊敬も得て、男も知り大人になった。それなのに、一瞬で十代の不器用なわたしに戻ってしまう。

 高校生のころ、兄の顔を見るたびに──それは、いっしょに住んでいたのだから当然のことなのに──ドキドキする自分が嫌いだった。すぐ頬が赤くなるのを感じて、それをごまかす自分を恥じていた。

 あの頃からまったく成長していない。

 兄の顔が見えなければ常に探し、近くにいれば平静を失う。だから、わたしは必要以上に兄の世話を焼き、そんなわたしを兄は面白がっていた。

 ──小妹シャオメイ我管你ウォグァンニ

 ──シャオメイ ウォグァンニって何?

 ──妹なんて知ったことかという中国語だ。

 からかうように口にするジオン。まだ少年だったがセクシーで……、わたしはそう呼ばれるたびに怒ったが、内心では嬉しかった。

 今、心臓の鼓動が自分でもわかるほど高なっている。汗が吹き出し、同時に寒気がして震えた。

 聞きたいことは多かった。

 あのデトロイト川の遺体が兄でなければ、あれは誰だろう?

 いろんな思いがぐるぐる巡って、頭が混乱して失神しそうだ。

「櫻子」という、切羽詰まった声が聞こえたが、もう、どうでも良かった。

 慣れない環境下での数日。恐ろしい出来事が続いた。わたしは限界だった。自分の体が自分のものでないような、宙に浮いた感じ。

 天井がぐるぐる回って、こちらに向かって手を差し伸べる男の顔がゆがんで見える。

 そうよ、ジオン。心配しなさい。いい気味だわ。

 意識を失いながら、この場合、まったく的外れな感想を思い浮かべる自分を嘲笑ちょうしょうしたかった。幸いにも、笑う前に意識を失ったけど。




 体の下から振動が伝わる。車に乗っているようだ。薄目を開けると運転席のヘッドレストが見えた。例のピックアップトラックの後部座席で横になっていたようだ。

 かなりのスピードが出ているのは体感でわかる。

「気がついたか。もうすぐ到着する。まだ、眠っていたらいい」

 肘をつき起き上がったが、実際にそうしたかったのかは疑問だ。兄のペースに巻き込まれると自分を見失ってしまう。

「どこへ向かっているの?」

「とりあえず、安全な場所だ。あの探偵事務所は危険だろう」

「危険って、兄さんといっしょが一番の危険な気がするわ」

「ああ、一理あるな」

「ウィルを襲ったのは、兄さんなの?」

「いや、俺ではない」

「じゃあ、なぜ、ウィルの事務所に」

「それは、たぶん、おまえと同じ理由だよ。なぜか知りたくて行った」

 わたしは起き上がって、外を見た。

 フリーウエイを走っている。ミシガン州に来たのははじめてで、だから、通り過ぎる標識を見ても、さっぱりどこに向かっているのかわからない。

 運転席の兄はサングラスもマスクもしていない。

 その横顔から、わたしの知るかつての幼さは消えていた。

 もともと、十代の頃から兄は妙に成熟した顔つきをしていたが、頬のラインは研ぎ澄まされ、涼しげな奥二重の目もとは十代の頃より男の色気が増している。

 なぜ、兄はこうなのだろう。

 わたしはよく兄が生きていたら、どんな姿かと想像した。皺が増え、頬がたるみ、太って若い頃の美しさをすべて失った兄を考えて笑い話にしたかった。

「何を見ている」

「どれだけ変わったかと思って」

 兄は皮肉に顔をゆがめたが、何も言わなかった。無口で感情が見えないのは、昔と変わらない。喜んでいいのか、悲しんでいいのか、あるいは、心配するべきか、怒るべきか。これは屈辱でしかないが、ジオンが存在するだけでわたしの周囲は消え、彼しか見えなくなる。

 わたしは何歳になったのだろう。

 経験を経て大人になったはずだ。少なくとも少女の頃に想像した三十五歳という大人の姿ではない。

 だから、こういう場合、もう十代ではない成熟した女性が見せるべき態度について何パターンかのシミュレーションを考え、そのなかの一つを選んだ。つまり、黙ったのだ。

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