ゴースト 名前のない男たち 3




 冷たい汗が背中をひとすじ流れていく。後ろから、はがいじめされビクッとも動けない。

 しかし、わたしは抵抗しなかった。

 体の力を抜いたまま、男に身を任せた。どうせこの力の差だ。暴れても勝てない。それに、この相手はウィルを傷つけた奴じゃない。間違っていなければだけど。たぶん、大丈夫だ。

『騒がないのか?』と、意外そうな声が頭上から聞こえた。

 ウィルが襲われた状況。バスタブで残酷に痛めつけられた顔や体。

 その暴行者が戻ってくるはずがない。少し考えればわかる。なんであれ暴行した奴は目的を果たした。

 奴らはウィルがわたしに連絡をしている時に襲った。警官も言っていたが、ウィルは弱くない。とすれば、相手は一人じゃない可能性も高い。彼らはウィルと争い痛めつけバスタブに水を張り沈めた。そして、ドアの鍵を開けたまま逃げた。ほぼ、わたしが現場に到着した時間と大差ないはずだ。おそらく、わたしが中に入るのを見ている。暴行するつもりなら、その時にしたはずだ。

 あの時、しばらくして車が去る音が窓から聞こえた。

 いったい何の理由でウィルを痛めつけたのだろうか。彼の発見したものが、よほど核心に迫っていたのか。

 そもそも、ことの発端であるデトロイト川の遺体。兄の遺体を引きずりだして、わざわざ警察に通報する意図はなんだったのだろう。

 古いパスポートや財布を残して、兄だと確認させる、その意図。

 遺体が日本人だとわかれば、米国側から在日本総領事館に連絡が行き、日本の外務省に問い合わせが来る。唯一の親族はわたししかいない。

 誰かが、わたしを米国まで呼びたかったのだろうか? 

 これは突飛すぎる考えか? それでも、わたしを呼んでいる誰かがいるとしか思えない。

 わたしの予想が間違ってなければ、今、わたしを抑えている男は、たぶん……。この男は、たぶん、わたしがここに来たのに驚いているはずだ。

『なぜ、おまえがここにいるんだ?』

 特徴的な深い低音、忘れ難い声。やはり、そうだ。あのカウボーイハットの男だ。ウィルのニセモノに間違いないと思う。空港でわたしを騙した男だ。でも、どうして……。いや、どうしてじゃない。

『静かにできるか?』と、男が聞いた。

 わたしは何度も首を前後にふり、静かにすると合図した。愚かで、お人好しの自分に見えるように。考えなしですぐに行動する櫻子のように。みなが助けたくなる櫻子。わたしはデフォルト櫻子役を演じる。

 だから母さん、守ってくれるよね。数字を一から十まで声に出さずに数えたわたしは冷静だよね。

 よし、心は冷えている。

 ふいに体が自由になった。重心を失い、床に尻もちをついた。無理な体勢で落ちたから、横顔をしたたかに打ってしまう。フロアが絨毯だったから救われたようなもので、それほど痛みはない。

『大丈夫か!』という、あわてた声が聞こえた。

 何が大丈夫よ。襲ってきたのは、そっちという言葉をのんだ。

 冷静に状況を見極めよう。それには床にへばりついて倒れている場合じゃない。わたしは起きあがろうとして失敗した。こういう暴力沙汰になれてないから、自分では冷静のつもりが、思った以上に動揺して体が思うように動かない。

 まあいい。それで相手は油断するかもしれない。

 男が手を差し出してくる。

 その手を無視して両手をついて体を起こした。半腰になり、それから迷って、その場にすわる体勢を選んだ。

 どうすればいい?

 こんなアクション映画のような状況は、わたしの職業からも、わたしの年齢からもふさわしくない。普通なら、結婚して母親になり子どもの世話をしているはずだ。学生時代の友人は、みな、そんな真っ当な生活をしており、ママ友や夫や、その他もろもろの日々を愚痴っている。

 彼女たちは、まちがっても外国のうらぶれた探偵オフィスで、危険な男に羽交い締めされ、どうするか冷や汗をかいたりしない。

 男は余裕のある態度で窓ぎわまで下がり、こちらを見ている。両手を上げているのは、乱暴はしないという合図だろう。

「誰?」

 床にすわったまま、わたしは虚勢をはって、わざと日本語で話した。

 ウィルが前に指摘したように、この男は日本語がわかると思う。検視の場でも、言葉がわからない人のする無意識の反応がなかった。退屈そうにも見えなかった。理解していたにちがいない。わたしが愚かにも気づかなかっただけだ。

「日本語がわかるんでしょ?」

 男は何も答えなかった。今日はカウボーイハットもサングラスもマスクもしていない。

 窓を背にした黒いシルエット。そのまま動かないということは、やはり襲うつもりはない。間抜けなことに、その時、わたしのスマホが鳴った。わたしは男を見て、バッグに視線を移した。

「出てもいい。ただ、俺のことは話すな」という言葉は日本語だった。

 わたしはふっと鼻で笑い、スマホをバッグから取り出した。メールだった。

[まだ、帰国しないか? いつ帰国するのか連絡をください]

 五月端だ。本当に泣きたくなる。きっと安全な日本で心配しているのだろう。ええ、確かに心配しても良い状況だわ。もしかしたら、連続殺人犯と対峙しているのかもしれないから。

 わたしは逆らわないという意思表示に、相手にメール画面を見せた。

[今、立て込んでいます。後ほど、連絡します]

 もし、これが最後の言葉だとしたら、五月端に申し訳ないと思った。だから、いつもなら決してしないことをした。

 メールの最後に[いつもありがとう]と付け加えたのだ。人間というものは、危険に際して、たいてい思ってもみないことをするようだ。

 メールの返信を書いて、男に見せる。

 男はうなずいた。

 わたしは男をまっすぐに正面から見つめた。

 窓から入る夕陽を背に、ゆったりと枠に体をゆだねている。完璧に近いスタイル。

 汗をかいたのか、濡れた白いシャツが張り付く筋肉質な肌。広い肩。モデルのように長い足。長めの髪は乱れている。

 そして、どこかなつかしい思いを抱かせる。

 理由はないが、恐怖を感じない。それは、彼の落ち着き払った態度がかもし出す雰囲気のためだろうか。

 ああ、ちがう。そんな理由じゃない。わたしは、なぜ気づかなかったのだろうか。

 この男、よく知っている。

 別の意味で近づくと怪我をする、危険な男だ。

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