ゴースト 名前のない男たち 2
「ウィル! ウィル! ウィル!」
バスタブにウィルが沈んでいた。
血で赤く染まった水、ポタポタと溢れた水滴がフロアを濡らしている。ブラウンの髪が水に揺れ、水面を透かして見える青白い顔は……。
悲鳴をあげそうになり、息を止めた。
赤黒く
骨が折れたのか。バスタブに沈んだ右腕が、ありえない形で反り返っている。
ウィル、ウィル、ウィル!
声にならない悲鳴をあげ、全身ずぶ濡れになりながら、彼をバスタブから引き摺り出そうとした。
水を含んだ服と体。身長は170センチほどで痩せているのに重い。両腕の間に手を差し込み、顔から先に引き摺り出して力の限り引っ張る。腕の筋が切れそうなほど力が必要だった。
ドタンと音を立ててフロアにウィルの体が落ちた。その勢いで、自分まで尻もちをついていた。
起きあがろうとして、ぬるぬるした床で手が滑る。バタバタしながら起き上がり、無意識に叫んでいた。
「ウィル! 目を覚まして、ウィル!」
生きてる? 生きてるよね?
ずぶぬれの胸に耳を当てた。
鼓動が聞こえない。だが、触れた頬は冷たくない。心停止して三分内なら、まだ生き返る可能性があると聞いた。
三分。
わたしがウィルの声を聞いたのは十分ほど前。その時は元気だった。あの時、急にスマホが切れた。鼻の傷や、腫れ上がった右目、骨の折れた右腕、相手と必死に戦ったはずだ。
三分。可能性がないはずはない。
こういう場合は、水を吐き出させてはいけないはず。吐瀉物で息が止まると聞いた。し、し、心臓。そう、心臓マッサージ? 救急車は?
アメリカの救急番号は? たしか、911。
スマホをスピーカーにした。
『ヘイ、
ピピンという音がして
『はい、911に連絡します』
ウィルの顔は青ざめ呼吸をしていない。だめよ、生きてくれなきゃ。
スマホから呼び出し音は聞こえるが、誰も出ない。
どうしよう、どうしたらいい。
──人間の真価はね。緊急時に試されるのよ。泣いたり騒いだり、普通のときなら、いくらでもしなさい。でも、緊急時は泣いてちゃだめよ。落ち着きなさい。
どんなときも守ってくれた冷静で温かい母の言葉だ。わたしは母に憧れていた。あんな女性になりたいと思った。
「冷静に、落ち着け! 心肺蘇生よ。方法を思い出して」
そうよ、胸に手のひらをあて、片方の手を上に重ね、垂直に胸が深く沈むほど力強く押す。
「一、二、三……」
全体重をかけて必死に圧迫した。確か、一分間に百二十を数える速度だ。すぐに汗が噴き出してきた。本来なら人工呼吸もすべきだけど、素人のわたしには難しい。
『ハロー』と、スマホからやっと声が聞こえた。
『ハッ、ハアハア、た、助けてください。人が、人が、息をしていない』
『落ち着いて状況を教えてください。まず場所から』
状況と住所を伝えながら、心肺蘇生を続ける。
心のなかで必死に叫んでいた。
──ウィル、ウィル、わたしに伝えたいことがあるんでしょ。生きて、死なないで。
たぶん、長い時間じゃなかった。しかし、わたしには永遠とも思える時間、ひたすら胸を圧迫した。一秒が一時間に思える。
顔から汗が滴れ落ち、ポタポタとウィルの顔に落ちていく。流れる汗が目に入り、その刺激で痛む。
どのくらい、そうしていただろう。救急隊はすぐ向かうと言ったが、いっこうに来ない。
と、ウィルが口から水を吐き出した。
『ウィル!』
表情はうつろで、ただ、ぼんやりとこちらを見ている。嘔吐したときは、体を横向きにするんだっけ?
膝立ちで、全体重をかけて心臓マッサージしたので、力が抜け、彼を横向きにするのも大変だった。ただ、夢中だった。普段なら思いもよらない力が出た。
口もとに耳を寄せると、ひどく心もとない息遣いだが、しかし、呼吸をしている。
『ウィル! 息をして! 息をするのよ、このバカ、息をするの!』
背中を叩き、腹を押すと、彼は水を吐き、さらに嘔吐した。
口のなかの吐瀉物を掻き出し、心肺蘇生を続けた。
救急車のサイレン音が聞こえる。救急隊員が到着した時、わたしの意識も
ウィルはデトロイト・リセイヴィング病院に運ばれた。命は取り留めたが、ICUで腕に管を繋がれ酸素吸入器をつけた姿は痛ましい。
救急の誰かがデトロイト市警に通報したのだろう。ソファでぐったりしていると、ふたりの警官が向かってきた。
『ちょっと、よろしいですか』と声をかけられ、ハリネズミのように神経を尖らせた。
ごつい警官を見上げながら、ふと、五月端でもなく、兄でもなく、母に会いたいと思った。母は何でもひとりで解決する人で頼りになったが、実際は心細かったのではないだろうか? きっとそうだったにちがいない。それでも、家族を不安にさせずにがんばっていた。わたしにはできそうにないと思う。
『お聞きしたいことがあるのですが』
『ええ』
黒い制服姿に腰に拳銃と警棒を吊り下げた警官の姿は威圧感しかない。
わたしは少し華奢な程度で、背は高いほうだ。だが、この警官たちを目の当たりにすると自分が子どものように感じる。
彼らに聞かれるままに、わたしがここにいる理由、兄の遺体を引き取りに来たこと、ウィルに捜査を依頼したことなど話した。意外にも彼らはウィルのことをよく知っていた。
『ま、無事でよかったんですが。では、何も見ていないと』
『はい、呼ばれてオフィスに行って、ドアに鍵がかかってなくて、それでバスタブに沈んでいる彼を発見したのです』
『そうでしたか。ウィルは用心深いから、危険なことに頭を突っ込まないのですがね』
ええ、そうでしょうとも。
危険な女ランキング1位のわたしと関わらなければ、ウィルは無事だったのかもしれない。遠い昔、兄も、わたしが暴漢に襲われたから逃げる羽目になった。その結果が、この地で溺死体として発見されたという訳だ。
『医師の話では、ウィルは意識さえ戻れば後遺症が残らないようです。なにはともあれ、タフな男ですから。それにしても、あなたの応急処置が良かったそうですよ。医師が褒めていました。危ういところで死に
『日本で講習を受けたことが、ただの聞きかじりで。でも、役に立ってよかった』
『あなたがいて良かった。きっと大丈夫ですよ、しぶとい奴だから』と、男のほうが笑った。
『それにしても、ウィルをここまで痛めつけるとはね。相手は、かなりの手だれですな。何か心あたりはありませんか?』
『ごめんなさい。お役に立てそうにないです』
心あたりと言えば、ひとつしかない。兄のことだが、ほとんど何も知らない。
実際のところ、わたしが知りたいくらいだ。呼ばれてオフィスに行ったら、彼が溺れて死にかけていた。誰かに襲われたが、相手はわからない。いや、わかりたくなかった。
『ウィルのことは、こちらにお任せください。念のため、ご連絡先をお教えください。しかし、お顔が真っ青ですよ。大丈夫ですか?』
『今は、マリオットホテルに泊まっています。わたしも彼の意識が戻ったら、聞きたいことがあるのです。連絡をこちらにお願いできますか』
『わかりました。このまま帰られるなら、安全のために、ホテルまでお送りしましょう』
『大丈夫です。タクシーを呼びますから』
その後、いくつかの質問には答えを選びつつ説明して、最後にスマホの番号を教え、病院から外へ出た。
ひとりになると、急に心細くなった。
太陽はまだ空に残っており、濡れた服もすぐ乾くほど乾燥している。しかし、日陰ではそれほど暑さを感じない。タクシーを待って、ぼうっと木陰に立っていると、捨てられた菓子袋がカサカサ音を立てて飛んできた。
タクシーが到着した。
警官の好意を断ったのは、ウィルのオフィスを見たかったからだ。彼がわたしに見せたかったものがまだ残っているかもしれない。
だから、もう一度、赤煉瓦の建物に戻った。
二階のオフィスには市警が貼ったのだろうか、黄色い規制線がある。
周囲をキョロキョロ見渡して誰もいないことを確認した。どこにでもあるアメリカの街路しか見えない。
用心して、ドアノブを回してみた。鍵がかかっていない。これは、良かったと思うべきだろうか? オフィスに足を踏み入れた瞬間、奇妙な感覚を覚えた。
危険?
室内に入る。ドアが音を立てて閉じた。
と、ふいに背後から口を塞がれた。手袋だろうか、ゴムが発する不快な匂いが鼻についた。
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