第六章
ゴースト 名前のない男たち 1
嘘が続けば、それが真実だと勘違いしていく──
わたしはジオンをあまりにも知らなかった。自分の兄が王の末裔という
もし、兄が生きているとすれば、遺体を川から引きずり出したのはジオンである可能性もある。外務省で会ったインターポールの男が言ったように、兄は連続殺人犯なのだろうか。
わたしはこれを否定するか、笑い飛ばすか、どちらにしようか。連続殺人犯の王族か、美しく無口な兄か、どちらを選ぼうか。
その夜も眠れず、体内時計は完全に狂ったまま、深夜まで考えこんではうつらうつらした。
こんな日は、いっそ眠るのをあきらめたほうが潔い。
ベッドから抜け出すと、スマホがぶるぶる震えている。おそらく五月端からのメールだろう。この時間なら日本では昼の三時過ぎ。仕事が一段落して、メールを送ってきたにちがいない。
内容は読まなくても想像がつく。
[早く日本に戻れ]
既読無視するのも申し訳ないが、返事もできなかった。
いつの間に、彼の助けが少し重荷に感じてきたのだろう。彼の心配が、彼の世話が、彼の優しさが、……彼の愛が。
わたしを子ども扱いすることで、安心する彼の態度に、いつか笑えなくなる日がくるかもしれない。それを考えると悲しくなる。
深く考えれば、彼の愛情を受ける資格が、今のわたしにはないと思うからだ。
翌朝、ウィルを捕まえるのが難しかった。
ホテルのレストランで昼食を頼んでいるとき、やっとウィルから連絡が来た。
『ああ、眠い……』
『さすがにね、ウィル。あなたが眠くないときがあったら、逆に驚くけど』
『これでもね。ずっと調べものでね。ともかく、寝たのは午前三時過ぎ。だから眠いのだ』
『わたしは時差が残っていて、逆にその時間から起きてしまうわ』
『それは幸運だ、夜は長いほうが楽しいもんだ。さて、チェリー、こっから本題ね。市警に確認してみたけど、デトロイト川岸で逮捕された人間がいないのだよ。あのチンピラが嘘をついたとは思えないけど。ともかく、白川ジオン氏の遺体を発見できたのは、単に善意の人の通報ということになって……』と、途中で言葉が途切れた。
軽く鼻をすする音がして、カチャカチャと食器が鳴る音も聞こえてくる。
『それでさ、その善意の人ってのは誰か? とね。ちと、脅して裏を取ったら、間抜けな話が出てきたのだよ。どうも取り逃しちまったらしい。まったく、僕の善意が無駄になってしまう。いつまでデトロイト市警は破産後遺症を残すつもりなんだか。最近じゃ、それを理由にサボってるのだ』
『つまり、何もわからないのね』
『いや、そうでもない。クレジットカードの件はわかった。カード会社を調べてみたんだが、白川ジオン名義でカードを作っている人物がいない。カード社会のUSAでは珍しいことだ。そんなこんなで、事務所に来てくれないかな。新しい発見があって、見てもらいたいものがある』
『ええ、すぐ行くわ。場所は?』
『あ、来る? 良かった。場所はウッドワードアベニューから一本入った三階建てのビルだよ。個人オフィスで、ホテルからタクシーを呼べば五メーターほど、十分ほどでチャチャって来れるから。住所は……』
ウィルは早口に甲高い声で住所を告げた。
そう言えば、ニセモノの声は低音で深く耳に心地よかった。五月端が一緒だったらすぐに見破っただろう。
『着替えたら、すぐ行くわ』
『ああ、待って。ちょっとだけ先客があってね、そっちを済ませるから、三十分ほど後でいいかな。出かけるときは連絡をくれ』
『ええ』
食事を無理に流し込んで、コーヒーを頼んだ。米国へ来て、いい慣習だと思うのは、レストランでコーヒーのお代わりが自由なことだ。だから、ついつい飲み過ぎてしまう。
しばらく、時間を潰してから、服を着替えてフロントでタクシーを呼んでもらい、ウィルの事務所に向かった。
『ウィル、タクシーに乗るわ。これから向かうから、たぶん、十分くらいあとになる』
『ああ、待っている』
『それでね』と、言った瞬間、奇妙な音がして、いきなりスマホが切れた。
まったく、せっかちで失礼な男だ。
ホテルの車寄せをまわってきたタクシーに乗り込み住所を告げる。
タクシーはメイン道路のウッドワードアベニューを走っていく。ウィルの事務所はメインロードの中間地点を右折した場所だ。メインロードでは普通に人が歩いていたが、脇道に入ると急に人気が失せた。アスファルトの道路はひび割れ荒れている。周囲の建物もうらぶれてはいるが、それでも貧しさは感じない。
タクシー運転手が、「ここでいいかい」と車を止める。メーター代金にチップを上乗せして支払う。
『サンクス』という声を背後で聞きながら、ドアを閉めた。
すぐ道路にひとり取り残された。
ウィルの事務所は赤煉瓦造りの細長いビル。それは周囲に一棟しかない。二階にある個人オフィスと聞いた。どこから入るのか少し迷ったが、スチール製のドアに気付き、それを開けて階段を登った。
二階の階段わきに【ウィリアム探偵所】という目立たない看板があった。
呼び鈴を押すと、ビーという音が聞こえ、しばらく待った。しかし、何の反応もない。どうせ、また眠っているのだろう。
『ミスターウィリアム、ミスター! ウィル!』
返事がない。
勢いよくノックすると、鍵がかかってないのか、ドアが内側にかってに開く。米国の玄関ドアは内開きだからだが、それにしても不用心だ。まあ、これもウィルらしくはあるけれど。
『ウィル、かってに入るわよ。そっちが呼び出したんだからね』
一歩、室内に足を踏み入れた。中はガランとして人の気配がない。どういうことだろう。
天井も高く薄暗い事務所だ。すぐ目に入るのは大きなデスクだった。しかし、荒れている。
奇妙だ。
いくら、ウィルが怠け者でだらしなくても、この乱れ方は……。書類が散乱している。まるで、泥棒でも入ったみたいだ。
米国の建物は基本的に全館空調だ。それなのに、この暑さにもかかわらず掃き出し窓が大きく開いている。
開いた窓から日差しが入り、埃が舞っていた。
なぜか、ぞくっとした。
「ウィル! どこにいるの!」と、日本語で叫んだ。
その時、水滴が落ちる音に気がついた。
線を引くように床が水で濡れている。水の案内を辿ると、その先に扉があった。
やはり、ポタン、ポタンと音が聞こえる。
窓外から車が通りすぎる音がした。
五感が恐怖を伝える。やめとけ、逃げろという声がする。早鐘のように心臓の音が聞こえ、それが自分の体から出ていることに気づいた。
ドアに向かって歩く。これは致命的な行動で、きっと愚かなことで、きっと後悔する。周囲を見渡して、戦えるものを探した。
何もない。
意を決してドアを開けた。
そこは、便器とバスタブが一緒になった米国らしいバスルームだ。掃除していないトイレ特有の匂いに満ちている。
便器の向こう側、白い防水カーテンが引かれ、外に飛び出したカーテンに水が伝い外側に垂れていた。
わたしは、そっとカーテンを引き、そして、恐怖で息をのんだ。
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