孤独な兄の謎 6
ホテルの路地裏は、灰色の壁に囲まれたモノクロの世界だ。車の走り去る音が聞こえるだけで、嫌な静けさに満ちている。
ウィルは何かを待っているように見えた。
捕らえた男も、わたしもウィルを待っている。
スマホから受信音が聞こえると、彼は来たかとばかりに片手で画面を見る。その間も、男を右肘で壁ぎわに押さえつけていた。
『ほお、アレン・ブルゼントってのが本名か。名前負けしてない? オタク』と笑った。
『そうか。カナダに出張したのは、アメリカのカジノでは出入り禁止になってんのね。借金も相当だ。デトロイトでは薬物所持で何度も警察に世話になってる。おや、まだ四十歳にもなってない。おまえ、終わってるぞ。見た目、六十歳でも通りそうだ。少しは考えな。長生きできねぇぞ』
『な、なんで、わかるんだよぉ』
アレン・ブルゼントと呼ばれた男は貧相な顔であらがった。
『なんでって、今の状況で、そこかい。種明かしするほど、僕って親切なんかな。まあ、いい。顔面認識ソフトから警察データベースを探ったんだよ。これでも、バウンティハンターだと言ったでしょ。あれ? 言わなかった? ま、そんなことより早く答えたほうがいいと思うのだ、四十歳だけど、爺さまに見えるアレンさんよ』
アレンの顔色は外ではドス黒く見えた。これは日焼けではなく、おそらく内臓がやられている証拠だろう。
壁ぎわに押しつけられたまま、アレンは唇をモゴモゴと動かし、かすれた声で言った。
『だから、それはひろったんだよぉ』
『どこで、いつ』
『いつだっけ、えっと、忘れちまったぜ。ちょっと前、そんな前じゃねぇ。覚えてねえ。あっ、痛え、やめろ』
『昨日より前ってことか、どこだ』
『そうそう昨日よりは前、ブリッジの近くさね』
『つまり、死体から盗んだってことなのだな』
『だからよ。俺、あのさ』
単なる物盗りってこと? 水死体を見つけたから、市民証明書と現金を盗んだと言いたいのか。国境を越えて追ってきたが、全くの徒労だったかもしれない。そう思うと落胆が広がっていく。
『俺が、なにか詳しく話してよ。拾っただけとは奇妙でしょ、それもあんな場所で。空中にいきなり現れたんかい? それとも川から流れてきたんかい。さあ、知っていることを全て教えてよ』
盗人がためらうと、ウィルが腕をひねったのか、彼が大げさに悲鳴をあげた。
『痛てえよ。旦那』
『さあ、早くいいなよ。このままだと腕が使い物にならなくなるよ』
『わかった、わかったからよぉ。話すよ……。痛ってぇ。ちょっとゆるめてくれ。だが聞いたら驚くぜ。流れてきたんじゃねぇ。でもよ、暗かったしな、よくわからないぜ。あの夜、奇妙な男が長い時間をかけて、川からズタ袋みたいなものを引きずり出していたんだ』
『川から? 陸から引きずって川に落とした訳じゃないのか』
『いや、ちげえよ。川から引きずり出していたぜ。それから、驚れえたことにさ、男が財布みたいなもんを上に置いて逃げたんだ。で、見に行ったら、膨れ上がった死人じゃねえか。たまげた。ほんと、たまげた……。ま、溺死体をはじめて見たって訳じゃあねぇからよ。でも膨れ上がって人じゃねぇ。化け物みたいで、でな、男が置いたのは古い財布と、それからパスポートもあったけど、昔の期限切れで役立たずなんだ。だから、財布のほうだけ、いただいた』
『いただいたって。なんで市民証明書なんて足がつくものを盗んだの、アホだな』
『だってよ。自分の名前じゃ入れねぇって。カジノから出入り禁止を喰らってっからよ』
どうしようもなく愚かなチンピラなのだろう。国選弁護人として出会う軽犯罪者だ。行き当たりばったりの暮らしで、人生など捨てている。
『で、盗んだってことかい。ともかく、盗んだものを返してよ』
『わかった、わかったから、放してくれ』
ウィルは腕を放さず、空いている手を差し出した。アレンと呼ばれた男は自由な手でポケットから市民証明書と財布を取り出した。
『これだけなのか』
『これだけだって、旦那。もうええだろ』
『おいおい、これで、お前を手放す気はないのだよ』
『ああ、もう、旦那、ポリ公の仲間だろう。だったら、あいつは捕まったよ。知ってるだろう』
『どういう意味だよ』
『だからよ。俺が盗みを働いてるとき、いきなり沿道のほうでライトが光ってさ。ビビったって。で、俺か! と思ったが違ってよ。奴が警察に取り押さえられたってことよ』
『警察に? 間違いなく』
『間違いねえよ。だから、奴のことなら警察に聞きなって。警官のひとりが溺死体を見にこっちへ来たから、すぐに逃げたんだけどよ』
ウィルが腕を放した瞬間、男が蹴りを入れてきた。
ウィルは俊敏に、それを避けた。見かけとは違い暴力に慣れている。仕事上、危険な目にあうことも多そうだから不思議はないが、それでも意外だった。
男が、ふいをついて逃げていく。
『あ、逃げたわ!』
思わず叫んだが、ウィルは動じなかった。余裕でアレンを捕まえられたが、そうはせずに逃した。
『ね、追わないの』
『どうせ何も知らないし、面倒だからね。ともかく、ケチな薬物中毒のチンピラなのだ。金さえあれば、賭けと薬で生きているだけさ。それより、これをご覧』
『なに?』
『財布の中身だ。クレジットカードが全くない』
『それが何か? あの男が盗んだんじゃないの』
『奴がクレジットカードを使った形跡はなかったよ。ただ遺体から市民証明書と財布の金を盗んで遊んでいる性格破綻者でしょ。奴がカード類をわざわざ捨てたとも思えない。つまり、最初からクレジットカードがなかったと思ったほうが正しいってことなのだ』
『兄はクレジットカードもなくて、奇妙な男がデトロイト川から引きずり出した』
『随分と手の込んだことをしているよね。なぜ、自殺か事故に見えるような溺死体としたか。なぜ、隠していた遺体を引きずりだして、米国人としての市民証明書と古いパスポートを置いたのか。ともかく、見つけて欲しいといわんばかりでしょ。それも原型がとどめないくらい水につけているのだ。何かを隠したといわんばかりだ』
ウィルはヒュウーっと口笛を吹いた。彼は本当に空気のようにつかみ所がない。
『つまり、どういう意味かと言うとね。クレジットカードはなかったということ』
『さっきから同じことばかり言ってるけど』
彼は、それ以上、何も言わなかった。結局、カナダまで来て自殺ではないと確証を得ただけで、収穫はなかった。脱力感と疲労で体が重くなる。人とは不思議なものだ。先に少しでも光が見えれば疲れも消えるが、徒労だと知ると余計に体が重い。
『これからどうしたらいいの?』
『さあね』
『さあねって、そんな。だって犯人を警察が捕まえたって、それは、警察に聞けばわかることでしょう』
『いや、そんな話は聞いてない』
『じゃあ、あの男が嘘を付いたわけ』
『では、ないのだね。おそらく、何か裏があるんだろうね。これはデトロイト市警察の案件じゃないね。調査してみるよ』
『あてはあるのかしら?』
『ともかく、それも、さあな、かな』
わたしは返事をする気力もなくなった。
対岸には、マリオットホテルが入るルネッサンスセンターのビル群が見える。遠くから眺めると近代的で美しい。その場所が空虚で荒れていることは近づかないとわからない。この事件が、どれほど深いのか、まだ、遠くからしか見えていなかった。
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