孤独な兄の謎 4
翌朝、早い時間に目が覚めてしまった。カーテンの向こう側はまだ薄暗い。
ベッドから起き上がり、絨毯の床を裸足で歩き窓の外を眺める。対岸のカナダもまだ目覚めていないようだ。
時計を見ると、針は午前五時三十分をさしている。
まだ、誰も起きていない。
ウィルに連絡をしたかったが、我慢して数時間を待った。午前九時ちょうどに電話をする。すると、あきらかに不機嫌な寝ぼけ声が返ってきた。
『ああ、えっとね。起きてないから、まだ、夜中だし』
午前九時はウィルにとっては夜なのか。
早すぎては申し訳ないと思い、時間を見計らって電話したのだ。不機嫌な声をされるなんて、こんなことなら午前五時に電話してもよかった。
『それで、何か進展はありました?』
『うん、まあね。ともかく、午後にそちらに行くから、その時ね』
『あの、時間は?』という途中で電話が切れてしまった。
お昼近くになって、ようやく彼から連絡が来た。
『あ〜のねっ、お兄さんのアメリカ市民証明書のことだけどね。誰かがカナダで使ってるみたいだ。それも本物と見分けがつかないほど、精巧に偽造したものだ』
『市民証明書? じゃあ、兄はアメリカの永住権か市民権を持っていたの? でも不法滞在だったはずよ。日本のビザはずっと前に切れているしで』
『それは、もっていても不思議はないよ。移民に対してこの国はゆるいんだ。君のお兄さんは日本国籍のパスポートを持っていたから、こちらにスポンサーになる人物さえいれば永住権は取得できるだろう。米国で日本国籍のパスポートは強いからね』
胸のなかでゴオゥっと乾いた風が吹いた。遠い昔に聞いた音のような気がする。その音に乗って、兄がゆっくりこちらに向かって歩いてくる。
諦めが悪いかもしれないが、わたしは、あの遺体が兄だという確証をもてない。それが、嬉しいと感じるよりも、なぜか恐ろしい。
『兄の身分証明書を持っている人物がいる。そういうことかしら?』
『カナダとの国境で痕跡を発見したのだが。デトロイトからカナダへ向かうトンネルがあるよね。ほら、ホテルからも見えるでしょ。遺体が発見されたブリッジ側じゃないよ。実はブリッジを使うより、カナダに渡るにはトンネルのほうが安全なのさ。で、国境を越えるから、身分証を見せなければ通過できない。ともかく、それでヒットしたってわけ』
『兄である可能性があるのね』
『どうだろうか。ただ、身分証が使われたのは、デトロイト川で遺体が発見された後なんだよ』
その言葉に胃がグッと縮まり、それから、震えた。
『発見された遺体は古い日本のパスポートを所持していただけで。ジョンなんとかって番号で呼ばれていたくらいだから。兄とは確定できてないって思うの』
『そうだ、財布もなかった。そこから導きだす結論は、単純に誰かが盗んだかもしれないってこと。僕のニセモンの線も消えないからね。お兄さんかもと期待しすぎないほうがいい』
『ええ、ええ』
生きている兄という言葉は心臓に悪い。ウィルは軽いジョークのように話すから、わたしもできる限り軽く受け流す。彼は、わたしの気持ちなど知らないだろう。ただ、十九年ぶりに消息を知った、血のつながらない兄と思っているのだ。
そうだ、誰も知らないだろう。みな本物と会ったことがないから。ジオンの魔性を、他人を惹きつける特殊な魅力を誰も知らない。これだけは五月端にぜったい言えない秘密だ。
『でも、カナダの国境を超えただけで、簡単に探し出せないと思うけど』
『それが、簡単なんだね。おっと、ここで自分の優秀さを自慢する場面だな。シーザーズ・ウインザーホテルに滞在しているのだよ』
『ホテルに滞在している?』
『そこのホテルから見えるでしょ、ほら、川向こうの目立つホテルだよ。カジノを併設する四つ星高級ホテル。だから、カジノで遊んでるんじゃないの』
川を隔てた向こう側に兄かもしれない人物がいる。でも、カジノで遊んでいるなんて、それなら兄ではないと思う。三十六歳で平日の昼間からカジノで遊ぶ男。そんな兄を見たくないとも思う。
『シーザーズホテルまで、入国審査を入れても三十分もかからない。トンネルを抜けるだけなら車で五分だ。ま、けっこう混むから時間通りにゃ難しいけど。これから迎えに行く……、さっさと下に降りといで、車寄せで待ってて。パスポートも忘れないでよ、チェリー』
『チェリーは、ないわ』
スマホの向こう側から陽気な笑い声が聞こえてきた。
ウィルは、すぐ迎えに来た。
彼が乗っていたのは白いSUV。米国では人気車種だと聞いたことがある。
玄関口の車寄せに立っていると、運転席からクラクションを鳴らして、ウィルが窓から手を出して振った。
『ほら、僕でも素早い対応ができるって感心した?』
『それは、そうじゃないって自覚があるのね』
『おお、チェリー。君が日本女性の典型だとしたら、なぜ、アメリカ男に人気があるのか、さっぱりわからなくなるよ』
『ウィル、さっさと行きましょう』
『了解。ボス』
ウィルはニヤリと笑うと、アクセルをふかしハンドルを乱暴にきった。公道に入り、すぐ右折してトンネル内に入っていく。
カナダに向かうトンネルは、マリオットホテルに接続しているというくらいに近い場所だった。
トンネルは百年の歴史があるとウィルから聞いた。たしかに、内部はかなり古臭い。ゆるやかにカーブを描いた二車線で道幅も狭い。閉所恐怖症気味のわたしは、川が上を走っていると想像するだけで、気持ちが落ち着かず、出口で太陽が見えた時は心底ほっとした。
すぐに入国ゲートがあった。
それはハンバーガーショップのドライブスルーみたいな軽い場所で、国境ゲートというより高速道路の料金所に近い。車に乗ったまま入国係官にわたしのパスポートを提示した。アメリカ人であるウィルは、ちらっと身分証を見せただけで、係官が写真を確認してもいないように見える。
『どこへ』と、いかつい大柄な係官が聞いてくる。
『ああ、ちょっと、カジノで遊ぶ予定』と、気軽にウィルが答えた。
『帰りは?』
『金がすっからかんになったらね、たぶん、今日中かな』
ウィルの態度に、係官はニヤっと小気味よく笑い『ウインザーへようこそ』と応えた。
ゲートをすぎてすぐ目指すホテルの駐車場で車を入れた。
シーザーズ・ウインザーホテルは、その名前の通り、ローマ帝国をモチーフにしていた。品格があるとは言い難いが、ゴージャスだった。
ホテル内には、見上げるほど大きなシーザー像やローマ時代の貴婦人像が、あちこちに展示されている。もちろんフェイクだろうが、その胡散臭さが賭博場のあるホテルらしかった。
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