後編

 保健室のベッドに寝かされて、大げさなくらいの氷嚢と添え木で足をぐるぐる巻きにされた。

 気がつけば、私は天井を見て呆然としていた。

(え? まって待って、再来週の競技会どうすんの。中学最後の地区予選だよ?)

 それがまず頭に浮かんだ。

 自分では意外と冷静な気がした。けれどそんなことはなかった。だってマンガみたいに太くなるほど包帯で包まれた足は、いまだに誰かに思い切り蹴られたように痛いのである。ブツンと音がした時点で靭帯かアキレス腱をやっている。位置的に考えてアキレス腱だろう。

 今後の治療はどうなるのか、また走れるようになるのか。

 スマホかタブレットがあればそれで調べて確認したかったが、校則で持ち込みが許されているのはいわゆる子ども用携帯かガラケー、あるいはガラホまでである。

 だがそんなことよりも、まっさきに地区大会に出ることが気になったのだ。

 保健室のカーテンの向こうでは、先生がずっと電話をしていた。

「とりあえず、これ脇に挟んで」

 保健室の先生に、風邪でも生理痛でもないのに体温計、それから不織布マスクを渡された。

 その意味がわからない程度に混乱していた。

 今は大規模感染症の流行の真っ只中である。医療体制もそちらへの対応が全面的に優先される情勢になっている。そして、それ以外の病気や怪我でも、まず感染症の方にかかっていないかの確認から始まる。

 そのための第一歩が検温だった。

 体温は36・8度。暑い中全力で走っていたのだからそんなものだ。

「鼻水や咳がでることは?」

「ないです」

「じゃあ抗原検査はいらないね」

 保健医の先生にそういわれて、わたしはようやく

(あ、これは感染症にかかってるかどうかの可能性の確認なんだ)

 と理解した。そして今更のようにマスクをした。

 救急車はすぐに来た。

 だが、そこからがやけに長く感じた。

 ストレッチャーに乗せられて、大型のワゴン車ほどの車内にがたんがたんと運び込まれた。

 後になって考えれば、救急車に乗ることなどそうそう無いのだから内部の様子ぐらいよく見ておいてもよかったかもしれない。そんな野次馬な後悔を感じるくらい、ぼうぜんと意外と高く作られた天井を見つめていた。

 搬送先の病院はすぐには見つからなかった。近隣の病院は感染症の感染を疑うばかりだった。

「とりあえず症状なくても抗原検査しましょうか……。それからもう一度問い合わせますから」

 救急隊員のおじさんに、表面的にはおちついた、しかしどこかせわしなさを感じる声の調子でそう言われた。

 体を起こされて、マスクをずらし、鼻の中をぐるりと綿棒で撫でられた。

 あとは適当に救急隊員の人がやってくれた。

「……はい、抗原検査陰性ですね」

 そう確認して連絡すると、今度はすんなり見つかった。

 それでも受け入れてくれたのは、となりの市の外科専門病院だった。

「あの、家族への連絡は」

「担任の先生がやってくれている。大丈夫だ」

 同乗してくれた顧問の先生がそう言ってくれた。

「いやー、医療のヒッパクってこういうことなんですねー」

 そんな世間話みたいな調子のことをなぜか私は口にしていた。

 救急隊員の人は、真顔で

「いえ、これでも早いほうですよ。最近は、命に関わる救急の入院先でも見つけるのに何時間もかかることがありますから」

「そんななんですかー。大変ですねー」

 妙に間延びした調子で私は聞いた。まだ現実感がどこかないのだ。足はとても痛いのに。

 病院につくと、まず隔離されて、また体温を測られた。

 36・5度、さっきより下がっている。

 それが済むと、ようやく担当医の先生が挨拶をしてくれて、そのままレントゲン室行きになった。レントゲンを取り終えて出てみると、顧問の先生と父と姉が話し合っていた。

 なぜパパとルイちゃんが? と一瞬思ったがちゃんと考えれば何のことはない。

 今はテレワーク中だから車が運転できるパパが常に家にいるのだ。

 しかし、ひきこもりの姉まで出てきたのは驚いた。彼女は不織布マスクに手縫いの花柄のオーバーマスクを重ねていた。

「ルイちゃん、具合は大丈夫なの?」

「いや、なに言ってんの。救急車って……わたしよりルカちゃんでしょ! どうしたの。骨折?」

「ううん、ブチって音がしたからスジが切れたんだと思う」

 青ざめた顔で私より取り乱した調子のルイちゃんに、すこしほっとした。緊急時に自分より慌ててる人を見ると落ち着くのはなぜだろう。冷静になるからだろうか。

 顧問の先生と家族と、車で駆けつけた保健医の先生の5人で診断を聞いた。

 結果はやはりアキレス腱の断裂だった。

 治療としては、手術を選ぶことにした。

 部分麻酔で手術自体はその日のうちに済むと言われたが、搬送された時間や経過をみる都合も含めて数泊入院することになった。

 そういうわけで、先生たちは学校に、ルイちゃんとパパは入院のために必要なものをとりに家に一度帰った。その間に私は手術である。

 手術中は意識はあった。麻酔のおかげで痛みは不思議なほどになかった。ただ、実際に切開されている自分の足は、見せてもらえなかった。

「レントゲンで見た感じより良さそうだよ。ちゃんと繋がるだろうから、これならまた走れるよ」

 担当医の先生はあっさりとそういって目だけで微笑んでくれた。

「はい」

 私はそう応えたきり、しばらく会話らしい会話もなかった。

 走れるけど、今月の競技会はもう無理だろうな。

 そう考えたら、少し泣けた。

 大規模感染症のこともある。今後、わたしは走れたとして、高校に上がってからも競技としての陸上を続けられるのだろうか。

 そう思ったら、急に先行きが暗くなるように思えた。

 考えてみれば、陸上以外まともに進路について考えたことはない。

 姉のルイがちゃんと女性になれればいいと思うことはあった。彼女が今後遭遇する差別からどうやって家族として守ってあげればいいか考えることもあった。

 けれど、大人になってから自分がなにをしているかは思い描けていない。

 その真っ暗な未来が、私の前に洞穴のように口を開くのを感じた。

 はじめて、ルイちゃんがたまに冗談っぽくいう『死にたい』という言葉が自分のこととして理解できた。

 たしかに、この真っ暗な未来は『死にたい』って感じだ。

 それでもルイちゃんは自分の未来を見ている気がする。自分が今後どんな差別にさらされるか、どれだけ自分の体にお金がかかるのかを考えているし、お裁縫だってきっと将来なりたい仕事につながっている。

 だが、私にはそれがない。

 ずっと走ることだけで自分を肯定して生きてきたから。

「どのくらい走れないんですかね」

「うん、すぐには無理だよ」

 手術中の先生はあっさりとそう言った。

「え?」

「あとできちんと説明するけど、当面は装具できちんと固定して、安静にして、断裂したところがしっかりくっつかないと。それからリハビリして、跳んだり走ったりはその後」

 その返事はわかりやすく、現実的で、だからこそ揺るぎなく聞こえた。

「そっか、安静と、リハビリですか」

 真っ暗な洞穴の未来に、少しだけ猶予をもらえた気がした。

 手術の終わった足は、ギブスでガチガチに固められていた。

 そして、手術室の前では、お約束のようにルイちゃんとパパが夏合宿くらいの荷物を抱えて待っていてくれた。

 入院用の大部屋に通されて、荷物を解いた。出てきた服は、ほとんどがルイちゃんの手縫いのものだった。

 おそらく、下着以外の服は、適当にかぶれば着られるデザインの服をまとめてもってきたのだろう。だからこんなに荷物が多いのだ。

 ただ、私は別にデートにいくわけではない。これから二日か三日の間、松葉杖をついてトイレと病室を往復する以外のどこにもいかない。他のベッドの患者さんはみんなパジャマかムームーみたいな楽な服。だからこそ言わなくてはいけない。

 私は透け感のあるシフォンフリルのワンピースを掴んで、姉に突き返した。

「とりあえずこれは持って帰って。こんなフリフリしたのなんて病院で着ないよ。寝間着でいいんだよ寝間着で」

「じゃあこのシンプルなエーラインのとかだけ?」

 そう言って見せたのはチェック柄のサマードレスである。これも首を傾げる。

「それも場違い。ここエアコンの効いてるし、多分寝るとき寒い」

 そういって普段休みの日に着ているムームー風の普通のワンピースを掴んだ。

「これ、こういうの、この程度で丁度いいの」

「ちょっと、この程度っていわないで」

「じゃあこんなもん」

「こらーもうおこるぞー」

 そう可愛く握りこぶしを作って言われて、私は思わず笑った。この姉、計算なしでこのぶりっ子スタイルができるのである。

 じゃれ合う姉妹に、父はただ呆れたように笑って、

「ここ大部屋だから、静かにしないと」

 とたしなめた。

「はーい」

 ふたりでそう返事をしたころ、携帯が震えた。見ると未読メッセージがずらっと並んでいる。全部母からである。『担任の先生から電話もらいました』『いま仕事切り上げました。病院に直行します』『これから電車に乗る』『近くの駅についたからタクシー乗ります』『タクシー付きました、外来受付探してます』……そんな実況中継みたいな内容である。

「パパ、ママが一階で迷ってる。出迎えしてあげて、たぶんテンパってるから」

 父はうなずいて、部屋を出ていった。

 姉妹二人きりになって、他愛もないことをいいながらベッド周りに置く荷物、持ち帰ってもらう荷物を振り分けた。例えば、いつも抱き枕にして寝ているブタのぬいぐるみは持ち帰るかとか、タブレットとポケットワイファイの充電器の電源はどこからとれるかとか、である。

 母が来て、入院支度の準備が済んでしまったら、退院までは家族の顔は見れない。

 感染症予防の都合から、見舞いは基本的に禁止されているからだ。今だって入院のための荷物を渡すという口実で例外的に会わせてもらっているようなものなのだ。

 そう考えたら、さっき感じた不安とは違う寒さに似た感覚が心に来た。

 時折触れ合うルイの手は、小さい頃の母の手に似ていた。

 水仕事でかさかさとして少しすじっぽい。けれど爪はきれいに形よく伸ばされていて、爪割れ予防の透明のマニキュアで爪はつやつやとしていた。

 それに比べて自分の爪は子供のように短く切っている。

 共働きの両親の下で、今でこそ大規模感染症で父は自宅に居るが、それ以前はルイだけが家で私を待ってくれていた。

 私はずっとそれに甘えてきた。自分よりだいぶ険しい人生を生きてるこの少し広い背中に、私は。

「ねえ、外出るの、怖くなかった?」

「ん? べつに?」

「そう?」

 心外だったのか、姉は上目遣いに私を見て「ねえルカちゃん?」とやけに姉ぶった声を出した。

「うん、私別にひきこもりじゃないからね。3日に一度はスーパーに買い出し行くし、毎週図書館まで歩くし、一応週2日は学校にも顔だしてるし」

 姉の言葉は少し意外だった。

「そう、そうなんだ」

「うん」

(じゃあ学校だけなんだ)

 そう言いかけるのをぐっとこらえた。痛い話はしなくていい。

 この姉にお返しができるとしたらなんだろう。

 そう考えて、ふと頭によぎった。それは私自身の真っ暗な未来も埋める、自分勝手で都合のいい考えだったかもしれない。

 私はぽつりときいた。

「ねえ、もしかしてなんだけどさ。ルイちゃんの狙ってる高校、私も受けていいかな」

 彼女は一瞬キョトンとした顔をした。

「マジで言ってる?」

「……うざくなければ」

 私は本気だった。それは顔に出ていたようで、ルイちゃんは目を輝かせて鼻をふくらませた。

 そしてその嬉しそうな顔から飛びつくように私に抱きついた。

 抱きすくめられた肩口から、いつも使ってるシャンプーと柔軟剤の匂いと、時々部屋で漂わせているアロマオイルの匂いがした。

 この反応は、おそらく私の勘が当たったのだ。

 この姉にとって、たぶん人生で学校だけが、いまのところ怖いのだ。

 私は黙って抱き返して、そろそろ私より背の高くなりそうな頭をぽんぽんとなで、肩口の短いおさげに編んだ髪に触れる。

「一緒に受けよう」

「うん」

「成績、たりるかな」

「ルカちゃんなら大丈夫でしょ。私のほうが、不登校な分、内申でやばいと思う」

「けど、一般でも有望圏でしょ?」

「うん、塾からは志望校は滑り止めにして、もう少し上を狙わないかって言われてる」

「なら大丈夫だよ」

 そう笑い合ってから、姉は帰るまでずっとるんるんとしていた。

(別れるときくらい少しは寂しそうにしろよ、のんきか)

 と思うくらいに。


 退院してからは自宅療養になった。退院から二日後まではギブス、そしてそれから半月は装具でガチガチに固められていた。通学もせず、ルイと同様、在宅でのリモート授業に切り替えた。

 そして、陸上競技会は、緊急事態宣言延長の影響を受けて中止になった。

 もともと夏に予定していた競技会が緊急事態宣言の発令を受けて、一月延期になっていた。その上での今度は中止だった。

 結局、怪我をしても、していなくても、私は走れなかったのだ。

 しかし、家でやる勉強というのはなんとも身が入らない。ベッドの上でタブレット端末の画面をひたすら見るという状況では尚更だ。その上、ちょっとがんばれば手が届く位置に常時マンガやらゲームやらの気分転換が置いてある。集中力が途切れるたびにそっちに心がひっぱられる。

 この環境で姉はよく成績を保っていると思った。

「うん、服作ってるときほどは楽しくないけど、布切るときほど失敗できないわけじゃないし、ミシン掛けてるときほどは真剣にならなくていいし、縫い合わせてから違う生地縫ってたのに気づいたときのがっかり感もないから気楽だよ。ゆったりゆったり」

 とのことだった。

「マジか。私なんか走ってるとき頭の中真っ白だよ」

「じゃあ頭真っ白にして勉強する?」

「いやそんなの無理だから」

 リモート授業の動画が映るタブレットを手に、私達はそんなことを言い合って過ごした。

 そんな感じで現在に至る。

 ……この間変化があったことといえば、そう、久々に生理が来たくらいだろうか。

 クラブ活動を長期で休んでいる分、体が緩んでいるのだ。

 そして、換気のために細く開けた窓の空気は夜になるたび冷えるようになった。

 リハビリを始めた頃には、すでに秋の涼しさと雨ばかりの頃になっていた。


 在宅期間中、双子は無事2度のワクチン接種を済ませることができた。

 2度目のときは副反応で2人揃って高熱が出た。2人まとめて動けないかと思いきや、姉は鎮痛解熱剤で症状を抑え込んで甲斐甲斐しく妹の世話にあたった。

 これに妹は深く感謝した。だが喉元すぎれば熱さを忘れるというもので、ブレイクスルー感染はともかく、重症化して死ぬ不安から解放された途端、彼女は体力と暇を持て余すようになった。

 毎日寝たきりに近い状態でろくに動けず、動いても父の送迎でリハビリに行き、痛い足でエアロバイクを漕ぐだけ、という日々にいい加減耐えられなくなったのだ。

 それにくわえて、学校の友だちからもそろそろ顔が見たいという声が呼び水となった。

 ルカは久々に通学してみることにした。


 その朝、パパが学校近くまで車で送迎の車を出してくれた。

 久々に着た制服は、足がろくに動かせないせいもあって着づらいことこの上なかった。

 そして姉も、なぜか一緒に来てくれた。わざわざ学校指定のジャージを着ていた。

 本人曰く「ルカちゃんの荷物は私が持つから」とのことだった。

 少し心配だったが、この言葉をよく考えずに受け止めた。そんな私の落ち度に気づいたのは、いざ学校のそばについたときだった。

 ルイは今にも冷や汗を垂らしそうな青い顔で思いつめた表情をして、私と自分の分のカバンを抱えていた。

(ああ、やっぱり無理か)

 私はそう思った。

 彼女の学校への恐怖は、少し分かる。

 学校のいじめは、教室という横たわったボトルの中の、数滴の液体のような残酷さだと思う。なにかボトルが転がるようなことがあれば、巡ってくるように誰でも多少はかぶる可能性がある。そして少しでも深いくぼみがあれば、そこに溜まる。

 小学3年のときの姉のくぼみは深かった。まるで瓶の底に張り付いたとろみのついたしずくのようにしつこく淀んでいた。そういう粘着質な被害を受けていた。

 そのころ私達は別のクラスだったせいもあって、私が姉のいじめ被害に気づくのに遅れた。もう少し早く気づいていれば、ここまで深く傷を負う前に助けられたのかもしれない。

 今でも時々それを思って眠れなくなる。

 ……私は何も言わず、姉と自分との間に置かれた自分のカバンを掴んだ。

「じゃ、行ってくるわ」

 パパは軽い調子で「おう」と応えてくれた。

「昼に迎えに来ればいいんだな」

「うん、12時半」

 非リモート組も今は短縮授業で午前と午後に分散して通学している。

「ルイちゃん、一緒に来てくれてありがとね」

 あえて最初から車に残して帰るつもりだったように軽く言って、私はマスクをつけて車を降りた。

 スクールバッグをリュックのように背負い、松葉杖をついてえっちらおっちらと校門に向かう私はやけに目立つようで、クラスの連中や陸上クラブの連中などが次々に声をかけて追い抜いていく。

 最初に声をかけてくれた後輩が「教室までカバン持ちます」と言ってくれたので、私はありがたくその言葉に甘えさせてもらった。

 振り返ると、うちの車はエンジンすらかけず、そこにとどまっていた。


 父とふたりきりの車内、置き去りのように残された後部座席でひとり、ルイはマスクをにぎりしめた手で涙をぬぐっていた。

 その心は、とてつもなく安堵していた。そして情けなくなって涙が出たのだ。

 それほどにこの時間、他の生徒がぞくぞくと校門へと流れ込んでいく朝の通学は怖いのだ。

 いつもルイが通学するときは、9時ちょうどとか10時15分ごろとか、教室は授業をやっているような時間だ。ひとまずスクールカウンセラーに顔を見せ、それから特別支援教室に入る。

 先生も授業の途中参加をとがめる風も、大げさに迎えることもない。まるで地域を巡回生息している猫が食べ物を求めて猫屋敷の軒先に現れたかのように、さらりと受け入れてくれる。

 そして自分の学力にあった課題を、教室の時間にあった科目でやらせてくれる。

 1年生のときは、教室に入るとまず、前回登校したときにあずかった在宅学習用の課題を提出して、1コマか2コマほど授業を受ける。そして給食の時間の前に自宅でやるための課題をひきとって4時間目の校舎からひっそりと抜け出すように家に帰った。

 まるで、クジラの潜水のような時間だった。心の中で息をとめる。ひたすらに通常教室の気まずい子らや無神経な担任というシャチの群れのような存在に遭遇しないよう、慎重に過ごす。

 大規模感染症が生じてからは、リモート授業システムでの遠隔授業のおかげで全て在宅で済ませることができている。体育の授業も各自でできる運動内容を事後報告のレポートで提出すればいい。

 この一年と数ヶ月は完全にその環境に甘えて過ごしてきた。

「どうする。このまま、正面の校門閉まるまで待つか?」

 父は運転席から後部座席の娘にそうたずねた。

 校庭に面した正面校門は登校時間が終わると閉ざされる。一方で裏口の校門は給食の配送などが出入りする都合で警備員が控えているほかは、開け放たれたままだ。そこからいつもひっそり通学している。

 父の冗談めかした言葉に、ルイは返事もできずにうつむいて固まった。

「よし、帰るか」

 これにも、学校を目前として通学できない負い目から返事ができない。

「ルイ。こっち向いて」

 そういわれて、バックミラー越しに目を合せた。

「このまま帰るけど、いいね?」

 不安にこわばり目元に涙の浮かんだ顔で見つめるばかりだった。うなずくことも、目をそらすこともできない。

(学校に行かなければいけない、だけど今は行きたくない)

 そんな葛藤が重たすぎて、自分で選ぶこともできないのだ。

 その様子に、父は視線をそらして、車のエンジンをかけた。その振動を感じて、ルイはようやくほっとしたような顔をした。バックミラーごしの父の目はこれにふっと笑むように目尻を下げて、ハンドルを切った。

 車は左右の歩道をそぞろ歩く同じ制服の生徒達をそっとよけるようにそっと車道の内寄りを走り出した。

 ルイは車の外から隠れるように、体を低く丸めた。


 父は、学校にいきなさい、や、学校にいかないの? とはルイには言わない。

 小学校でいじめを原因とした適応障害と診断された頃からだ。

 その代わり、ずっとこう言い続けている。

『大学には行ったほうがいい。社会に出てとりあえず大卒なら取れる資格も増える。

 女の人は特に、学歴や資格がないと食っていくのは不利になる。大学は小学校や中学高校とは違う。ゼミはあるが、教室とは違う空気の場所だ。校内は広いからお前が何者でも気にせずに一人の人間として動ける。

 ルイが女の人として生きたいなら、大学か、せめて資格系の専門学校に行きなさい。

 そのための人生を逆算して生きてくれれば、学校なんか通わなくていい』

 そう、言い続けている。

 いまルイが在宅で真面目に勉強しているのも、そして両親が無理に中学に登校することをうながさないのも、そうした『将来大人の女の人として生きる』という大前提があるからだった。


 それから更に月日は過ぎて、11月。

 今どきの南関東は霜月が来てもなかなか霜が降りない。だが師走を待たずとも先生は生徒の進路と緊急事態宣言が発令されるかされないかで右往左往していた。

 手術から3ヶ月もすると軽い運動が許されるようになった。けれど私は前ほどには走らず、姉と受験勉強に取り組むようになっていた。

 在宅での勉強にも慣れてきた。

 学校説明会はオンラインになり、校内見学も生徒さんが作ったというVR映像による簡易的なものになった。

 そして二人はそろってルイが志望していた高校の推薦入学を出願した。

 面接や小論文の練習は十分にやってきた。

 不登校というルイの状況は『大規模感染症対策の在宅学習』という言葉に都合よく書き換えられ、また趣味と実益を兼ねた服作りも在宅でできる課外学習として組み込まれた。

 内申書上は、二人ともに向上心と在宅学習に適応できる柔軟さと自立心のある生徒であった。

 その甲斐もあって、二人は無事、そろって推薦入試での入学を確定させた。


 さて入学が確定した途端、姉はいそがしくなった。

 なんと入学式の正装を二人分自分で縫いたいと言いだしたのだ。そのための型紙も彼女の蓄えたソーイングブックから厳選済みだった。

「どれが着たい?」

 めずらしく鼻息荒くそういう姉を前にして、妹はアミノ酸ドリンクの粉末を溶かすためにボトルを振りながらため息をついた。

「青い看板のスーツ屋のリクルートスーツとかでよくない? どうせ3年後には就活だか受験だかで着るんだし」

「そんなの夢がない」

「夢がないって、どうせ回りみんなそんな感じよ? こんな結婚式にお呼ばれした女子大生っぽい感じの格好じゃなくても」

「つくりたいの!」

「フリフリのパーティドレス? アメリカのプロムじゃないんだし」

「フリフリじゃないのもあるから! ほらこれとかツイード生地で作ればシックな感じになるし、こっちは黒無地ならモードっぽくなる」

 そういってばさばさと完成見本のページを見せる。

「いやこれツイードで着たら生徒じゃなくて保護者だよ。黒でも変わり種の喪服だし」

「明るい色の生地選べば全然イケるから!」

「どっちにしても靴はヒールかパンプスって感じじゃん。もうすこしスリッポンでいい感じのはないの?」

「じゃあこれは?」

「学生服もどき……いや宝塚の制服か、逆に子供服感ある」

「これならどうよ、パンツスタイル」

「……」

 私はしばらくそれを見つめた。

「どう? 裏地と襟に差し色入れて、ウール地なら寒くないし派手にもならない」

「わるくない」

「よっしゃ、じゃあこれね。私同じ生地でこっち作るから」

 そう言って膝丈のフォーマルドレスの型紙を選ぶ。

「ねえ、おそろいのコサージュ付けてもいいかな。友達に合格したって連絡したらお祝いに作ってくれるって」

「あんた友達いたの」

「うん! ネットのトランスの子たちのグループの子。裁縫とインスタで仲良くなったの」

 これにはーと感心した声が漏れる。

「えーと、私の分はきちんと材料代と手間賃払うって返事しといて」

「わかったー」

 この頃から奮起していたのは姉だけではなかった。

 私も合格が確定してからリハビリと並行してクラブ活動に復帰するようになっていた。

 リハビリで足回りの筋トレをし、クラブ活動で体につきすぎた脂肪を落とし、再び走れる体にするための日々である。

 もっとも、3月に記念で測った最後の800メートル走のタイムは夏までは戻り切ることはなかった。

「まだ伸びしろはある。高校でがんばればいい」

 顧問の先生は軽くそう言ってくれた。

 その言葉に、私は作り笑顔を返すことしかできなかった。

 進学を決めた高校は敷地が狭くプールもない学校だった。ルイが女子として通学して支障のない学校を選んだのだから、当然といえば当然だった。

 運動部は屋内競技が多く、グラウンドはむき出しの土で野球部とサッカー部とハンドボール部が日替わりで使っている。

 陸上部やテニス部は学校から少し離れたところにある体育公園の設備を借りている。

 はっきり言って、屋外競技は趣味の集い程度でしかない学校だった。

 そのことを、顧問には一言も話してない。

 なにより私は、自分が走ることより、姉を支えることを選んだのだ。

 姉は中学の間ずっと私を支えてくれていた。怪我をする前は選手としての体作りのため、リハビリ中も食事療法のために私にだけ朝晩は別のものを用意してくれていた。実際、食べたもので体ができているという意味で言えば、私の体はほとんど姉の手作りの料理で出来ている。

 今度は、その姉の唯一の弱みを支えたかった。

 ただでさえ、家の外では生きづらい子なのだ。

 その子が勇気を出して自分の道を選んだ。そして歩もうとしている。

 今度は私が応える番に思えた。

 ……不安なことは別に学校生活だけではない。

 ワクチンの打ったといっても、大規模感染症はまだ完全には終息してはいない。季節ごとに新しい変異株が見つかっている。いつ現行のワクチンが通用しないものが出てくるかもわからない。

 それに、電車通学となれば姉妹ともに痴漢などと遭遇する可能性もある。

 世の女性の7割が痴漢に遭遇した経験があるという。一回だけではなく、何度も経験している人もいる。それはおそらく、私も姉にも降りかかりうることなのだ。その時、互いを守り合う必要がある。

 高校に上がったら、姉はホルモン遮断療法から本格的な性ホルモン療法に切り替えるという。これは薬の価格が性ホルモン剤のほうがいくらか安いということもあるが、姉自身が本格的に女性になろうとしているということでもあった。

 私達はこれからも成長していくのだ。そして何者かになっていく。

 男性から女性に性別を変えた人への風当たりは、ネットを中心にいまでも強い。

 その渦の中に踏み込んでいくのだ。その彼女を一人きりにはしたくなかった。

 私は、姉のような人を支えられる人間になりたい。

 私は、ずるい人間だ。アキレス腱を切って、走れなくなった人生を考えたとき、私は姉にすがってそう考えたのだ。

 そして、その選択に、ふしぎと後ろめたさも後悔もなかった。

 走るのをやめるかもしれない。だがそれは夢を諦めたわけではない。

 どうせまた、そのときはなにかを目指しているはずなのだ。


「はい、寸合せ終わり」

 私はようやく解放されて、マチ針だらけのジャケットをそっと脱がせてもらった。

「ねえ、今夜何食べたい?」

「うーん、焼売、肉の多いやつ」

 正直に応えると、姉はうんざりとため息をついた。

「また面倒なものを……今日は肉団子の鍋にしようと思ってたのに」

「じゃあ聞くなよぉ」

「包むの手伝ってくれる?」

「うん、やりかた教えて」

「わかった、準備するね」

 そう言って、姉は自分の机に作りかけの服を置いて、エプロンを身に着け、ラジオを片手にキッチンへと消えていった。

(……また姉に頼っている)

 頭の中に、ヤングケアラーという言葉がよぎった。家事や在宅介護などを担う未成年のことだ。

 我が家にはまだ課題がある。

 これも、近いうちに我が家が乗り越えなければいけない問題だった。

 だが、ラジオをお共に料理をする彼女の様子は、いつも満ち足りた風に見える。

 今日も姉の回りではラジオが鳴っている。

 外の世界でもこの笑顔で居られる日が来ることを、私は祈ることしか出来ずに居る。

「ルイちゃん」

「ん?」

「今度の学校、ピアスおっけーなんだよね」

「うん、そだよー」

「春休みになったら、開けに行こうか」

「え?」

「なに、もしかして針が怖いの? ホルモンの注射は平気なのに?」

「いやべつにそうじゃないけど、急だから」

「なんかさ、少しずつ変えていこうよ」

「なにをよ」

「生活を」

「それがなんでピアスになるのよー?」

「えーいいからーいいでしょー」

「えー」

 奥の納戸の扉がコンコンと鳴る。

 その扉には『現在会議中』という張り紙がしてある。

 2人とも静かにしろ、という父からのお叱りだ。

 私達は顔を見合わせて、それからルイはまんざらでもなさそうにうなずいた。

「考えとく」

 ……私は体に刻みたかったのだ。

 これから3年間、見えない不安をいくつも抱えた姉と電車で通学する覚悟を。

 そして、姉が本当の女性になった後も、変わらず姉妹として生き続けるための決意を。

 その夜の焼売は半分は不格好、あとの半分はいつもどおりだった。

 何事もこれからだ。

  

                                 完

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入学式は双子コーデで たけすみ @takesmithkaku

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