入学式は双子コーデで

たけすみ

前編

 9月半ば、中学最後となる陸上競技会は大規模感染症の緊急事態宣言の延長によって中止になった。

 今頃、陸上クラブの連中はいくらか気分を暗くしていることだろう。

 その気持ちに共感する反面、それ以上に今朝の冷え込みで足の手術したところが鈍く痛むのが地味につらくて、感傷的になる余裕もなかった。

 その日、私は寝床から動かないつもりだった。

 学校には、朝のうちに『今日はリモートにて授業を受けます』と通知済みだ。

 担任からは『わかりました。お大事に』という備考が帰ってきた。

 半月前、私はクラブ活動の大会前の追い込みでトラックを走り込んでいるときにアキレス腱を切った。今も足には装具を付けている。リハビリは来週から始まるらしい。

 私の寝床は二段ベッドの下の段で、片面をカーテンで仕切っている。カーテンの向こうはルイという双子の姉の領域で、今もウィーンカタタタタというミシンの音がしている。

 8畳間の真ん中に2段ベッドと本棚を置いて、二間に仕切っている。中学3年にもなると少し手狭だが、自分のスペースを確保するには必要だった。

 私が入院する前は、上の段が私の寝床だった。入院中に、上り下りの苦労を考えて、姉のルカは一人で天井と二段ベットの縁につけられたカーテンレールの位置を移し、ベッド周りのものも移してくれた。

 以前はミシンの音が邪魔に思えることもあった。

 けれど、今はどこか愛おしい。

 まだミシンの音がうっとおしく聞こえていた頃の話をしよう。


 1ヶ月前。

 モーター音とカタカタとした機械音からなるミシンの音は『今日もルイが家にいる』と示していた。

 その音はしょせん8畳間には少し騒々しい。その騒々しさに輪をかけるようにルイはいつもラジオをつけているものだから、子供部屋の聴覚的な支配は常にルイのものだった。

 それが疲れて眠くて仕方がない妹のルカをしばしば苛立たせた。

 双子だからといっていつも一緒に居て仲がいいというわけではない。特に生まれた性別が違えば、それは一層明確になる。遊ぶ友達も違うグループに、趣味嗜好もそれぞれに際立っていく。

 それが普通だ。だが、それがルイの場合は違った。わけあってのことだった。

「はらへったー」

 妹のルカは帰ってくるなりローファーをかかとで蹴飛ばすように脱ぎ、マスクと制服のブレザーを玄関で脱ぎながらそう言った。マスクはそのまま玄関の蓋付きゴミ箱に捨て、ブレザーにはアルコール除菌スプレーをかける。

 それから荷物を子供部屋の自分の領域にどさどさと投げて、手を洗いに部屋を出ていく。

「チンジャオロースとサラダの残りが、冷蔵庫に」

 ルイはミシンの手を休める合間のように、洗面所の妹めがけてそう言った。

「たすかるー」

 妹のルカは歌うように靴下を脱ぎながら部屋に戻ってくる。そしてぱぱっと他の制服も部屋着に着替え、出ていこうとする。

「ちょっと! ジャージとタオルと靴下、洗濯機に入れといて」

 そう言われて「へいへい」と応じながら妹はひょこひょこ戻ってきて、クラブ活動で使ったトレーニングウェアとタオルと脱ぎたての靴下をまとめて抱えて部屋を出ていった。

 ルカの後髪は、男の子のように短い。少しでも軽いほうがいいタイムが出る気がして、刈り上げていた。ルカは中学では陸上クラブに属している。一ヶ月後には、中学生活最後の試合となる陸上競技会が控えている。本来なら夏休み中に開かれたものが、緊急事態宣言をうけて秋口まで延期になったのだ。これは心細くも貴重な機会だった。なにしろ感染症の緊急事態宣言の情勢と教育委員会の判断次第で中止になりかねないものだからだ。

 対してルイは後頭部で結えるほどに髪が長い。もう3ヶ月は髪を切っていない。中学の男子の校則には違反しているが、適応障害を理由とした特別学級在籍ということで特例的に見逃されている。

 そしてルイは再びミシンを動かしはじめた。


 ルイは男の子として生まれた。けれど、幼稚園の入園する前から、どうやらそうではなさそうだ、と家族は薄々気づいていた。

 それが決定的に表面化したのは、幼稚園の卒園式および小学校入学式の服を買いに行ったときだった。

 父方の祖父母をパトロンに子供服の専門店に行った。

 ルカが濃紺地に白いレースの飾り襟のフォーマルワンピース、これはすんなり決まった。そしてルイも同じブランドの半ズボンとブレザーを合わせようとしたとき、ルイは途端に顔を真赤にして泣き出したのだ。

 ルイはその時、たしかに言った。

「これじゃない。ルイはこれじゃないの。ルカと同じのがいいの!」と。

 これは親族にルイのセクシャリティが露わになった瞬間でもあった。

 結局その日は服は買わなかった。

 帰り道の途中で寄った回転寿司のテーブルは、険しい空気が流れた。

 園児2人には食べたがる皿を取ってやりながら、大人4人は箸にすら手をつけない。

「亮介、ちょっとよくわからないんだが、どういうことだ」

 祖父に露骨なまでの怪訝な顔でそう問われて、父は普段子供の前では見せないような苛立った声で答えた。

「どうもなにも、さっき見たまんまだよ」

「見たまんまって」

 そう言って祖父母は言葉を失った。ようやく口を開いたのは祖母から嫁、すなわち双子の母へだった。

「笑美さん、いつもはどうしてるの?」

 祖母はひと目を気にした分だけいくらか穏やかだった。双子の母、笑美は慎重に応えた。

「今日は、おそろいだからズボン履いてますけど、そうじゃないと履いてくれません」

「じゃあ、何を履かせてるの」

 笑美は軽く唇を噛んでから、意を決して言った。

「スカートです。ルカがズボンを履いても、おそろいじゃない限り、ルイはスカートを履いてます」

 これをきいて、双子の祖母は大病の宣告でも受けたようにテーブルに目を落とした。祖父は荒っぽく湯呑を掴み、もう随分ぬるくなった茶をやけ酒かなにかのようにぐいぐいとあおった。


 この当時はまだ、LGBTなどという言葉は、日本の世間一般に浸透してなかった。知っているのはせいぜい当事者か、マイノリティ支援に敏感なリベラル、英語圏の文化に長じたメディアとその読者、あるいはセクシャリティについて学ぶ大学生くらいだろうか。

 ゲイという言い回しが通用し始め、トランスジェンダーはニューハーフやオカマ、オナベという後の蔑称とされる表現のほうが明快とされていたような頃である。


 ルイの性的少数者としての兆候は、幼稚園に上る前からあった。例えば色違いのおそろいの服を――ルイは男の子だからブルー、ルカは女の子だからピンクで――用意しても、気がつけばふたりはそれを交換して着ていた。

 日曜の朝も魔法少女が変身して戦うアニメはふたり揃って見ても、若い青年が変身して戦う特撮ものには興味を持たなかった。

 両親が「ほら、かっこいいよ、一緒に見よう」と言えばいい子で一緒に見てくれた。だが、ルイがそれになりきって遊んだり、その変身セットを欲しがるようなことはなかった。

 クリスマスのサンタさんへのお手紙も、誕生日に欲しがるおもちゃも動物を模したドールハウスセットのコレクション、いわゆる女児向け玩具である。赤いものをほしいと言う時があっても、それは戦隊ヒーローのリーダーのレッドではなく、女の子の赤だった。

 母方の祖父母が買ってくれたランドセルはかろうじて水色を選んでくれた。だがそれは男の子の水色ではなく、その頃放送していた魔法少女グループの中でルイのお気に入りの少女のパーソナルカラーが水色だったからだ。


「医者には見せたのか」

 やけ食いのように手づかみで頬張った1皿100円の寿司を咀嚼しながらそう言う祖父の言葉に、両親は同時にうなずいた。

「大きな病院の子供専門の精神科にも見せました」

「なんだって?」

「性同一性障害だってさ」

「なんだ、それは」

「心と身体の性別が違うんだそうです」

「それは、治るのか」

 父の亮介は顔をあげて、くっと祖父を見た。

「治るとか治らないとかじゃないんだ。もともとそういう子なんだ。ルイは」

「先天性ってことか」

「ある意味そうっていえばそうだけど、そうじゃなくて、なんていうか……」

「はっきり言えないのか!」

「お父さん、おちついて」

 祖母がそうなだめる。

「これから、戻せるのよね?」

「母さん、いいかい、性別っていうのは自我みたいなもんなんだ。特にこの年頃で芽生えたものは、変わらない。生まれつき、心というか魂というか、そういう部分と体の性別にズレがあるってことなんだ」

 そういうと、祖父は悲痛な面持ちで顔を伏せた。

「じゃあ、ずっと……ずっとオカマのままってことか」

「お義父さん」

「ちょっとあなた」

 母と祖母が同時に口をはさんだ。

 亮介は、自分の両親に頭を下げた。

「わかってやってくれ、このとおりだ」

 双子の母の笑美も、同様に頭をさげる。すると、何を思ってか二人の間に挟まれて座ったそルイも、食べる手をとめてぺこり、と頭をさげた。

 祖父母に挟まれたルカは不思議そうにきょろきょろとしている。

 祖父はこれをみて、深くため息をついた。

「もういい、わかった。母さんもなんか食え。お前たちも子供ばかり食わせてないで自分の分も食べなさい」

 そう促されて、頭をあげる。

 適当に何皿かテーブルに並ぶ、無邪気にそれに手をのばすルカ。

 その皿をすっととりあげる亮介。

「それたべたいー」

「この皿のはわさび付けちゃったからダメ」

「ルカちゃん、エビ流れてきたよ。ばあばが取ってあげようか」

「うん! たべるー」

 そんなやりとりをしている間に、祖父は孫たちが食べた皿を重ねていく。

「……学校は、どうする気だ」

「女の子として通えるように、学校に掛け合ってる」

「幼稚園はどうしてたんだ」

「前にも同じような子がいたらしくて、スカートで通わせてもらえてた」

「なんでそこで甘やかすんだ」

「ズボンで通わせても、トイレでルカと交換しちまうんだよ!」

 2人の通っている幼稚園のトイレは男女共同だった。学区内の公立小学校も数年前から男子トイレもいわゆる『学校での大便に関するトラブル対策』として全室個室にされており、それに慣れるための設計だった。

 これを聞いて、祖父は頭を抱えた。

「じいじ、あたまいたいのー?」

 そう聞くルイに、祖父は苦笑いして

「わさびがきいただけだよ。ほらここ、ご飯つぶついてるよ」

 と自分の頬をつついて見せる。そう促されて、服屋での大泣きの跡がまだ残った半ば水っぱなの出かけた顔で、ルイは自分の頬のご飯粒をつまんで食べてうふふと無邪気に笑った。

「……たぶん、私達よりルカが一番ルイを理解してるんだと思います」

 双子の母の笑美はそう言った。

「双子だからか?」

「さあ、そこまでは……」


 それから9年目の、現在。

 双子は中学3年生の二学期に入ったばかりだった。

 平時の年とは異なり、大規模感染症予防対策および緊急事態宣言に伴う休校等による学習速度の遅延の影響から、8月の25日から中学の二学期は始まっていた。

 ルイは登下校時間の拘束されない特別学級に1年のときから在籍している。

 小学校では結局、女子としての通学は認められなかった。夏にプールの授業があるからという、半ば言い訳のような理由で断られたのだ。

 その結果、ルイは小学校の3年の時にセクシャリティを口実とした激しいいじめを受けた。それが原因で適応障害を抱え、小学校の後半3年間は完全に不登校になった。

 中学にあがってからもいじめ被害のPTSDのために普通教室に入れないでいる。もっとも、勉強は昨今の新型感染症の世界的流行のおかげで、通学しなくてもリモート授業である程度は学校の学習内容を習得できる状態にある。加えて、進学塾の運営している通信講座で、受験向けの科目の補強も受けている。

 そして、学校に行かずに家にいる時間なにをしているかというと、勉強と家事、睡眠以外の時間のほとんどを裁縫に費やしている。

 きっかけは小学校のバザーで売るための手芸品を母が作っているのを手伝ったことだ。『裁縫ができれば自分で着るものを自分で作れる』その事実は、ルイを、押し着せられた男児の装いから解放した。

 小学校時代は自由研究向けの子供でも手縫いで作れる服から始まり、今では若者向けソーイングブックや個人がネット販売している型紙をベースに採寸調整し、自分や家族の普段着も作っている。そして時々著作権フリーの型紙から服を作って、それをフリマアプリで売り、その代金で生地や糸を買い足している。

 一方、ルカは小学校の頃から人気者だった。とにかく足が速かったのだ。毎年運動会のリレーの選手でもあった。中学のクラブ活動でも800メートル走の選手として県大会進出を1年のときから果たしている。将来有望とされて、当然2年生時にも期待されたが、去年は大規模感染症予防対策として、競技会自体が地区大会から中止になった。それがあっての3年目の今年である。

 ルイも幼稚園や小学校低学年までは運動神経は悪くなかった。逆上がりだって小学校に上る前にはできていた。マット運動の時間ではスポーツクラブに通っている子の見様見真似で側転だって会得した。いじめられるようになってから、クラス内の人間関係が顕著に出る体育という授業環境に心身が萎縮するようになり、成績は伸びなくなった。

 かわりにルイは、学校に行かず家にいるほどに、炊事洗濯などを覚えるようになった。

 両親は共働きで、もともと母と過ごす時間を少しでも欲しくて、料理や洗濯を手伝うことが多かった。

 外に友達を作り、活発に遊びに行くルカに対し、ルイは裁縫だけでなく家事に力を注ぐようになっていった。

 中学に上がってからは、お腹をすかせて帰ってきた妹のために料理をし、家族の洗濯もほぼ毎日一人でこなしている。

 ルイはある種、発展途上国の家庭的な女性像のような育ち方をし続けてきたのだ。

 2人は、双子として対極的に育ちつつあった。

 そして3月に中学を卒業すれば、一層離れることになるだろう。

 ルカは近隣地域での陸上強豪校への進学を希望している。ルイも高校進学は考えてはいるが、性別不合やいじめ被害からのPTSDの発作が出にくいと思われる自由度の高い校風の私服の私立高か、それが無理なら通信制高校でよいと考えていた。


「ルイちゃーん」

 居間の方から妹にそう呼ばれて、

「なーに」

 と声だけで返事をする。

「ごはんがなーい」

 そう言われて、ルイは裁縫する手をとめてはたと顔をあげた。

(しまった、炊飯器のタイマーかけ忘れてたか)

 自分で縫ったエプロンを取りながら、ぱたぱたと台所へ向かう。

 だが、時既に遅し、だった。

 妹は冷蔵庫から見つけ出したサラダチキンの真空パックを開いてそのままかぶりついている。

「ちょっとーそれ明日の朝ごはんで使うつもりだったんだけどー!」

 とその妹の尻を軽くはたきながらいうと、炊飯器のスイッチを入れて空になったサラダボウルと皿を流しの中に置いた。

「それだけで足りる?」

「足りない」

「だよね。パンかパスタかアイスクリーム」

「ラーメンがいいなー」

「インスタントあるけど、パパとママ帰ってきたらまた食べるんでしょ?」

「じゃあパンでいい」

「それじゃ、とりあえずその食べかけのよこして。それとチーズでホットサンドにする」

「いつもすまないねえ」

「それは言わない約束でしょ」

 さっと手を洗いながらそう応え、冷蔵庫から8枚切りのパンと棚からホットサンドメーカーと出して電源をつなぐ。

「今は何作ってんの?」

 ルカが何気なく聞くと、ルイは冷蔵庫の中をうかがったまま一瞬止まった。それからいたずらっぽく

「んふ、チーターのエサ」

 とぼやくように言った。

「誰がネコ科じゃ」

「けどガリガリやん」

 実際、ルカは中学生としては極端なほどに痩せている。髪型のせいもあって成長期の遅い男子にすら見える。走るタイプの陸上競技をやりこんでいる女子にはまあまあありがちな体型である。

「ガリガリじゃないの、脂肪を無駄なく落としてるだけなの」

「じゃあ最後にちゃんと生理が来たのは?」

 そう言われてルカはぷいっと口を尖らせた。

「余計なお世話じゃ」

 黒いテフロン処理されたホットサンドメーカーの内面にバターを塗る。

「いまはね、パフスリーブのワンピースを試してる」

「パフスリーブ」

「そでがポワってふくらんでる、ほら白雪姫っぽい二の腕の」

「ああ、はいはい把握。面倒そう」

「うん、面倒だけど、糸引っ張って袖のギャザー作るの、うまくいくとちょっと気持ちいいよ」

 パンと具材をセットして、ぱたんとホットサンドメーカーのフタを閉じる。

「ふーん」

「9号の型紙で作ってるから、たぶん2人とも着れるよ」

「やった」

 そう喜ぶのをみて、ルイはあっという顔をした。

「あ、そういえばあんこもあったんだった。小倉風にもできたよ」

「できたよって、ルイちゃん、ここまでやってそれ思い出すの?」

「両方たべる?」

「それじゃラーメン食べるのとカロリーかわらんて」

 そんなやりとりをしている奥の部屋から、父の咳払いの声が聞こえる。続いて仕事の電話のような口調の一人しゃべりが聞こえてくる。

 『現在テレワーク中だからお静かに』というテレパシー的な指示を感じて、双子は顔を見合わせて声をひそめた。

 ちなみに母は高齢者福祉勤務、いわゆるエッセンシャルワーカーであり家にはいない。今いるのは会社員の父と娘ふたりである。

 双子は顔を寄せ、ヒソヒソ声になる。

「作って置いといたらパパも食べるかな」

「待った、あのお腹だよ? 甘やかすのはよくないと思う」

「テレワークになってからぽっちゃりしてきてるもんねえ」

「半分は中年太りでしょ」

「まあね」

 奥の部屋がしずかになり、ノックと「こら、聞こえてるから」という声が帰ってくる。

 ふたりは顔を見合わせてから、ルイが口を開いた。

「パパも食べますかー?」

「忙しいからいらない。ルカ、食べる前にうがいと手洗い」

「もうやりましたー」

「ならよろしい。この後もう一本電話するから、お静かに」

 そういわれて「はーい」と声を揃える。

 そして早々にルカが小さく舌打ちをした。

「悪口だけは聞こえるんだよなぁ」

「パパは狭いところでがんばってるんだから、あんまり言わないであげて」

 4畳半の納戸をやりくりして、小さな折りたたみ卓を置くスペースを作り、父はそこで在宅勤務をしている。かれこれ1年になる。

「ルイちゃん言うことママっぽくなってきたよね」

「えーやめてよね」

 音を小さくしてテレビをつけると、テレビ画面では『渋谷の接種予約、殺到続く』というテロップでニュースともワイドショーともつかないものが流れている。

「うちらもさっさと接種予約取りたいねぇ」

「ごめんねーパパにも手伝ってもらって頑張ってるんだけどね」

 ルイはルカにそう手を合せた。

「市の集団接種、次の予約開始いつだっけ」

「再来週の月曜の10時から」

 これを聞いてため息をついた。

「ほんと、学校もその時間だけ授業休みにしてスマホ持ち込み解禁にしてほしいわ」

「そうねー。けど、わたしはワクチンよりもホルモン打ちたい」

「ちょっと、冗談じゃないんですけど」

「は? 冗談のつもりでいってないんですけど」

 そう言い合ってふっと笑い合う。

 カレンダーの8月末日の火曜には花丸が描いてある。

 クリニック予約午後2時から。

 8月31日はふたりの誕生日だった。

 そして、ルイがようやくホルモン療法を始めることができる日だった。

 ホットサンドメーカーの内蔵タイマーのランプが消えた。開いてみると、きれいな焦げ目のついた三角のホットサンドができていた。


 ……それは怪我をする前の私ルカにとっても、そしてホルモン療法を始める前の姉ルイにとっても、一番平和な時期だったと思う。

 性同一性障害という言葉は以前からあった。近年それは性別違和、性別不合という言葉に言い換えられるようになった。性別違和は、自分の肉体的な性別と精神的な性別がそろっていると感じられず、かといって完全に身と心が違う性かといわれたらそうとも断言しきれない、というような人を指すことだ。

 ルイの場合、『完全に私は生まれてくる体を間違えた』といい切っている。今の診断は性別不合だ。実際、初恋の相手も男の子だった。例にもれず足が速くて顔立ちのきれいな男子だ。

 中学に上がってからも学校の野球クラブの一番打者の先輩のことを好きになった。中学2年のときは、朝練中のその人を学校で一目見るためだけに頑張って毎朝通学していたほどだ。

 ちなみに私は中1の時、図書委員の先輩に一目惚れして、その先輩が貸し出し係をやっている日だけ図書室に通った。お互いにその話をしたら、ルイは私に対して

「なんか、優しそうだけど体弱そうな人だよね」

 と言い、私は私で

「野球部って野球とゲームしか頭にないサル山だよ? あの先輩小学校から野球やってるから実質ほぼサルだよ? 止めときな。せめて趣味の合う奴にしな」

 と言い返した。

 それで互いの過去の片思いのいじりあいが始まり、最終的に大喧嘩になった。以来、お互い恋愛や推しの芸能人やスポーツ選手の話は当たり障りのない感じになっている。

 まあそんなことはどうでもいい話だ。

 性別不合も性別違和も、治療はケースバイケースになる。治療といっても、体の性別に心を矯正するわけじゃない。むしろ逆で、体のほうを合わせる。

 性別不合の場合、究極的には性器を取り除き、人工的に作り直す性別適合手術というものになる。そして性器がなくなったことで体から損なわれた性ホルモンを定期的に摂取し続ける。性ホルモンは本来であれば性器を中心に自然と分泌されるもので、骨の維持など体の至るところに影響する。それを体から生み出す器官を取り除いてしまうため、外から補給しなければいけないのだ。ただそれ以前にも治療の段階はいくつかあり、未成年でも受けられる療法もある。なお、現代の医療は異性の生殖器を移植できるような次元には到達していない。

 ルイが小さい頃から続けているものとしては、精神科での、心身の性別の不一致から来る精神的苦痛やいじめ被害経験などの苦痛を軽減するためのカウンセリングなど。15歳から始められるものでは、まず性ホルモン剤の摂取。もしくは月に1度、二次性徴※作者注釈参照を止める薬の注射がある。

 この『二次性徴を止める薬ホルモンブロッカー』は実費な上結構高額だ。成長期が終わるとされる18才までフルで打ち続けた場合、自動車学校の学費と免許をとってそこそこのグレードの中古車が買えるくらいになる。それでも、体が体の性別で育ちきってしまってから性ホルモン剤を始めるよりスムーズに体は適応できる。

(作者注釈……この記述は誤まった情報に基づいています。ホルモンブロッカー、いわゆる二次性徴抑制療法の開始時期は身体の変化が基準であり、より若齢からでも可能です)


 そして8月31日の15歳の誕生日から、ルイはホルモンブロッカー療法を始めた。

 姉は「ちょっとふらふらする」と言い、ミシンのペダルを踏まない時間が明らかに増えた。私が家に帰ると、つらそうにベッドからのそのそと起きてくる日も少なくなかった。そういうときは自分のおやつは自分で用意したのは言うまでもない。それほどに体調に影響が出た。

「あんまりしんどいなら、中断してもいいんだよ?」

 両親から言うと金銭的なこともあって生々しすぎるから、私からルイにそう聞いた。

 そう、ホルモンブロッカーは中断できる治療法だ。これはもともと、何かの心境や考え方の変化があって、体の性別を心が受け入れられたりすることがある。そういう場合に取り返しがきくように、二次性徴のホルモンの分泌を一時的に止めるだけの注射である。

 けれど彼女は冷感シートを額に貼ったうつろな顔で首を横にふった。

「薬代は、大人になってから働いてパパたちに返すもん」

「そういうこと言ってんじゃなくてさ」

「本物のホルモン剤やピルだって、副作用で吐き気や体調が悪くなることはあるっていうから。それならこれは練習みたいなもんでしょ。なら、なんとかして乗り越えられるようにならないと」

 これを聞いた時、私は感心した。そして、奮い立つものを感じた。

 ……姉には姉なりの戦いがあるのだ。私が自己ベストのタイムと戦っているのと同じように。

 私は、その奮い立つ気持ちを持て余すことなく活かすことにした。

 まずその日から、自分のクラブ活動の洗濯物は自分でするようになった。

 姉の負担を減らしたいというのもある、だけど、戦ってるのは自分だけではないとはっきり感じられたからだ。いや、たしかに姉はずっと、外の世界という恐怖と戦ってきた。小学校でいじめられたときからずっと、心のなかに巣食っている恐怖と向かい合い続けている。

 ほかにも他人からの異物を見るような視線や、見ず知らずの他人がインターネットに放ったトランスジェンダーへの中傷を受け流し続けている。

 だが、私はそれに慣れてしまっていた。そうした外界から自分を遮断して服作りに没頭する姉の姿が、逃げているだけのように感じるときさえあった。

 いわゆる、生きづらさ、というやつかもしれない。けれど、そんな使い回された安易な言葉で言い表したくもなかった。

 

 奮起した私はクラブ活動にも力がこもった。

 残暑の暑さにも、マスクの苦しさにも負けず、練習負荷による足の痛みもテーピングでごまかして、全力で学校のトラックを走った。

 私達の戦いはこれからはじまるし、この先も続いていく。

 ルイはルイの戦いを、私は私の戦いを。そう思った矢先だった。

 ぶつん、と左足のふくらはぎの下が音をたてた。

 猛烈な痛みでおもわずトラックにころんだ。その転がる感触もわからないほどの痛みで足がちぎれるようだった。

 私の後に続くように走っていた後輩たちが、跳ぶようにまたいだり避けたりしながら転がる私をよけて走っていくのが地面から見えた。

 足の中の何かがぶっち切れたのだとわかった。気がついたときには先生や後輩がコールドスプレーや濡れタオルを持って私の足を抑えていた。

 コールドスプレーの慣れても鼻につく匂いまみれにされながら、あれよあれよという間に担架で保健室に運ばれていた。

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