影法師
音澄 奏
第1話
博士はその青年の横顔が気に入った。
彼は博士の研究室を訪ねてきた学生――であるらしい。
人の顔を覚えることを苦手とする博士である。秋学期も後半に入ろうとしている今でも名前が分からない学生の方が多い。そんな、博士である。
そんな博士がその青年を見た瞬間、「おや?」と思うような懐かしさを感じた。どこかで見知った顔である。が、名前が思い出せない。
研究室の本棚の前に立つ青年は、窓からの夕陽を横に受け、輪郭だけがぼんやりと薄暗い室内に浮き上がっている。影絵。そんな考えがふと博士の頭に浮かんだ。
形のいい顎はやや上を向き、そのシルエットから青年が博士の本棚に目を凝らしていることが分かった。息をつめ、身じろぎ一つしない。
「君は」
博士は随分ためらってから、言った。なんとなくその美しいシルエットを壊すのが惜しいような気がしたのである。
「君は、本が好きなのかね。」
語りかけるには、あまりに凡庸な言葉であったかもしれない。
青年はその言葉には振り返らずに、本棚を見上げたままのシルエットで言った。
「好き、ではありません。」
冷静な声の中に一滴の血のような苦渋が滲んでいる。
「好き、だとか云う問題ではありません。これは僕の悪癖です。」
ほう、と思わず博士は嘆息のような声を漏らした。
「読書は悪癖かね。」
「悪癖です。喫煙に勝るとも劣らぬ悪癖です。」
青年の言葉にはどこか悲しい病人の諦めがあった。博士はそこに同類の匂いを嗅ぎ取り、何か意地の悪い喜びがこみあげてくるのを感じた。
「喫煙、は健康を損なう。」
「読書は、時間を失います。」
「読書、は知恵を与えてくれる。」
「喫煙は、忘却を与えてくれます。」
青年が薄命の中でくすりと笑った――ような気が博士にはした。
それは何か、阿片中毒者の口の端からこぼれる理由もない笑み、に似ているように思われて博士も思わず口の端をつりあげた。
それが青年には分かったのだろうか。青年はこちらに向き直ると、博士に向かって笑った。
「先生は、この大量の本達に向かう時、ぞっとすることはないのですか。」
「何故。」
青年の言葉に耳を傾けながらも、博士の意識は全く別のところにあった。ふと、この青年の顔をはっきりと見てみたくなったのである。
博士は夕暮れの薄闇にそっと目をこらした。けれども、薄明に縁取られた青年の輪郭がぼんやりと見えるだけで、青年の眉も口ももやもやとした暗い影に覆われて、まるでその形を見ることはできない。
「僕は、あの、文庫などのカバーの内側、あそこにある四角い作者の写真などを見る度、ぞっとするのです。」
「そうかね。」
「ええ――僕には、あれが彼らの遺影のように思われて仕方がないのです。」
青年の言葉に思わず博士はぞっとした。
青年が見上げたその本棚には若い頃の博士の著作が――僅かながら――あったからである。
「それでは私の本棚など百鬼夜行だね。」
わざと冗談めかすようにして言った博士の言葉は、青年の言葉に奇妙な厚みを加えただけでまるで役に立たない。
「ええ。だって、本など正に幽霊そのものではありませんか。」
死んでその後、跋扈する思考。
青年の考えていることは、博士に手に取るように分かった。
「けれども――けれどもそれは、幸福ではないのかね?」
搾り出すような博士の言葉に青年が笑う気配がした。
けれどもそれが嘲笑であったのか、微笑であったのか、博士にはついに知ることはできなかった。
青年の訪問から果たして三日後。
博士は病の床にいた。
青年が訪ねてきたその日の夜、自宅の書斎で倒れている博士が細君によって発見されたのだ。
数年来、患ってきた心臓に強いショックが与えられたからだ、と彼を診察した医師は言った。
今は枕元の酸素ボンベと、腕にまとわりつく幾筋ものチューブだけが博士の命を辛うじて繋ぎとめている。
「あの日、何故君が訪ねてきたのか、僕は分からなかった。そして今、何故君が訪ねてくるのか、僕は知っている――君は僕の幽霊だね。」
夕焼けが窓の外で鬼火のように燃えている。
青年は博士の枕元、夕陽の映る窓を背にして立っていた。青白い幽霊。
「貴方はそれを『幸福』だと言いました。」
ぼんやりと映る黒い影法師。その顔が確かに笑った気がした。
「そうだ。『幸福』だと、確かに言った。」
博士は自分の腕に目を落した。生きることをせず、夢遊病者のようにして生きてきた、白い腕。年老いたその細い腕には、まるで博士を縛りつけるように、幾筋ものチューブが絡みついている。
「……しかし、ある一方では不幸だ。」
マスクから送られてくる空気を、無理やり飲み下すと、博士はそれを取り外した。
「……僕が死んでその後も、生き続けるというのか。魂も生命も持たない、君という幽霊が。」
「いいえ。」
青年は確かめるように言った。
「いいえ、私こそが貴方の魂です。存在も証明も必要としない、私こそが貴方の生命です。」
青年の言葉に博士が笑う気配がした。
けれどもそれが嘲笑であったのか、微笑であったのか、私達にはもはや知ることはできない。
その日、夫の危篤の知らせを聞き病室にかけつけた細君は一人の青年とすれ違った。
その姿は書斎のアルバムで見た、若き日の夫に生き写しだったという。
影法師 音澄 奏 @otozumi
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