Track.3 夜を駆ける

「ぐぎゃぁ!」


 目覚める度に、毎回ビビる。


 ベートーヴェンとショパン、バッハとモーツァルトの肖像画が、起床直後のあたしを見下ろしているからだ。


 音楽室の真ん中に敷いた布団から身体を起こし、カーテンを開けて朝の陽光を浴びる。


 『生徒』は学校で寝食を共にする。食事は購買や食堂があるから問題はないが、銀河漂流教室には睡眠用の設備はない。必然、校内のどこかに布団を敷いて眠ることになるが、給湯設備のある職員室や茶道室、シャワー設備のある運動部棟などの人気の場所は簡単に埋まってしまう。


 あたしが『入学』した当初は空きがなく、仕方がないから美術室で寝起きしていた。ブルータスやマルスの石膏像に見守られながら起床し、ブルータスやマルスの石膏像に見守られながら眠りに落ちる一日。


 さすがに嫌気が指し、折を見て音楽室に生活拠点を移したが、なんだか改善された気が全くしないな……。



 歯磨きセットとタオルを持って、音楽室から一番近い手洗い場に移動する。彼女の姿を見かけたのは、口をすすごうとコップに水を溜めている時だった。


「委員長じゃん」


 校舎四階にあるこの位置からは、校庭の真ん中を歩く彼女の後ろ姿を眺めることが出来た。


「出かけるのか。珍しいな」


 委員長は図書室で本を読んでいたり、雲隠れしたあたしを探して校内を探索したりで、外に出ることは少ない。外出するにしても、他の誰かの付き添いとしてが大半だ。


 珍しい事態に、ほんの少しだけ胸の奥がざわついた。



* * * * *



 ぷぅと息を吹きかけると、開いたままの文庫本の紙面が捲れ、ゆっくりと次のページに移った。


 別に読んではいない。右のほっぺを卓にくっ付け、昼からずっとテーブルに突っ伏している。学校の図書室には午後三時ごろまでは客がいたが、それから二時間はあたししか人がいなかった。


「委員長、やっぱり『卒業』しちゃうのかなぁ」


 窓から観覧車やロープウェーの望める賑やかな場所――横浜市・桜木町に学校が漂着して二日目になる。委員長は前日朝に見かけて以降、戻っていないようで、校内にその姿はなかった。


 あたしの『入学』以降のクラスメイトたちは全員『卒業』してしまい、当初から知っている顔で残っているのは委員長だけだ。


「『卒業』するのは喜ばしいことだし、いつ『卒業』するかを決めるのも委員長の勝手。――そんなの、わかってるけどさ」


 右手を持ち上げ、人差し指でテーブル卓の表面をなぞる。午後五時半を告げるチャイムが、静寂の図書室に響いた。



* * * * *



 漂着して三日目。


 銀河漂流教室の滞在最終日。


 あたしは街に出てみることにした。



 出かける前に委員長が生活拠点にしている職員室に寄ってみたけれど、昨夜、帰ってきた様子はなかった。


 委員長がこの地で転生するつもりなら、もう会う事はないかもしれない。


 もしそうだったら、教室が漂流を再開する前に、もう一度だけ委員長の姿を見ておこうと思った。



 山梨の田舎で生涯を終えたので、横浜の地を踏むのは初めてだった。


 港の近くの遊園地やショッピングモール。中華街に横浜スタジアム。山の上のこじんまりとした動物園。自分の故郷とは違う、賑やかな街。


 委員長と遭遇したのは伊勢佐木町通り――関内駅から南東に伸びる地域一番の繁華街の真ん中辺りだった。あたしが背後から一方的に見つけて、委員長の方はこちらを認識していない。


 声を掛けようとして寸前のところで止めたのは、委員長の様子がおかしいことに気付いたからだ。


 ――委員長の頬を、一筋の涙が伝っていた。


 彼女の視線の先には、父と母と娘の、一組の家族が歩いている。この界隈で何か買い物をしたのか、父親らしき男性は大きな紙袋を手に提げていて、とても幸せそうに談笑していた。


 委員長とあの家族にどういう関係があるのか、あたしには当然わからない。でも、何となく今は声を掛けない方がいいと察する。



 結局、あたしは委員長と言葉を交わさぬまま、彼女をその場に残し、気配を消して踵を返した。



* * * * *



 教室の窓から見える、みなとみらいの夜景は美しかった。窓の外の真っ暗に、摩天楼の眠らぬ灯りと、刻々と発色を変える観覧車のイルミネーションは良く映えた。あたしは教室の電灯を消して、机の一つに腰を下ろしてそれを眺めていた。


 おそらく、あと一時間ほどで銀河漂流教室は移動を開始する。


 ――委員長は、多分戻らないだろう。そうなったら、この学校であたしと親しい人間は誰もいなくなる。


 まだ、寂しさはなかった。


 こういうものはきっと、もっと時間が経ってから、ふとした瞬間に湧き上がってくるものなのだろう。


 ――――――。


 教室の引き戸が開き、少し遅れて白熱灯が灯された。


 室内が明るさに満たされる。あたしは、開いた扉の方を見やった。そこには委員長が立っていて、あたしが居ることにまるで気付いていなかったのか、虚を突かれたような表情をしていた。


 そして、瞳と目の周辺の様子から、泣きじゃくっていたことがありありとわかった。



* * * * *



「私は生前、井土ヶ谷で暮らしていたの。桜木町はとても馴染のある場所だったわ」


 夜の教室で、あたしと委員長は向き合って座っている。泣き腫らした顔を見られたくないからか、灯りは再び消され、暗闇の中で互いの顔を認識することは出来なかった。


「だから、銀河漂流教室がこの場所に漂着した時、とても驚いた。校舎は世界の各地をランダムに移動していて、日本に顕現することすら稀だものね」


 あたしは机の上、組んだ脚を組み替え、少し身体を揺らす。


「ごめん、委員長。あたし、街に出たんだ。委員長はこの場所で『卒業』するものだと思ったから、お別れに一目見ておこうと思って、宛てもなく街中を探し歩いた。そしたら、一組の家族を前にして泣いている場面を目撃した。――あの人たちは、委員長の何なの?」


 ぐすりと、鼻を啜る音が闇に響いた。


「恋人よ。生きていた頃の」


「……それは、男の人の方だよね」


 あたしの問いに、委員長は首を横に振る。


「女の人の方。彼女が連れてた子供、十歳くらいだったから、私と彼女が死別してから十年以上は経っているのかな。


 生きている時、私は大学生で、彼女はアルバイト先のドラッグストアの社員だった。休憩時間に談笑しているうちに仲良くなって、そのうちにお互いの性的指向が同じな事に気付いて、恋人としての交際が始まった。


 大学四年生になって、就職も決まって、卒業したら同棲しようって話になって、同性同士でも一緒に一生過ごせる制度なんかも調べ始めて、


 ――私が火事に巻き込まれて命を落としたのは、そんな矢先のことだった」


 委員長の声はとても落ち着いていた。存分に泣き腫らして落ち着いたのか、冷静に話せるほど彼女の中で過去の事となっているのかはわからない。


「実家にも行ってみたの。両親は年老いたけど元気に暮らしてた。でも、三回忌までは亡くなる前の状態に保たれていた私の部屋は、今はもうキレイに片付けられてた。


 別に私の事を引き摺ってほしかったわけじゃない。むしろ、早く振り払って、その人たちの人生を生きてほしいと思ってたはずだった。


 ――でも、自分のいた痕跡がこの世から無くなって、時間が滞りなく進んでいるのを実際に目にしちゃうと、……何だか凄くツラいな」


 視界の不自由な中だけれど、委員長は強がりの笑みを浮かべているような気がした。


 あたしはこんな時、傷付いている人にどんな言葉を投げればいいかわかるほど賢くはないし、人生経験が豊富でもない。


 口を突いて出てきたのは、素直に心に浮かんだ言葉だった。


「それって、……なんだか羨ましいな」


「……へ?」


 困惑したような声を上げる委員長。


 ……まあ、当然か。


「ごめん。別に変な意味じゃないよ。


 ただ、あたし、人の存在なんて最後には消えてなくなっちゃうのが当たり前だと思ってたからさ。委員長のように忘れ去られて本気で悲しくなるような人生を生きられたってのが、なんだかあたしには羨ましくて」


「……なにそれ。わけわかんない」


 自分でも自分の感じたことを上手く言葉に出来なくて、当然のように呆れられた。


 窓の外がパッと明るくなったのはその時だった。


「……花火?」


 夜空に開いた花を目にして、あたしは呟く。


「そうか。六月の初めだものね。開港祭の花火だよ」


 二発目、三発目と花が開花し、閃光が教室内にも指す。


 委員長の赤く充血した眼と、腫れた瞼と、乾いた涙が張り付いた頬をくっきりと視認できたのはその時が初めてだった。


 ――綺麗だ、と思った。


「……委員長と一緒に次を生きられるなら『卒業』してもいいかも」


「え? 何か言った?」


 あたしの言葉は、遅れてやって来た花火の音でかき消され、委員長には届かなかったようだ。


「……なんでもない」


 あたしは委員長から視線を逸らし、窓の外に目をやる。


 また新しい漂流が始まるまでの少しの時を、明かりを消した教室で二人、打ち上がる花火を見て過ごす。


 その間、あたしと委員長の間に、一切の会話はなかった。



(了)

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