泡のような一日
波島かおる
泡のような一日
泡のような一日と言えば私は十九歳の夏休みのある一日を思い出す。美しい体験は子どもの頃、何度もしたかもしれないが、記憶は色あせてしまってこれといって思い出せない。最近になると日々は灰色で全くそのような体験ができなくなった。だから、私はその一日を人生の中で宝物のように思っている。きっとこれを読んだ読者は私の意図通りにその一日を解釈してくれると思うが、念のために言っておくと、私はこの一日を過ごした時期決して幸せではなかった。幸せではなかったからこそよく覚えていて大切に思うのかもしれない。一方でこの体験をできて私は幸せなのかもしれないとも思う。これを言うと卑怯かもしれないが、全てが正確な文章ではないということを理解してもらいたい。正確ではなく薄ぼんやりした記憶を書いているのだと思ってほしい。余計な前置きはここまでにして私のある一日を読んでほしい。
その日は9月だった。私は長野県飯田市出身で大学は千葉の大学に通っていた。大学の夏休みは8月の頭から10月の頭まであり、私は実家に帰省していた。朝5時くらいに長野県の飯田駅まで車で父に送ってもらった。塩尻に、運転免許の筆記試験を受けにいくためだ。
朝の飯田駅はどんな人がいたのかあまり覚えていない。確かサラリーマン風の男がぱらぱらといて、部活がある女子高生もいた気がする。一方でそんな人達はいなかった気もする。
ともかく私は静かで澄んだ空気の中、ホームに滑り込んできた電車に乗った。乗り込んだ時もどんな乗客がいたのかは記憶から消えている。
私は席に座って窓の外を眺めた。見えるのは小さな町と緑の海だ。アパートなどの建物の間、林などをすり抜け、橋を渡って電車は進んだ。
伊那上郷に着いた。私が通っていた高校の最寄り駅だ。降りていく私服の高校生を眺めながら、私は三年間の高校生活を思い出した。
私は眼鏡をかけたがり勉の高校生だった。どうしてもいきたい大学が京都にあり、青春をすべて勉強に注いだ。あまりにレベルの高い大学なので、志望大学が同級生の女子にばれた時、「まあ目指す上では自由だよね。」と言われた。私は悔しくてその大学のオープンキャンパスでもらったうちわにそのセリフを書いて勉強した。結局見返すことなんて私の頭と努力でできなかった。私は自分に自信がなく、勉強だけにすがりついていた。友達は当時一人だけいた。でも、私は友達よりも勉強を優先していたからか当時はそれほど仲が良くはなかった。仲が続くか分からなかったその友達とは高校卒業後にお互い親友になった。
どんな高校生活が正解だったのだろうか。ひょっとしたら、勉強ではなくて部活に熱中していたら、また違った人生になったかもしれない。一方で、これ以外の人生はありえなかったと思う気持ちもある。
受験に敗れた私はぐちゃぐちゃにされた紙みたいにぽいっと投げられてしばらく時間が経ったのに傷は全く癒えていなくてぽかんとしているだけだった。
高校生の時、夏に自転車で夜の田舎町を走るのが好きだった。暗い中に風で揺れる田んぼの緑があり、浮かぶ家々の灯りが田んぼに反射している。時間が曖昧になって世界の境界もぼやけているような気がした。私はその時だけは現実を忘れて自分を許すことができた気がする。帰り道にあるお医者さんの家が私は好きだった。文字通り医者が住んでいる家だ。それほど大きな家ではないが、敷地が広くて、コンクリートの地面が広がっていた。その中に庭があり、東屋があった。目が青のビー玉の黒猫のオブジェが私は好きだった。いつか私もこんな家に住みたいと夢を持った。これを書いている今、私は相変わらず実家の小汚い部屋に住んでいる。私は未だにお医者さんの家に憧れを持っている。
伊那上郷から電車は出発した。その時ふと自転車通学だった私がなぜか高校に電車で来た時のことを思い出した。私は高校生の時、自意識過剰でごみの捨て方も変に見られていないか気にしていたぐらいで、電車に乗っている時も誰かが自分の悪口を言っていないか気にしていた。電車が伊那上郷に着いて、私はほっと駅に降り立ち高校へ向かった。その途中でふと電車賃を払い忘れたことに気付いた。だがすでにお金を集める人は電車と共に次の駅に行ってしまった。ただそれだけのことを思い出した。
若かったなとなぜかその時思った。これから何百回もそう思うのだろうなとも思った。
景色は移ろう。私は思い出ばかりがやってくるのに気づいた。過去の自分とはなんだったのだろうかと考えた。私の中に今でも生きているのだろうか。過去の自分を考える時、自分は透明な澄んだ世界にいたように思う。現にこれを思った自分に対して、今これを書いている私は何をしたわけでもないのに切ないような感情を抱く。
窓から景色を眺めていた。すると隣の席に十歳くらいの少女が座った。少女は昔の私にそっくりで、おかっぱだった。
少女はなんとなくの流れといった感じで口を開いた。
「わたしね、画家になるんだ。画家になって嫌な子たちを見返してやるんだ。」
子どもが苦手な私は恐る恐る尋ねた。
「えと・・・絵描くの好きなんだ?」
「うん、好き。絵かいてるといやなこと忘れられるから。」
私も絵を描くことが好きだった。大好きだった。けれど受験勉強をしているうちにその気持ちを忘れてしまい、ふと思い立った時に絵を描いてみたがまるきり気持ちが入らなかった。小さいころ、画家になりたかったこともある。
「私も昔画家になりたかったんだ。」私は言った。
「今は?」
「今は分からない。自分が何になりたいのかも。自分ができないことが分かってきたから。」
私はしまったと思った。夢見る少女に向かって夢を壊すようなことを言ってしまった。
「お姉さんならきっと夢がみつかるし叶うよ。」少女は言った。
「ありがとう。あなたの夢を私は応援しているね。」
「ありがとう。わたし人見知りだからこんなふうに人に話しかけたりすることはぜんぜんないんだ。でも、お姉さんわたしとどこかが似ているからなぜか話しかけれたんだ。画家になる夢もお姉さんに初めて言ったんだよ。」
「そうなんだ。嬉しいな。」
そうだった、嬉しかった。私は同年代の友達すら少ない、ましてや子どもと交流なんてうまくできない。子どもの頃人間関係に特に悩んでいたからかもしれない。それがこの少女にはなぜかすぐに心が開けた。
私は自分から聞いた。
「あなたはなんて名前なの?」
「みわ、未来の未に和風の和。」
「私もみわって言うんだよ。私の(み)は美しいの美だけど。」
二人は目を合わせて感動した。
私は人生で初めて運命を感じた。この少女は私の人生にとって大きな存在になるかもしれないと思った。
「未和ちゃんはこれからどこへ行くの?」
「わたしは家出してきたから行くところは決まってないよ。」
「家出、かっこいいねえ未和ちゃん。私もしようとしたことはあるけど一時間で家に帰ってきちゃった。」
それを聞いて未和ちゃんは少し笑ってそして真剣な面持ちで言った。
「お母さんがわたしがいじめられるのはわたしが変わろうとしないから悪いんだって言うの。わたしだって分かってるよ。自分がなよなよしてるからいじめられるんだって。」
未和ちゃんは話していくうちにぽろぽろと涙を流した。私は黙ってハンカチを差し出した。
未和ちゃんはしばらくしゃくり上げていたが、5分くらいすると落ち着いて言った。
「美和お姉さんはこれからどこへ行くの?」
「私は塩尻に車の免許をとりにいくよ。」
「そうなんだ・・・。」
未和ちゃんは何か言いたそうにしていた。私はなんとなくそれが何か分かった。
「一緒にどこかへ遊びに行こうか。」
すると未和ちゃんの瞳が輝いた。
「うん。」
私たちは次の駅で降りた。その駅の名前は忘れた。免許のことが頭を掠めたけれど、また別の日にすればいいやと思った。私は全く用事をすっぽかさない人間だった。初めてエスケープをして私は不安と同時にすがすがしさを感じた。
歩いていくと野原が現れた。私たちはそこでシロツメクサの花かんむりを作ったり、四つ葉のクローバーを探したりした。
「お姉さんも子どもの頃人間関係がうまくいってなかったんだ。」
「そうなの。辛かった?」
「うん。見返してやろうとかずっと考えててがり勉になったんだ。勉強したことは悪いことじゃなかったけど、時間が経つとその人達のことどうでもいいって思うようになったんだ。」
「そうなんだ。わたしも時間が経てば憎いとか思わなくなるかな。」
「きっとなるよ。」
しばらく私たちは黙っていた。
未和ちゃんが言った。
「美和お姉さん、あの川を辿ってみようよ。」
未和ちゃんが指さす先には小さな川があった。川沿いには舗装された茶色い道がある。
「行ってみようか。」私は言った。
私は少女に戻って探検しているような錯覚を覚えた。
野原の近くから住宅街へ、住宅街から小さな公園へ。その公園で私たちはジャングルジムに上ったり、ブランコに乗ったり、地球儀みたいな遊具でぐるぐる回ったりした。
公園の先は林だった。林はだんだんと森になり、薄暗くなるにつれ、私たちは不安になり、手をつなぎ、汗ばむけれど、強く互いの手を握りしめた。
「そろそろ帰ろうか?」私は言った。
「いや、まだ帰らない。もう少しだけ、現実から離れたいんだ。」未和ちゃんは言った。
私は現実を忘れていたのに気づいた。本で読んだけれどこういうのをフロー体験というのだろう。私は少しの不安もあったけれどだからこそ物語の世界にいるような気がした。
しばらくすると、青い露草がぽつぽつと現れた。さらに歩を進めると、森の中の丸く開けた場所にたどり着いた。そこには一面に露草が咲いていた。まるで海だった。
「・・・きれいだね。」私は言った。
「うん・・・。私、この景色を一生忘れない。」未和ちゃんが言った。
私たちはしばらくその場に佇んでいた。
私は未来に希望を抱いた。まだ、私はこれからどうとでもなる。何になりたいかも決まっていないけれど、だったら何にでもなれる。現実的に考えたら何にでもなれるわけがないのに私は確かにそう思った、そう信じた。
「美和お姉さん、夢は叶うね。きっと。私分かった。」
私たちは元来た道を辿って、駅まで着いた。駅に着くころには、あたりは霧がたちこめていた。
「美和お姉さん、私画家になったら、お姉さんの絵を送るね。だから、お姉さんの住所教えて。」
「いいよ。絶対送ってね。」
私は行方の分からない約束を信じたかった。だから未和ちゃんに実家の住所を教えた。実家ならたぶんこの先引っ越すこともないだろう。
四十分くらい駅で待つと電車がようやく来た。しばらく二人で電車に乗っていた。外は薄暗かった。電車の窓に雨粒がついて光っていた。
やがて、未和ちゃんの最寄り駅に近づくと、未和ちゃんは「辛いこともたくさんあったけど、今まで生きてこれてよかった。お母さんと完全に理解はしあえないと思うけど、やっぱりお母さんのこと好きだ。辛いことがあっても今日のこと思い出して生きていくよ。」
「私もがんばる。」
「美和お姉さん、さよなら。」
私たちは別れた。未和ちゃんは電車から出ると後ろを振り返らずに日常へと戻っていった。
私は視線を未和ちゃんから電車の進行方向へと移した。外は薄暗かった。時計に視線をやると十二時だった。私は自分が空腹であることに気が付いた。ふいに電車の中で肉まんの匂いが漂った。匂いの先を見るといつから座っていたのか三十代くらいの女性が私の向かい側(私が座っていたのは二つの座席が向かい合って並んでいる座席)に座っていて、おいしそうに肉まんを食べていた。非常識だがそれを忘れるくらいおいしそうに食べている。私は羨ましくなったのとさっきの体験から気持ちが大きくなっていたので女性にこう声をかけた。
「電車で食べ物を食べるなんて非常識じゃないですか?」
女性はびっくりした顔でこちらを見た。
三秒目があった後、私のお腹がぐうと音をたてた。女性は一瞬間をおいてからけらけらと笑った。そして、傍らに置いてあった紙袋から肉まんを取り出して、私に差し出して言った。
「食べな。おいしいよ。」
私は少し迷ったが今回だけと思って肉まんを受け取った。
肉まんはもっちりとした生地に包まれていて、醤油の香りがした。変に肉臭くなくて上品な味だった。
「学生?」女性は聞いた。
「はい。免許をとりにいったんですが、途中ですっぽかしました。」
「すっぽかすか。いいねえ。私もそういうことしてみたい。」
「お姉さんはこれからどこへ行くんですか?」
「これからねえ。まだ決めてないんだ。私どうしたらいいと思う?」
冗談半分本気半分といった様子で女性は言った。何か訳ありな臭いがした。私はなんと答えていいか分からなかったので、たぶん正解ではないことを言った。
「私に今までの人生について話してくれませんか?」
「人生か・・・。なんとなく分かるだろうけど、私人生敗れてるんだよね。そうだね。これも何かの縁だし、話そうか。ちなみに私は田中。よろしくね。」
「私も田中です。」私は思わず言った。
「私はね・・・。」
田中さんはおもむろに話し始めた。
話している間に、白いシャツにスカートや白いシャツにスラックスの人間に持たれた傘がたくさん入ってきては出て行った。雨脚はだんだんと強くなり、外は緑の空間に水玉の線だらけになっていた。
***
私はね、野心が強くて弁護士になるのが夢だったの。そのために良い大学に入ってたくさん勉強しようと思ってた。受験は一生懸命勉強したよ。それで第一志望じゃないけどそこそこの大学に入ったの。でも大学生活を送っているうちに授業についていけなくて弁護士は諦めたんだ。それでも少しでも上で働きたいという気持ちは残っていた。でもサークル活動もコンビニバイトもポンコツで、自信なくなっていったんだ。それからだんだん家に帰ると体に力が入らなくなって動けなくなった。うつ病じゃないかと思って心療内科に行ったら案の定うつ病だった。これは余計な話だけど大学の基礎ゼミの発表で、私不眠とうつ病がテーマの新書の発表をしたんだ。まさか自分がなるとは思わなかったな。それで、薬を飲んだりヨガに行ったりしたら、だんだん良くなっていった。それで私はまたがんばろうと思った。弁護士が無理なら裁判所事務菅になろうと思って公務員の予備校に大学二年の冬から通い始めた。でも、通っているうちに脳が疲れてる感覚がひどくなって、大学の勉強と公務員の勉強の両立ができなくて、大学三年の冬に公務員は諦めた。そして私はそれほどスピードが求められなくて落ち着いた職場を求めて就活を始めた。就活はきつくて4キロ痩せた。やっと就活を終えたのが十月だった。でも嬉しかった。そこからはたくさん遊んだり、派遣のバイトをしたりした。
でも大学4年生の十一月頃から幻聴が聞こえるようになって、だんだん幻聴の言うことを聞くようになった。包丁をもって外に出たこともあるし、通りすがりの人に「死ね!」とか叫んだこともある。
気づいたら精神病院に入院していてトイレがむき出しの部屋の中ベットの上で拘束具つけられてた。統合失調症だった。
退院した時、まだ病気が残ってて私は世界一美しくて天才だとか思ってたの。でもだんだん違うってことに気づいてすごくショックだった。それから一年くらい実家でニートをしていてその後パートをしながら地元で就活をして卒業から二年後に会社に就職したんだ。でも仕事のストレスでまたうつ病になって会社をやめてまたアルバイト生活に戻った。今は会社をやめて5年目で小説を投稿してるけど、一回も入選してないよ。夢なんて叶わないものだと思ったよ。
***
私は黙った。夢が叶うなんて生易しいことじゃない。それでも私は夢を諦めたくはなかった。自分の夢が決まっていないにも関わらず。
「それで今日はなんで電車に乗っているんですか?」
「まだ夢に輝いてた小学生の頃、一人で遠くの祖母の家にいく時、電車に乗ったんだけど、ただ何気なく電車に乗っただけのその日の景色が忘れられなくて、そのキラキラした気持ちをもう一度味わいたかったの。そしたら何かが変わる気がして。」
「何か変わりました?」
「変わらないよ。私は昨日と同じ。でも、今までがんばってきたなと思ったよ。」
田中さんの瞳は虹色に潤んでいた。
しばらくして私は言った。
「私、夢がなくなってしまったけれど、今日何かも分からない夢を諦めたくないと思いました。田中さんの話を聞いて、夢なんて甘っちょろいものだけど、夢を目指す姿勢は美しいと思いました。だから私はやっぱり夢を諦めません。」
「いい曲があるから聞かない?」
田中さんはイヤホンのついたiPodをとりだし、操作して私に渡した。
子供の頃眺めた空のようなクラッシックの曲だった。青空に雲がゆっくり漂っていてこれからどこへ動いていくのか期待で胸が高鳴るような。
「なんていう曲ですか?」
「ドヴュッシーの夢。」
「いい曲ですね。」
九月の午後の柔らかな日差しが電車の中にさしこんでいた。
「私もまだまだかもしれないって、田中ちゃんと話して思ったよ。三十歳なんて田中ちゃんからしたらおばさんかもしれないけど、私まだ三十歳だって思えた。何歳だから希望を捨てなきゃいけないなんてないものね。」
私は田中さんが前向きになって嬉しかった。窓から注ぐ黄色の光が強くなって私は日焼け止めを塗った。
「ねえ、田中ちゃん、どの駅で降りるの?」
田中さんが聞いた。
「飯田駅で降ります。」
「私も飯田駅で降りる!ちょっと寄り道しない?」
「いいですねえ。」
私は今日はこんな日なんだなと思った。
気づいたらもう伊那上郷だった。
「私ここの高校の出身だったんだよね。」
田中さんが言った。
「私もここの高校です。」
「高校時代、辛かったな。友達もろくにできないし、ただ勉強してただけだし。」
「どんな青春ならよかったですか?」
「そりゃ友達がいて、彼氏がいてやりがいがあることしてる青春がよかったよ。でもね、時間が経ってみるとなんかこう味わい深い思い出に変わっていくんだよね。もう一度味わいたいかはまた別だけど、悪くなかったともどこかで思うな。」
私はそうなのかと思った。私の中で高校時代は目をそむけたくなるものだった。過去は変わらないけれど、過去の意味づけは変えることができるのかもしれないと思った。
そうこうしているうちに飯田駅に着いた。雨がまだ降っていたので私と田中さんは傘をさした。
おやつの時間くらいだった。
「お気に入りの喫茶店あるんだ。」
田中さんがそう言って連れて行ってくれたのは時計だらけの喫茶店だった。柱時計、砂時計、影の時計、時計ですべてが埋め尽くされていた。奥にガラスのテーブルがあって雑貨が売っている。
メニューを見ると思い出のカフェオレ、現在のコーヒー、未来のショートケーキと3つしかなく、私はカフェオレとケーキ、田中さんはコーヒーとケーキを注文した。
「田中さんはタイムリープできたらいいとか思いませんか?」
私は聞いた。
「タイムリープしたいの?」
「したいです。やり直したいです。」
「私も何度も思ったよ。今も思ってる。けど、最近はタイムリープしてたらなくなってしまう自分の良い所とか楽しい経験、苦しいけどいい経験もあるんじゃないかなと思うよ。失敗も痛い過去かもしれないけど、さっきの話みたいな、いとをかし的な趣深い思い出になるんじゃないかと思うよ。」
私はカフェオレを見つめた。白が混じった茶色の飲み物。時計のかちこちという音が聞こえた。すると、意識がだんだんぼんやりしてきた。
春夏秋冬要領の悪い勉強をしている自分がいる。少ししか伸びていない模試の結果を眺めている自分がいる。次は初夏、窓から木々が見える中文化祭でクラスメイトと迷路の準備をしている時、誰とも馴染めず、仕事をなくして困っている自分がいる。その世界は青かった。壊れそうなガラスのような世界だった。美しいと私は思った。私はそんな自分に何か声をかけたいと思った。世界は戻ろうとしていると私は気づいた。だんだん喫茶店に戻っている世界の狭間で私はきっぱりと言った。
「がんばってるね。いつか美しい透明な思い出になるから待ってて。」
過去の私は幽霊のように薄くなりながら、目を丸くして驚いていた。
意識の移り変わりは終わり、私は喫茶店に戻った。
涙目になって私は言った。
「絶望しながら私達は生きるけれど、いつかふと希望を感じる時が束の間あるんですね。」
「そうだね。」
私達は黙っていた。
「田中さん、住所教えてください。私、夢をみつけたら田中さんに手紙書きます。」
「ラインじゃなくていいの?」
「ラインだと軽くなっちゃうから。」
私は田中さんから教えてもらった住所を手帳に書き写した。
ケーキを食べ、カフェオレとコーヒーを飲み終わった私達は喫茶店の雑貨を眺めた。私は泡がぶくぶく入っているガラスでできた砂時計のような置物に目がいった。田中さんも気に入ったらしく、私の分も買ってくれると言った。
田中さんと別れた後、田中さんに買ってもらったその時計越しに雨上がりの夕方の町を眺めた。
私は生きているのだと思った。
家に帰ったら免許の試験に落ちたと嘘をついた。
私は田中さんと同じように大学卒業後に心の病にかかり、実家で療養している。死にたいと思ったことは何度もある。だが二人との約束が私を生かしている。
未和ちゃんから私の絵は届くのだろうか?田中さんに私は手紙を書くのだろうか?まだそれらは達成されていない。
分からない。それに二人は私のことなどもう忘れてしまっているかもしれない。
それでも私はこの泡のような一日を何度も思い出す。そして冴えない日々が美しいんじゃないだろうかとふと思う。
泡のような一日 波島かおる @0mon
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