虐殺する人魚と、その顛末
海沈生物
第1話
今日、地球上で最後の「罪人」の処刑が執行されることになった。それは当然の結末でしかなく、私には処刑を執行した政府も、その処刑を強行させた人民も恨む理由がなかった。それでも、私は許せなかった。政府や人民が、ではない。その人魚の血を舐めた罪人が、ただ頭をはねられて死ぬなどという、血のように甘い罰で済まされることが、だ。
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人魚とは、悪逆非道の限りを尽くした悪魔のことである。人魚による人間の虐殺以前、どこぞのアンデルセンなる作家が描いた「人魚姫」なる恐怖に満ちた物語のおかげで、人魚たちは海の底から出てくることはなかった。もちろん地上に憧れた人魚たちがいたことは容易に想像がつく。しかし、「人魚姫」のような結末を迎えるのが嫌な者が大半であったらしい。彼らはやむなく、深海の生き物たちを貪り喰らうことによってその地上への進出という憧れという名の殺意を抑え込んでいた。
だが、ある冬の日のことである。戦犯である人間の女はある日、海岸近くの岩上でボロボロのリコーダーを吹こうとしている人魚の姿を見つけた。女がそろりと近付いて「何やっているの?」と尋ねると、リコーダーを持ったその人魚はまるで化け物でも見たかのような顔で驚き、すぐに海の中へ潜ってしまった。――――あぁ、これはやってしまったかな。声をかけずに物陰で見ていてやった方が良かったかな。女は酷く後悔の念を抱いた。そしてその女は、どうにか人魚に対して「謝りたい」という気持ちを持つようになった。
それから女は、その海岸に毎日通うことにした。ただ謝りたい。彼女がせっかくリコーダーで遊んでいたのを邪魔していたことを、謝りたい。その一心で海岸に通った。
そんな思いも虚しく、何十年も人魚と会うことはなかった。当たり前である。その海岸がいくら冬故に海水浴客がいないので寂びれた場所であっても、時々は人が通る場所である。そんな数年程度の頻度で人魚が現れていたら、とっくにこの海岸にいる人魚の存在が広く知れ渡っていただろう。
それでも、春夏秋冬を五十周した頃のことである。女はもはやルーティンの一つと化した毎日の海岸訪問をしに行くと、ついに五十年前と変わらぬ姿でしけったタバコを吸おうとする人魚の姿があった。五十年前の反省を生かした女は、とりあえず驚かせないように遠目から見守ると、人魚がそのタバコを咀嚼しようとした。
その姿を見た瞬間、女は思わず「ダメ!」という大声が出した。人魚は女の声に大変驚いてタバコを落としてしまったが、女の必死そうな顔に何かを感じ取ったのか、五十年前とは異なって海の中に逃げることはなかった。その様子を見た女がトボトボと近付いていくと、人魚の方は岩上から女を見下ろしてきた。
女は歳も歳で心臓病や高血圧を疑っていいほど鼓動が早くなるのを感じながら、やがて人魚の前に立った。人魚の顔を見上げると、女は両膝をつき、土下座の姿勢を取る。
「あの……五十年前、驚かせてしまって……ごめんなさい!」
人魚の方は突然の謝罪に、少し戸惑った顔をしていた。それでも、彼女は女の顔にどこか五十年前の面影を感じたのだろうか。ふっと笑うと、
「キニシテ、ナイヨ」
と片言の言葉を話し、女のことを抱きしめてくれた。
それから、人魚と人間の女は沢山の話をした。五十年という長い年月を生きてきた女はその人生の中で、様々な
人魚の方はそんな女の話を興味深そうに聞いてくれていた。時々「ソノ〝ジョウシ〟トイウヤツヲ、コロシタイトオモワナカッタノカ?」とか「ニンゲントハ、ソノヨウニ〝ミニクイ〟イキモノナノカ?」とか妙なことを尋ねてきたが、その時はそんな質問に対して危機感を抱いておらず、「殺したかったわ」とか「人間は生きる価値のない生き物よ」とか……いわゆる人間憎悪に満ちた回答ばかりを人魚の彼女にしていた。
だから、もうすっかり朝になって去る必要が生まれた別れ際、人魚から
『オマエノコトガダイスキダ』
と言われても、
『えぇ、私も貴女のことが大好きよ』
と五十年越しに青春をやっているのか、と思うほど胸焼けするようなアオハルなやり取りをした。
――――だから、その翌日から陸上に上がってきた人魚たちが人間を虐殺しはじめた時、その女は酷く後悔の念を抱いた。
地上に進出してきた人魚たちは、「上司らしいもの」……つまり中年男性であったり、あるいは高圧的な言葉を使っていたり、そういう人間を殺戮し尽くした。深海からやってきた人魚たちは、総勢十万。しかも、全員が不老不死ときた。いくら銃弾を当てても死なない人魚たちの大軍勢に、人間たちは為されるがままに殺されていった。
そうして、この世界から高圧的な態度を取る「上司らしい」人間の大半が消えた。それで人魚たちの気が済んでくれたら良かったのだが、人魚たちは次の行動に出た。それは、残りの人間たちの駆除である。人間の持つ枯葉剤や核兵器という便利な道具の使い方を覚えた彼らは、それらを扱い、地上を人間が住むことができない地獄へと変えた。
実りを失った私たちは明日を生きるために同族との醜い争いを繰り広げ、やがて飢えに苦しみ同族を喰らう者たちすら発生した。
そんな現状を、その女はただ呆然と眺めていた。誰もいないあの海岸で、町が燃え盛っている様子を、人間たちがお互いを虐殺する悲鳴を、全部全部、聞いていた。そして女はまたその海岸で、あの人魚と出会った。以前よりもふくよかな体形となったその人魚は、女の姿を見ると嬉しそうな笑顔で抱きついてきた。
『貴女! たくさん、人間殺したよ! 上司、たくさん殺した! 醜い人間、たくさん殺した! 美味しかった! 褒めて!』
女はただその嬉しそうな笑顔を見て、吐き気がしてきた。だから次の瞬間、その人魚のお腹にナイフを刺した。不老不死である人魚が死ぬことはなかったが、それでも痛みは感じた。女は人魚の甘い血を舐めると、海岸に倒れた女を見下ろした。
「どう……して? 貴女、望んだこと……やった。私、貴女……大好き。貴女、私……大好き、だから。それなのに……どうして……どうして!」
「……ごめんなさい、ってこれは私が謝るべきなんでしょうね。あの時と同じように、貴女へ土下座をするべきなんでしょう。でもね、貴女は人を殺しすぎた。ただの醜い人間の一人でしかない私の言葉を真に受けて、やりすぎたのよ。だから――――大好きな私のために、死んでちょうだい」
女は自分の腕を切ると、人魚に人間の血を飲ませた。その瞬間、その人魚は苦しみの顔を浮かべると、そのまま「どう、して」と言いながら驚いた顔のまま息絶えた。女はその死んだ人魚の遺体の唇にキスをすると、例の海岸の岩の下に彼女を埋めた。泣くことはなかった。大好きな相手を狂わせたような彼女は――――私には、そんな被害者ぶる権利がないと思ったから。
やがて「人間の血を飲ませたら、人魚が不老不死ではなくなる」という情報がその女の手によって出回ったことによって、人魚たちは圧倒的な兵力の前にあえなく死んでいった。所詮は十万である。人間の生み出した暴力の前では、勝つことができなかった。
そして今に至る。全ての元凶たる私は今、処刑台の前にいる。当たり前である。今回の騒動を引き起こし、そして数多の人間を滅びへと誘った人間。そんな者が生存を許されるわけがなかった。
人々の声が聞こえる。
「死ねー!」
「お前のせいで俺の両親は死んだんだ!」
「お前が全部悪いんだ!」
「おばあちゃんは、アンタのせいで病死したんだ!」
「俺がパチンコで破産したのは、お前のせいだ!」
やっぱり、人間なんかに人魚を殺す方法を教えなかったら良かったなと思った。このまま放置して、もうここにいるやつ全員が「醜い」まま死んでくれたら良かったなと思った。でも、私もそんな「醜い」人間の内の一人なのだ。その中でもとびきりに「醜い」存在で、こんな首を切る程度の血のように甘い罰で、この世から逃げることを許されている。
もはや、抗いようがない。抗うつもりもない。まるでフランス革命の時代に戻ったのかと思わせるギロチンに手と頭をセットされると、私は目をつむった。
「それでは、刑を執行する!」
……もう、どうでもいいか。私は笑顔を浮かべないで、ただギロチンが落ちてくる音に耳を澄ましていた。結局、涙は一滴も流すことはなかった。
虐殺する人魚と、その顛末 海沈生物 @sweetmaron1
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