砂時計
北緒りお
砂時計
まるでシャボン玉をくっつけて引っ張ったような細いくびれを通り、音も立てずに砂が落ちていきます。缶コーヒーより少し小さいぐらいの大きさで真ん中だけ繊細にくびれ、ガラスの薄い膜で外と隔たれた中を砂が流れていく。彼女と私の間にある静寂の残り時間は、その砂が見えるようにしてくれていたのでした。
目の前には女性が一人、伏し目がちに座っています。
床の上に広げた大きなバスタオルの上、体は私の方を向いているものの、視線はこちらに向けられず、斜めに座っている彼女自身のつま先あたりを見ているようでした。その目元は、昔の彼女の面影がそのままで、頬にかけてのラインは大人になったからか少し丸みがとれたように思えました。とはいえ、細いのに妙に力強い肩の線はそのままで、人違いでなく確かに彼女であるとわかったのでした。
部屋の中は、よく見ると殺風景で、マットをひいている床の上にバスタオルがひいてあり、そして、カラーボックスが2つ並んでいて、その中にはこの部屋の中で使う小道具がしまわれているのだと思われます。
そのカラーボックスの上に砂時計がおいてあり、受付の説明では、砂が落ちるまでの間は、目の前にいる女の子と<自由恋愛>の時間になるのことでした。
私も彼女も口は重く、少しの言葉がきっかけになり、重い空気がさらに重くなり、白々しく室内を照らしている蛍光灯の明かりですら鈍らせてしまうのではないかと思ったのでした。
私が部屋に入ってからというもの、彼女はこちらに視線を合わせようとしません。少しだけこちらを見てくれては居たのですが、私だと気づいてから、こちらを向こうとすらしないのでした。入ったときは、おそらくどのお客さんにもするであろう通り一遍の挨拶があり、すこしは会話ができるのかと思っていたのですが、そうではありませんでした。
彼女に聞きたいことがたくさんあります。
まだ、彼女が二次関数やBe動詞なんかを習っていた頃から、わからないところがあるというと近所に済む私の部屋に聞きていました。彼女の高校生活がおわるあたりまで、忘れた頃にやってくるかと思うと、目的が済むまで何日か続けてやってきて、そうかとおもうとぷいっと現れなくなるのでした。
こなくなると、ほんの少しの緊張が解けるのと、それと同時に、なにやら餌付けした野良猫がどこかに行ったかのような気分になったのでした。
そのころの私の生活と言えば、専門書と文献にかこまれ、それこそ古本屋のなかに机を並べて生活しているような部屋での毎日でした。そんななかでも彼女が顔を出すと、部屋の中に花が咲いたような、暖かな春風が吹き込んできたような、なにやら柔らかな感情がわいてきていたのを覚えています。
実際に彼女が現れるのは、夏の盛りや真冬の頃で、そんなにさわやかな登場というわけではなかったのですが、それでも、そんな私の目には小動物になつかれてうれしいのに似た感情もありそのように映っていたのでした。
研究職に就こうと、院生としてその世界の隅っこに食らいついていた時期でしたから、気持ちの余裕が皆無と言ってよいぐらいに無く、起きてから寝るまで、抱えている課題を解決するための案を片っ端から試していき、だめなら次の案を出すという毎日なのでした。
そんな中であってか、今考えると彼女の勉強の面倒を見てあげるぐらい大したことではないと思うのですが、自分のことで手一杯になっていると、あまり丁寧に教えたという記憶はありません。しかし、彼女は彼女で、お金のかからない居場所と家庭教師ぐらいに部屋と私を使っていて、彼女は自身の宿題や課題はほとんど一人で進めていたというのもあり、彼女と私の間にほどよい距離感ができているのでした。
彼女の高校生活もそろそろおわりを意識する頃でした。私のところには、急ぎでレポートを手伝ってほしいとか、実験レポートの書き方を教えてほしいなんて事を言ってきたのでした。
そんなものは、中学生ぐらいで習うものなのですが、たまにやってくる彼女の行動や格好から察するに、まじめに授業を聞いているタイプではないのだろうな、と思っていました。
授業で習っていることを聞きにくるぐらいですから、わかっていないという前提で指導、正しくは、どうすればよいのかをできるだけ具体的に、でも答えにならないように伝えて、その通りにレポートを仕上げるようにと教えたのでした。
理科の実験レポートは難しく考える必要はなく、どの道具でどのように実験したのか、そして、起きたことを起きたまま書き記せばよく、そこに書いてあることをだれでも再現できるようにできてればよい、というのがレポートの最小限の約束事です。そこに自分の考察が入れば充分です。
それを彼女に伝え、彼女が一生懸命書いたという実験のメモをみながら、かなりの力業、と言っても、私が全力でサポートしての力業ですが、それでまとめ上げました。
彼女のノートには欠けているところが多かったものの、抜けているところは同じ班になった人に見せてもらうようにして、まとめていたのを覚えています。
そのときは、実験メモの買いてあるノート、しかもいたずら書きやマーカーやサインペンを使っていろいろ書き込んでいる割には必要なところのぬけの多いノートを広げて、足りてないところを教えてもらうのに、LINEであちこちに連絡していた様子を覚えています。
そうこうして最小限の状態に仕上げたのでした。
後日、彼女の中では比較的よい点数がとれたとのことで、バイト先で買ってきたという見たことがないエナジードリンクの6缶パックを手みやげに再度やってきたのでした。用事が済むとしばらく顔を見せなくなるのがいつものことだったので少々驚いたのですが、手みやげを持ってくると言うのにもなにやら彼女の成長を感じたのを覚えてます。
それから数年。私は研究職の隅っこにいるものの、安定しているとはとてもいえる環境ではなく、ただただ、論文を粗製濫造しているだけなんじゃないだろうかと自分がいやになったり、友人から聞く「研究をあきらめて就職したその後」を聞いて、収入が増えるのであれば、その道がいいのではないか、数年後の自分を思い描けるのであれば、そちら道の方が断然いいのではないかと、自分の過去の選択と今歩んでいる道とを見比べてみて、どれが正しいのだったろうかと見つめ直す日々なのでした。
外は真夏の熱気を街が吸い込み、日は落ちて暗くなっているのにも関わらず蒸し暑いままなのでした。蛍光灯が白々しく部屋を照らします。部屋が明るかろうが暗かろうが砂時計は静かに砂を落としていきます。まだ、その上の膨らみに多くの砂が残っています。
けれども、なにを聞こうとしても、なにかを言い出そうとしても、水たまりに張った薄氷に足をおろすような、ちょっとのきっかけで彼女の間のかぼそいつながりが切れてしまいそうな気がしました。このまま黙っている方が楽なんではないかと本気で考え込んでいたのでした。
私の背中を、冷たい汗が流れていくのを感じます。
体を動かしたわけではなく、ただじっとしているだけです。部屋の中はエアコンが利いていて、外から入ってきた瞬間は気持ちよいぐらいでした。でも、身じろぎ一つしないにもかかわらず、自然と汗が背中を伝い流れ落ちてくるのでした。
もしかしたら、私は顔がこわばって怖い表情になっていたのかもしれません。
彼女の方をじっと見つめすぎたのかもしれません。
私からなにか言葉をかけようと、はじめの一言を探しているのですが、なにも出てこないのでした。重い空気の中で、逃げ出したくなる思いを押さえつけるのに精一杯でした。
彼女からしたら、偶然お客さんが私だったという不運だったのかもしれません。ですが、この再会は私がきっかけを作ったものなのです。
研究者の集まりというものは、たいていの場合はまじめなもので、研究会や勉強会が終わると食事をしながらちょっとだけお酒を飲んで、そのあと、だいたいの先生は、さっと帰ったり、資料づくりなんかの仕事の続きに戻ったりするのでした。
場所も大学周辺が多く、学生相手の店みたいなところでちょっとだけ、とか、そういう流れがほとんどなのでした。ですが、企業主体、しかもネット系の会社が主体になると、六本木や渋谷なんかが会場となり、終わった後も、企業の方に連れて行ってもらい、普段は行かないような華やかなお店で呑むということがあります。再会のきっかけはそのような会合でした。新年度が始まる前のいわゆる春休みのはじめ、普段は行かないような渋谷の奥の方を通ることになり、そこで彼女らしき写真を目にしたのがきっかけです。
会合の会場からは少し離れている店が予約されていると伝えられ、その店に行くべく、渋谷駅から坂を上りさらに薄暗い通りを抜けていく途中でした。お酒を飲むだけのお店やそうでないお店があり、狭い坂道が混じり合うような辻々をとおった先に懇親会の会場があるということで、道がわかる人にくっつき学術系の人間同士で群になり移動したのでした。歩いていくあいだに、女の子がサービスをしてくれるというお店が何軒もあり、店の入り口周辺には写真が張ってあったり、呼び込みの店員がiPodに画像をだし、つぎつぎとスワイプさせて品定めさせようとしていたのでした。
見ようとしなくとも視界に放り込まれる画像の中に、見たことがある顔があり、その顔が記憶の中の人物とつながったとき、一瞬まわりの風景が白くぼやけ、まるで音もなにもなくなったかのような感じがしました。梅雨入り少し前で、だいぶ暖かくなったと思っていても、まだ夜になると肌寒いと思っていたのですが、なにやら額に汗が噴き出してきたのも覚えています。
iPadを片手に女の子を薦めてくる店員は、薄ら笑いを浮かべながら、この娘っすか、と画像をスライドさせるのをやめ、数枚戻り、その顔をしっかりと見せてくれたのでした。
よく似た人であってほしいとと思い、しっかりと確認しようと凝視したのを覚えています。間違いないと思ったものの、そうではあってほしくないと思い、目の前がぐらぐらとするのを感じながら、確信するのをやめたのを覚えてます。
そのとき、呼び込みの男性にどう言葉を発したのか覚えてないのですが、さっきまで一緒に歩いていたメンバーがどんどん先に行ってしまうのを指さし、そっちに行かなければという身振りをしたような気がします。呼び込みの店員さんは、ジャケットの胸ポケットに半ば押し込むように入れてある店のチラシをとりだし、インクの出が悪いボールペンでその子の名前を書いてくれたのでした。
やたらとバランスの悪い字がかすれて書いてあるその名は、見覚えのない名前なのでした。後で、その店の名前とその名前で検索すると、お店の所属の女の子一覧というページをみつけ、そこには、あの夜に見た写真が出ていたのでした。
そのとき、私の指先、顔面、背中、おなか。血の気が引いたり、冷水を浴びせかけられたようになったり、締め付けられるようになったりと、なにやら見えない腕で殴られているような気分になったのでした。
あの高校生が、なぜ、どうして、ここにいるのでしょう?
冷静に、静かに考えようとがんばってみても、感情がついてきませんでした。
なぜ、どうして。
この言葉だけが、ぐるぐると頭の中をはいずりまわり、泥沼のようになった感情のにごりをさらにかきませ、いつまでも思考はまとまらず混沌としたままなのでした。
数日のあいだ、やらなければならない最小限のことだけをやり、そのほかの時間は、ただただ迷宮の中をはいつくばっているような気持ちでなにかしらの出口を探していたのでした。
「聞けばいいじゃないか」
これは、研究室の後輩に何か質問されたときに私が返している応えです。専門分野の事柄については、文献を調べたり、各種レポートを隅から隅まで読むのですが、時として解決しきれないことが発生します。そういうとき、そして、私が属しているような比較的大きな組織では書いた当人が近くにいることがそこそこあります。しかし、疑問が発生したとき、どうしてだか近くにいる書いた当人にの研究室に聞きに行くという選択肢が抜けてしまい、一生懸命調べ続けようとしてしまうのでした。
近くにいるのだから、行けばいいじゃないか。
私が指導を受けているときに言われたことであり、また、私が質問を受けたときに時折返している返答がそれなのでした。
彼女のことは、私が生涯をかけて考え続けたところで意味を持たないのです。どんな答えを私がひねくりだしたところで、それは私が思い描いた理想の答えにすぎず、彼女と私の間にある数年間のブランクを埋めることもできなければ、彼女自身の人生と遠いところで勝手に答えを導き出しているのにすぎないのです。どんなにがんばったところで無駄にしかならず、直接彼女に聞いてみる以外の道はないのでした。
理屈の整理はできました。
しかし、理屈では彼女と話をする段取りを組めばいいとわかっているのですが、それを実行しようとするととたんに動けなくなるのでした。
あのお店に連絡して、彼女を指名すれば会えることはわかっています。
そもそも、写真の女性が彼女であるということも、私が見た目だけで判断した推測にすぎません。
そこから確認しないといけないのでした。
どれもこれも、予約をして、実際に話をすればいいだけなのです。
変名とは言え、彼女らしき女性の名前もわかっています。
でも、肝心の予約をするのには、時間がかかりました。スマホで画面を開き、あと一歩のところまでは行くのですが、肝心の予約のボタンを押そうとするところで指先が止まってしまいます。そもそも、こういうお店に予約をするのにはどのような文章にすればよいのか、とかそういう本質的でないところをググって時間を過ごしてみたりして、肝心のメッセージを送るところまでたどり着かないのでした。
たった、指先一つのこと、ちょっとの文章を書き込んで送信ボタンを押すだけなのに、うろうろと指先が迷い、それでいて視線も液晶画面を見つめているようで中の文面などは目で追えず、思考しようとしても頭の中はまるで雲がかかったかのように重く真っ白な霧に阻まれ、決意しようとしても、そのための思いっきりがわいてこず、ずるずると半月ぐらい、むやみに時間を過ごしたのでした。
彼女は私にとって何だったのか、教え子であり、それ以上ではありません。
それでは、どうしてこれほど気になるのか、そして、今、彼女が置かれている状況がどうしてこれほど気になってしまうのか。
できれば、あの子でない、よく似た他人であってほしいと強く思っていたのでした。
彼女でさえなければ、どんなに安堵できることか。そのように思っていました。
送信しようかどうか躊躇している中で、途中から自分の目的を見直せました。彼女とよく似た他人であることを確認しよう。そのように考えを変えたのでした。
彼女でないことだけ確認できたら、それで帰ろう。そう思い直すことで、やっと予約ができたのでした。
部屋の大きさに比べてやたらと光量の強い照明が室内を照らし、まるですべての物陰を撲滅しようとしているかのように思えました。砂時計は、静かに砂を落とし続け、その半分は下に落ち、時間を表す粒が、黙り続けている時間をカウントし続けているのでした。
悶々と考え続け、そしてやっとの思いで予約を取った私は、黙っているだけでした。
目の前にいるのは、間違いなく、彼女です。
部屋に入った瞬間の彼女の表情の曇りよう、そして、事務的な接客の挨拶の言葉で聞いた声、間違いなく、あの彼女なのでした。
いざ、部屋の中で向き合ってみると、私の口の筋肉は頑なに動くのを拒み始めたのでした。口が重くなり、何か一言だけでも言おう思っても、口の周りの筋肉が動くのを拒絶して、まるで重い泥を詰め込まれたように堅くになり言葉を出すのをじゃまするのでした。
お店に予約した後は、あれよあれよという間に今の時間が設定されました。
その返信のメッセージは必要最小限で、もしかしたら必要以上のことを書いてはいけないというルールでもあるのかと思えるぐらいでした。
私が送ったメッセージに余計な情報が多すぎたのか、その分量の対比は少しおもしろいと思えました。私というと、研究会なんかの会合の幹事での各所との調整メールのように、必要と思われる項目を事細かに書いて送ったのですが、それに対して帰ってきたメッセージというと、
「指名?」
とだけで、どうやら私が送ったメッセージでは要件が伝わってないのだろうと思いました。
むやみに丁寧な返信を書くのも違う気がしたので、
「指名
その女の子」
とだけの返信をしたのでした。
時間やらの説明のメールが届き、ここでやっと予約ができたのでした。
部屋のルールは単純であり、必要とする事を達成するのには充分なルールがありました。砂時計だけが時間の監視役であり、それとその部屋の二人は<自由恋愛>なのだと伝えられました。
本来なら、照明を抑え薄暗くするのでしょうが、最大の明るさのままで私と彼女はだまり続けています。そのあいだも、砂時計は静かに時間の粒を下に流し続け、この部屋の中で流れた時間と、まだ残っている時間を見えるようにしているのでした。
そして、残された時間がもうそろそろ終わりそうなのがわかります。
今の私は、予約をする前と今とで少しも変わっていません。
じっと座り、身じろぎ一つせず、なにも言葉を発せず、彼女からなにも聞き出せていないのでした。
「聞けばいいじゃん」の言葉に、さも天啓のように激しく勢いづけられ、生まれて初めてこういうお店に入ったまではいいものの、その勢いはすっかり消えてしまっているのでした。いまは、職員室で怒られている小学生のように、ただただ頭を下げないようにしつつ、けれども視線は下に向け、床を眺めているだけなのです。
この時間を逃したら、二度と話を聞く機会なんかないだろう、という思いの反面、早く時間が過ぎてほしい、と相反する感情が頭の中で力比べをしています。もはや、現実逃避のためなら、頭の中の葛藤ですら、観察対象にしようかと考えているのでした。また、それと同時に山のように聞きたいことがあり、それは、量が多いと言うよりは、私の気持ちの中で大きく肥大して、まるで、無計画にふくらみ続けたクラゲみたいに形が見あたらないのですが、とにかく、どうにかしてその思いをしっかりと解消したいと考えていたのでした。
「夏休みあと一週間なのに、宿題全部終わる訳ないじゃん!」
台風が崩れてただの雨風のかたまりになり関東にたどり着き、朝から強めの雨が降っている日の昼下がりでした。
夏休みをしっかりと満喫したのでしょう。すっかりと焼けた肌に汗をにじませ、どこで買ってきたのか、大きなペットボトル入りのサイダーを片手に私の部屋に現れたのでした。
昼御飯は食べたから、すぐに宿題ね。と、こちらの都合は聞かずに場所を確保し、通学で使っているカバンに夏休みの宿題をすべて詰め込んでやってきたのでした。
彼女の宿題のやり方は、その成績の割には合理的で、できないところはすべてとばし、できるところだけをできるところまで進めて、それで行き詰まると私に質問を持ってきて先に進めるというやり方をしていたのでした。
私のところに持ってきたところで代わりにやってあげることはなく、彼女は自分で解かなければならないのですが、それでも、質問できる相手が居るというのは心強いのでしょう。課題なども同じように私の部屋にやってきて仕上げていくのでした。
私の部屋はさして広いわけではなく、資料と本に居住スペースをとられて、かろうじて机の上だけが自由に使える空間なのでした。
大きめの机、それも会議室で使うような素っ気ないけれども大きい奴を二つ並べて使っています。狭い部屋の中にそんな物を入れているので、部屋の中のほとんどが机で、まるで机を囲むように本棚代わりのスチールラックがあり、あとは申し訳程度に家具を並べたような部屋でした。
それに、今日みたいな雨の日でも、ひさしの幅が広いおかげで雨が吹き込まないのをいいことに玄関や窓を全開にしています。彼女はいつもそのことに文句を言うのでした。
「ねえ、クーラーって使えないの?」
と、扇風機を占領しながら聞いてくるのでした。
しかし、これぐらいの子供と密室に居ると、私が子犬や子猫をかまってるような気持ちで相手にしていても、近所から何か言われそうでいやで、結局クーラーなどを使わず、窓を全開にしていたのでした。
彼女は、私が資料とノートパソコンを広げて作業しているはす向かいに陣取ると、慣れた手つきで、散らばっている本や資料の束をよけて、自分が宿題をするためのスペースを陣取るのでした。学校で使っているであろうカバンは、小さな人形やらキーホルダーやらがついていて、歩いているだけでもチャラチャラとどこにいるのかを自己主張しているようでした。そこから教科書やノートを取りだし、ペンケースをおいたりして陣取った中に自分の繭を作っていくのでした。
そして、おもむろにペットボトルからぐいっと一口サイダーを流し込むと、黙々と宿題に取り組むのでした。
そうすると、部屋の中は私が作業するパソコンのキーボードを打つ音と、時々資料を確認するときの紙がこすれる音、それとは別に宿題をする彼女が出す、コツコツサラサラとシャープペンの先が紙の上を走る音がするぐらいなのでした。
外からは大粒の雨が地面をたたく音が絶え間なく聞こえてくるのでした。
彼女は決して勉強ができないと言うわけではなく、ただ単に遊ぶのが忙しくて、宿題の時間を作らなかっただけなのでした。彼女に教えるのが苦にならないのは、質問の仕方が、わからないから教えろ、ではなく、やってみたけれども腑に落ちないから観てくれ、という聞き方をしてきたからでした。
授業を聞いてないから知らないだけで、頭の回転もはやく、ちゃんと勉強すればもっと成績が上がるのに、もったいないと思うことがよくあるのでした。
砂時計を前にして、私も返答しやすい聞き方をしよう、そう考え、頭をフル回転させてしているのですが、言葉が出てきません。まるで、重い泥をかき混ぜているかのように、口を開こうにも、言葉にならずとも何か音を出そうにも、思いっきりの力が必要になり、思考の一歩一歩がまるで先に行かないのでした。
彼女はすぐそばにいる。けれども、なにも動かない。
けれども、砂時計は一粒一粒とぎれなく落ちていく。もう、その砂が残りが少なくなってきました。
残された時間でなにができるかと考えるところまでたどりつけず、ただただ、残り時間の粒が落ちていくのを視界の中に入れ、黙りこくっているのでした。
「……もできるけど?」
彼女の言葉でした。私は、彼女の少し手前ぐらいに視線を落とし、汗をかきながら思案に暮れていたのでした。
「延長もできるけど?」
きわめて事務的な問いかけでした。
私は静かにうなづき、延長のお願いをしたのでした。
このとき、私の口からやっと出た言葉は「え、あ、うん」ぐらいの物で、会話と言うにはほど遠いやりとりしかなかったのでした。
六十分の基本時間に、三十分の延長がつきました。
私は、彼女を前にして、ほぼ一時間だまりと押していたことになります。
そもそも、私は彼女に対して何かを発信する権利はあるのでしょうか?
そこからの自問を、もう、幾度ともなく繰り返していたのでした。
残された時間は三十分です。それだけの時間があれば、まだまだ話を聞いたりするのには余裕があります。
部屋に入ったときから砂を落とし続けた砂時計の中には、小さな山ができていたのでした。くぼみを隔てた下には、砂がそのガラスの丸さにあわせて下の方にまるく、そして、落ちる砂を受け続けている山のてっぺんでは、すこし砂がつもると小規模な雪崩を起こして、その裾野を広げようとしているのでした。その形は、水滴が平べったくなったようで、少しおもしろいなと思ったのでした。
彼女は、部屋に引かれている内線で、延長になったことを伝えます。そうして、カラーバックスの中からはじめにおかれた物よりも小さな砂時計を出したのでした。
また、時がはじめから落ちていきます。
彼女と私の間には、またも重い静寂が真綿の壁みたいにできあがったのでした。
彼女が私の部屋で勉強するときの静寂とは違いました。
彼女が私の部屋で勉強しているときは、黙々とシャープペンを動かし、そして、わからないところが出てくると突然「なにこれ!」と叫び、私に声をかけてくるのでした。 その当時は、静かに勉強してくれればじゃまにならないものなのに、と思っていたのですが、今となっては、あのころのように突然大きな声でも出してくれればと半ば願うような気持ちで考えていたのでした。
重い時間は淀み、濁り、そして、その重さで床が抜けてしまうのではないかと思ったのでした。しかし、そんなことはなく、ただ静かに砂時計が落ちていくだけで、まるで真空の中に漂っているような私がいるだけなのでした。
相変わらず、私の口は重い粘土で塗り固められたように堅く閉じ、このまま開かなくなってしまうのではないかと思ってました。このままだと、どんなに力を入れて口を開こうとしてもできなくなってしまうのではないかとも考え、声は出さずとも口だけは開けないかとやってみようかと考えましたが、それはそれで不自然なのでやめようと一人で結論づけたのでした。
全身がじっとりと汗ばみ、、膝の上にへばりついているかのようにおいている拳の中には汗がたまっているのでした。
砂時計のくびれをとおり、砂が流れていきます。きっと砂漠の流砂も鷲の目になり対局から眺めるとこんな感じで、ゆっくりと流れていくのだろうと考えを巡らし、それと同時に砂時計の中の一粒一粒の挙動まで想像しようとして、はたと、現実逃避に走ろうとしている自分に気づくのでした。
私の部屋で彼女が宿題をかたしていた時、その様子を見ながら、彼女もしっかり集中して取り組むことができるのだと感心することがありました。それが、せっぱつまった状態で出た力なのか、それとも天性で持ち合わせていたものをようやく発揮したのかはわかりません。ただ、集中し始めると、そのことに没頭し、私のことなど眼中になくなると言うのはよくあることでした。
彼女はいつものように紙パックのジュースを持ち込み、コンビニでもらったのか長いストローをさして飲みながら宿題をしていました。はじめは、視線だけはノートに保ちながら、顔を紙パックに近づけ飲んでいたのでした。徐々に宿題をするのに乗ってきたのか、ストローをくわえっぱなしにできるように自分の正面に紙パックを置き、両手を少し伸ばして抱え込むような姿勢でノートに書き込んでいたのでした。
ノートづくりには不便な格好だと思ったのですが、本人がそれでよいのなら、となにも言わずに自分の作業を続けていると、いつものトーンで、体がいたーい、と急に声を出し、猫が伸びをするみたいに、背中を伸ばしたり、腕を伸ばしたりしているのでした。
廊下で大音量で流されている店内BGMが部屋の中でも聞こえてきます。この大音量でそれぞれの部屋で行われていることの声や音をかき消そうといういとなのでしょう。私のようにじっとしている分には、その音楽はすこし音量が下がっているだけで、内容は十分にわかるのでした。
この部屋の中では、私と彼女、二人で床に座り、ただただ黙りこくっているだけなのでした。
彼女が急に伸びをします。
ふつうに座っていたのを、背中を伸ばして砂時計の方に顔を向け、その動きのまま腕を伸ばし、足も伸ばしてと、猫のあくびみたいな伸びをしていたのでした。
部屋の中に流れている音楽にかろうじて負けないぐらいの声量で、あの、もうそろそろ時間が、と彼女の声が聞こえたのでした。
おもわす、ええと、それじゃ延長を、と言おうと視線を彼女に向けたところで、彼女から、お金がかかるから延長はやめておいたほうがいいです、と言われたのでした。
私はその声に素直に答えてしまい、静かに二三度うなずき返事をしたのでした。
砂時計は、そのほとんどの砂が下に落ちています。ほんの少しだけ申し訳程度に上に残っている砂を視界のはしで確認して、黙ったまま出てきたのでした。
砂時計 北緒りお @kitaorio
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