最後の夜

のいげる

私の名前は誰でも知っている。だけど私が誰かは知らない。


 扉を入るとそこは薄暗いバーの照明の中だ。

 客は一人しかいない。カウンター席の片隅を選ぶとそこに座りバーテンに酒を注文した。ラム酒を一杯。ストレートで。

 横目でその客の様子を伺う。くたびれた様子のサラリーマンの男だ。まるでその席に百年も座り続けたかのように元気が無い。まあ、無理もないが。

 今日が私の仕事の総仕上げの日だ。長きに渡った仕事がもう少しで完遂するところまで来ている。最後に一杯飲んだとして罰は当たるまい。たぶん。

 バーの照明が薄暗いのは酒を飲むという罪悪感を紛らわせるためだろうか。でも雰囲気は大事だ。煌々と輝る明るい光の中で酒を飲むのには、ちょっとばかり躊躇わせるものがある。

 ラム酒と付け合わせにピーナッツが出た。これはちょっとばかりいただけなかった。長い間放置したかのようにしけっていたのだ。まあ文句を言う筋合いではない。今まで私がこのバーに飲み代を払ったことは一度もないのだから。ここは酒だけいただこう。

 しばらく壁を睨みながら酒を楽しんだ。当然ながらバーテンダーはぴくりとも動かない。客の男は小さな声で何かをつぶやいている。


 ついにグラスが空になったので、私は仕事に掛かることにした。あまり長居をする気はない。

 静かに立ち上がると、バーテンダーにお代わりを要求し、男の隣の席に移動する。

 ここに至ってようやく男に動きが現れた。その顔が上がる。訝しげな表情だ。

「なんだ、あんた。知り合いだっけかな。うむ、思い出せない。最近はちょっと頭がぼんやりしててなあ」

「まあ、そう警戒しないでくれ」私は答えた。「実は古い古い知り合いでね。以前に貴方とは出会ったことがある。覚えていないかな。前は再会を約束して別れたのだが」

 男はしばらく考えこんでいたが首を横に振った。

「すまんな。覚えていない」

「まあ、いいさ。期待はしていなかった。すいぶんと昔のことになるから」

 新たな酒が来た。たぶんこれが最後の一杯になるだろう。ゆっくりと楽しまねば。

「ずいぶん昔と言えば、こんな話を知っているかな?

 1975年のことだ。アメリカの国防省がいきなりデフコン・ワンを宣言した。つまりは最大の緊張状態ということだ。原因はレーダーに映ったソビエトのICBMだった。それはつまり核戦争の開始を意味する。アメリカはただちに報復核攻撃を決定した。すべての核ミサイルのサイロが開き、何千発という核ミサイルが発射準備に入った。当時アメリカとソビエトの核兵器を使えば地球を五十回は破滅させることができると言われていた。

 さて奇妙なことにレーダーに映っていたのはたった一発の核ミサイルだった。ソビエトが全面核戦争を仕掛けて来たにしては余りにも奇妙だったので、レーダー士官が調べてみたところ、何とLSIが故障して偽の光点を作り出していたことがわかった。こうして全面核戦争は未然に防がれたのさ」

「へえ、そいつは危なかったな。で、それが俺と何の関係がある?」

「やれやれ。貴方はまったく面白みの無い奴だな」

 私は嘆息した。そうだ、そうだ、こういう奴だったんだ。だから前回も説得に失敗した。

「関係ならあるぞ。核戦争は未然に防がれた。確かにそういうことになっている。だがな、実はLSIの故障は発見されず、その結果、アメリカが全面核報復の火ぶたを切ったとしたらどうだ。まずアメリカが報復のつもりで核ミサイルを発射する。続いてソビエトがそれに対する報復の核ミサイルを発射する。その結果、地球の表面はすべてごんがりと焼けた」

 男はしばらく考えていた。

「あんたが何を言いたいのかがわからん」

「つまりだ。本当の世界は実はその事故が原因で核戦争をやっていて、とうの昔に滅んでいたとしたら。あまりにも素早く死んだために人々は自分が死んだことに気づかずに、まるで生きているかのように生活していたとしたら。

 どうだね? 貴方と関係があるだろう」

「ええと、何かね。俺は当の昔に死んでいて、ここで死んだことに気づかずに酒を飲んでいると、こう言いたいのか」

「ようやく話が通じたな」

 私は手の中のグラスを回した。氷は入っていないが、グラスもその中の酒もまだ冷たいままだ。

「そういうわけで私はてんてこ舞いさ。こうして一人一人回って地上を去るように説得しているってわけだ」

「そうするとあんたは死神ってわけか。詰まらん冗談だな」男はようやく笑った。

「さてさて、本当に冗談かな。

 私は神なんかではないがね。神さまはもっと上におられる。私はただの使いっ走りだよ。

 実を言えばもうみんな自分が死んだことに気づいて、あちらに行っている。貴方がこの世に残った最後の一人なんだよ」

「最後の一人って、ほら、バーテンダーがいるだろ」

「どこに?」

 男は店内を見回した。先ほどまでいたバーテンダーはいつの間にかいなくなっている。

「このバーもバーテンダーも、貴方を説得するための舞台として私が作りあげた幻なんだ。ここにはもう私と貴方しかいない」

「嘘だ」

「私は嘘を吐かないよ。その証拠にドアを開けてご覧。外には廃墟が広がっているから」

「その手には乗らないぞ。俺がドアを開けたら引っかかったと言って笑うんだろう」

「私はそんな悪い趣味は持っていない」

 私はグラスの中の酒を舐めた。一気に飲んでしまいたいが、まだ早い。

「さあ、ちょっとだけドアを開けて外を覗いて見たまえ。決して笑いはしないから」

「それなら俺の周りのバーを消せばいいじゃないか。そうすれば否が応でも外の廃墟とやらが見えるだろ」

「ドアは自分で開けるのが肝心なんだ。押しつけでは駄目なんだ。自由意志は無視できないものでな」

「俺は信じないよ」

「前もそう言って貴方は開けなかった。だから私は貴方を後回しにした。百年ほどな。だがもう残ったのは貴方だけなんだ。今日は何としてもドアを開けてもらう」

「騙そうたってそうはいかない」

「強情だな、貴方は。ではこうしよう。ドアを開けて外を覗いて見てほしい。代わりに今日の貴方の飲み代を私がすべて肩代わりしようじゃないか」

「その話乗った!」

 やれやれ、現金な奴だ。最初からこうしておけば良かった。

 男は立ち上がるとドアに手をかけた。少しだけ躊躇い、それから意を決してドアを開けた。ドアの外に見たものの衝撃にその顔が固まり、そして今見たものの理解が進むにつれて、徐々に体が薄くなると消え去った。


 最後の仕事はこれで完了。

 私は酒のグラスを手に取ると、用済みになったバーを消した。

 周囲には廃墟と荒野が広がっている。今の時刻は本当なら昼のはずだが、空を覆う分厚い塵のお陰で夜並みに暗い。核の冬というやつだ。後千年はこのままだろう。

 私は椅子から立ち上がった。私が離れると存在意義を失った椅子もまた消える。廃墟の中でただ一人、私はグラスを宙に掲げた。

「仕事が終わった後の一杯は格別。では、消え去った人類へ哀悼の意を表して」

 乾杯とは言わなかった。手を体の前に回して別れの挨拶をすると、残る酒を私はぐいと一気に飲み干す。酒を味わうのもこれで最後だと思うと少しばかり残念だ。

 さようなら。人類よ。

 また次の種族がこの大地に生まれるまで、私は長い長い待機に入る。

 そう長くは待たされないといいが。

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