第27話 悪夢。

 ☆☆☆



 ぼくは今日、小学校には行けなかった。

 お母さんに殴られたお腹や背中のアザが消えてなくて、今日は体育の授業がある事をお母さんは知っていた。


 溜まったままの洗濯物、何も無い冷蔵庫、洗われていない食器。


 お母さんはお化粧をして、お父さんがお仕事に行ってからすぐにどこかに出掛けて行った。


 お母さんには、帰るまでに家事をやっておけと言われていたので仕方なく家事を始める。


 お皿洗いはたいへんだ。

 身長が足りていないから背伸びをし続けないと洗えない。


 足場になる台が無いから、たまにお皿を割ると何度も殴られるから頑張ってお皿洗いをする。


 掃除機をかけるのもたいへんだ。

 クラスのみんなと比べて体が小さいし力がない。

 運動会ではいつも1番前だった。


 掃除機は重たいし、掃除機本体をどこかにぶつけた後を見るとお母さんはやっぱり殴る。


 お父さんや学校の人に見られないようにお腹や背中、太ももなんかをよく殴る。


 お母さんは怖い人だ。

 でもぼくが小さい時はやさしかったから、今はきっとぼくがお母さんのためにお手伝いができないのが悪いんだと思う。


「そうよ直人。全部お前が悪い」


 そう思っていた小さい頃の僕は今思えばどうかしていた。

 ある種の洗脳と言ってもいいのだろう。


「……母さん……」


 いつの間にか背後にいた母さんはぼさぼさの長い黒髪にフリルの付いた派手な色のワンピース。

 30代半ばのはずの母さんにはオシャレなのだろう。


 素足は泥だらけで利き手にはナイフを持っている。

 ナイフから垂れる血がおぼろげな床を穢していく。


 母さんは笑っていた。

 あの時と同じ歪んだ笑みを僕に向けながらナイフを握る手に力を込めていた。


 ふと自分のお腹を見ると血が出ていた。

 痛みは無い。ただ熱かった。


「ッ!!」


 次の瞬間には母さんは僕を押し倒して首を絞めた。

 もう片方の手に握られたナイフの切先は僕の眼に向かっていた。


 のしかかった母さんの片膝が刺されていたお腹の傷を圧迫していて体に力が入らない。

 それでも僕はどうにか向けられたナイフと絞められた首に抵抗していた。


「直人、私の為に死ね。死ね死ね。死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね」


 母さんの眼からは血の涙が流れてきていて、それでも僕を睨み付けながら口元だけは笑っている。


 苦しくて怖い。力の入らない手では母さんの殺意に塗れたナイフを推し返せず、逸れたナイフの軌道は僕の胸に刺さろうとしていた。



 ☆☆☆



「……さん…………義兄…………義兄さん!」


 朝だった。

 びっしょりとかいた汗でシャツは身体に張り付いていて気持ちが悪い。


「……はぁ……はぁ……はぁ……っ?!」


 カーテンの隙間から漏れる太陽の光でうっすらと見える部屋には向日葵がいた。

 目が合ってビクッとしたが、それが向日葵であるとわかるまでに一瞬を要した。


「義兄さん、大丈夫?」


 向日葵は僕の手を握っていてくれていた。

 そしてベッドから起き上がった怯えている僕の背中を摩ってくれていた。


 さっきのが夢だと気付けたのは摩ってくれて落ち着き出してからだった。


 それでも怖くてシャツをめくってナイフが刺さっていないか確認した。


 11歳の頃に刺された傷は成長と共に少しづつ移動しているが、それ以外は古傷のまま。血は出ていない。


 向日葵に「ありがとう」と言おうとしたが、声が出なかった。


 向日葵に握られていない方の手で顔の汗を拭った。

 昨日の父さんの話を聞いてからの影響が夢に出てきたのだろう。


 しばらく見ていなかった夢は15歳の今の僕に再び恐怖を与えるには十分過ぎた。


「義兄さん……大丈夫だよ」


 頭を抱えて床を見ていた僕を向日葵は抱きしめた。

 子供をあやすように向日葵の胸に埋もれた。


 みっともない姿。

 出会ってから兄としてなるべく振舞っていたのに、このザマだ。


「義兄さん、大丈夫。わたしがそばに居るよ」


 義妹に頭を撫でられ、慰められている自分は相当にか弱く見えるのだろう。

 それでも、向日葵の優しい熱が心地良く思えた。


「……向日葵……ありがと……」

「……うん」


 僕はみっともなく向日葵にしがみついた。

 精神が一気に小さい頃に戻ってしまったように脆くなった。


 もう長らく誰かに甘えた覚えなんてない。

 それもこんなにみっともなく。

 それでも泣きはしなかった。


 泣いたのはあの時の母さんの歪んだ顔を見た時以来泣いてない。

 それだけが僕の成長と思えた。


 4年経っての成長がそれだけでしかないとも言えるが。


「……もう少しだけ……このままでいいか?……」

「いいよ」

「……ありがとう……」


 向日葵の胸の柔らかさが心地よい。

 朝勃ちもしない僕にはどんな枕よりも心地が良い。


 僕は考えた。

 僕を殺そうして殺人未遂事件を起こした母さんが刑務所から出てきたのが去年の今頃だった。


 その母さんが親父との復縁を求めて再び暴れ始めて精神病院に入った。


 おじいちゃんたちがどうにか頭のイカれた母さんを管理していたから親父はストーカー被害にも合わずに済んだが、精神病院から抜け出して行方をくらました今、何をするかわからない。


 引越も再婚時にしているから早々に住所を知られる事はないだろうけど、対策を考えておかなければいけない。


「向日葵、ありがとう。落ち着いた」

「うん」


 優しく微笑む向日葵に僕は安心した。


「普段はわたしが頼ってばっかだし甘えてばっかだけど、たまにはね」


 なにがあったとか、どんな夢を見たとか、そんな事を聞くでもなくただ受け入れてくれた向日葵。


 それはきっと向日葵自身も抱えるものの辛さを知っているからなのだろう。

 それでも僕を抱き締めてくれた向日葵に僕は敵わないなと思った。


「……そうだな。今度甘える時は向日葵に膝枕でもしてもらおう」

「ふふっ。それもいいけど義兄さん、学校」


 時計を見るとかなり時間が無いことに気がついた。


「汗もかいてるし、シャワー浴びてご飯食べないとだよ」

「……やっばい」


 僕は慌てて立ち上がってドアノブを回した。


 そのまま部屋を出ようとして、向日葵の方を振り返った。


「あ、向日葵。おはよう」

「ふふっ。おはよ。お義兄ちゃん♪」


 気恥ずかしくなったので僕は逃げるように風呂へと急いだ。



 その後僕は遅刻3秒前に教室に着いた。

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