第11話 一人が眠って そして誰もいなくなった


 列車が止まる衝撃でそれまで壁にもたれ掛けさせていた体が前に倒れて、それでようやく目が覚めた。体がひどくだるく、心臓が何かの手につかまれているかのように痛んだ。たった今まで恐ろしい悪夢を見ていたのか、この列車の中の寒さにも関らずに体が寝汗でびっしょりと濡れているのが判った。体というのは現金なもので、目が覚めてみると今度は寒さで震えが止まらなくなった。

 どうやら列車は目的地に着いたらしい。車両の扉を僅かに開けて左右を見渡すと、思った通りに列車は駅についており、駅の建物の向こうに大きな都市らしきものが見て取れた。苦労して標識を見つけ出すと、ここが間違い無く敵国の首都であることが判ったので、私はそっと列車を抜け出した。当然あるべきはずの車両の検閲も無く、駅員の目を盗んで駅の雑踏の中に紛れ込み外に出ると、奇妙にこの街は騒がしく、そして平和だった。

 しばらく駅の案内板を調べた挙げ句、どうしても見つからずに業を煮やして何人かの通行人に尋ねた後に、ようやく軍司令部の所在地を見つけ出した。なまりのある奇妙な風体の人間が軍司令部の場所を聞き回っていたなどという噂が広まる前にと、私は聞き出した場所へ向かって早足で歩いた。着いて見るとそれは実に巨大な建物で、建物の壁そのものは直接に爆撃されても大丈夫なように重い丈夫な石材で構築されていた。小さい窓がその石の壁の中に並び、所々に突き出した通風孔から、朝の冷たく澄んだ大気の中に微かに白い蒸気が吹き出していた。この建物こそ、この戦争の一方の中心であり、また今ではこの国と我が国を合わせた中でも最も安全な場所であると言える。最前線はすでに我が国の首都へと移り、反撃の望みは今や私一人なのであるから。

 まさかこんなに無茶な計画が進行しているとは、命令を下した一部の人間を除けば敵味方を問わず誰も知らないはずで、その一部の人間に限ったとしてもグスニーオ要塞守備隊は全滅したと考えているのは間違い無く、そのためかどうかは判らないが、建物の周囲に配置されている警備員はそれほど多くは見えなかった。

 いざ、ここまで来て見ると、敵司令官の暗殺などという行為がまるで夢物語に思われて来て、それに加えてたった一人で周囲はみな敵というこのような状況に立ってみると、必死の覚悟で来たはずの私の勢いがたちまちにして萎えてしまうのを感じた。

 どこから侵入すればいいのかということを、敵軍司令部の建物の正面にある公園の中のベンチに座ってぼんやりと考えている内に、これではまるで巨大な象に挑む蟻と同じだなという思いが心の中にわいて来て、あまりの事態の馬鹿馬鹿しさに今度は戦術を考える気も失せてしまった。一人で万軍に対抗できる戦術などというものがあるのならば、戦争で負ける人間は誰もいなくなる理屈だ。現実はそんなに甘くは無い。

 いつまでもここにいるわけにいかず、また冷たい風が容赦無く残り少ない私の体温を奪って行くのに音を上げて、正面から敵の司令部を訪ねてみようと決めた。捕まるにしろ殺されるにしろ、少なくとも熱いお茶の一杯ぐらいは死ぬ前に貰えるかも知れない、そんな思いが頭の中を掠めた。

 胃がさらにきりきりと痛み始め、どうせこれが最後だからと薬を全部飲み込んで薬瓶を空にすると、私は意を決して軍司令部の建物の中へと足を踏みいれた。

「そこで止まって下さい。身分を証明するものをお見せ願います」

 歩哨が喋りながら近づいて来ると私の前に立った。

 しばらくポケットを探る振りをした後、どううまく演技しても騙し通せる道理は無く、そもそも手持ちの拳銃一丁で厳重な警備を強行突破できるはずも無いと考えて、これだけは隠し持っていたグスニーオ要塞守備隊隊長の身分証明書を出して男に見せ、軍司令官に会いたい旨を申し付けた。歩哨はしばらく考えた末、司令部内部に連絡を取り、私が内心驚いたことに司令部の中へと案内してくれた。身体検査をされた時にはひやりとしたが、拳銃を納めて腰に巻いていたはずのホルスターはどうやら目が覚めた時に列車の中に落として来てしまっていたことに気付き、この幸運に少しばかり気を良くした。今まで大事な拳銃を無くしたことにも気付かないほど興奮していたのかと思うと、これでも自分は軍人なのかと少しばかり情けない気分にもなったが、それよりもどうやって、いや、何を使って敵司令官を暗殺すれば良いのかとも心配になり、最後に果たして自分は敵司令官を本当に殺したいのかどうかと考えているのに気付いて茫然とした。

 よくよく考えて見れば、自分は軍人ではあるが今まで人を殺したことが無いことに気付き、改めてどっと冷や汗が吹き出した。人を殺し、殺される、それを前提とした軍隊生活が嫌だったからこそ、薬を飲むようになり、それ故にこそグスニーオ要塞へ配属されることになったのではないか。どうして今までこの事実を忘れていたのだろうと不思議に思う一方では、自分はあれほど無残な部下の死を取り乱すことなく平然と見て来たのであるから、きっと敵司令官の暗殺も眉一つ動かすでもなく実行できるのではないかとも思った。

 軍司令官の部屋への続き部屋に案内されると、そこのソファーの上に座って待つようにと指示され、そのまま一人そこに取り残された。

 ドアの横では司令官の秘書を務めているに違いないわし鼻の青年が夢中でタイプライターを打っている最中で、彼は私に監視の目を向けようともしなかった。

 私には何がどうなっているのか判らず、きっとどこかでひどい誤解があったのだなと思っている内に、久しぶりに柔らかい敷物の上に座ったことと、程よく暖房された暖かい部屋の空気のお陰で、猛烈な眠気が私に襲いかかって来た。それはこれから人を殺さなくてはならないという緊張感を覆ってあまりあるもので、実を言えば今まで体験したことの無いほどの激しい眠気であった。ここで最後の仕事を目の前にして寝込んでしまうなどというのはもちろん問題外の行動であり、私は必死に目をこすりながら何とか意識を保とうと努力した。この眠気が先ほど大量に飲んだ薬のせいであるという認識が頭の隅に浮かんだが、それも眠気との戦いに忙殺されて消え去った。

 とにかく、拳銃が無い以上、どうやって軍司令官を殺すのかが最も重要な問題であり、それには何か重たいもので頭を殴るのが最も手っ取り早いと結論した。尖った物があればもっと良いのだがと考えた所で、床に落とした視線の先に尖った金属が見えた。それは良く磨かれた如何にも切れそうな古風な剣の先であり、視線でその元をたどってみると、目の前に立派な金属製の騎士の鎧が置かれていることに気付いた。敵軍司令官の趣味の置物であろうか。良く磨かれた剣は今回の目的にぴったりであった。

 私は秘書の注意を引かないように静かに手を伸ばすと、その剣が取り外せるものかどうかそっと引っ張った。剣は重く、そして私の動きに抵抗した。

 鎧が動いて初めて、それが実は置物などでは無く、中身の詰まった騎士そのものであることに私は気付いた。それはグスニーオ要塞の幽霊騎士だった。恐怖に痺れた私の手の中から剣が離れると上にあがり、そして私の首筋へと触れた。頚動脈のすぐ上に。

 そうして、その幽霊騎士は人間のものでは在り得ない静かな声で私に語りかけた。

「帰ろう。グスニーオ要塞へ。汝が役目は終わった。

 我が剣と我の持つ天より授かりし権利により、汝をグスニーオの守護騎士に任命する。

 騎士の高潔な魂の如く、心正しく務めよ。行い正しく務めよ」

 それから騎士は剣を私の左右の肩に交互に当てると剣を鞘に納め、その代わりに金属の小手をはめたままの手を差し出して来た。

「帰ろう。素晴らしきグスニーオ要塞、我等が麗しの住処へ。

 今の時期のグスニーオは雪に覆われ、冬の静かな白のきらめきの中に永遠の静寂を広げている。その美しさこそ、グスニーオの本質。

 やがて吹雪の風に乗って、遥かな昔から我等の故国を狙っている敵達が時を駆け抜けてやってくる。我等は共に冬の戦いを行わなくてはならぬ。過去、現在、未来、あらゆる時に渡って永遠に行われ続ける戦いを。

 グスニーオが陥落すれば、我が故国の命運は尽きる。

 今も、そしてこれからも、我々だけが真の敵から故国を護ることが出来るのだ」

「そうです。隊長。帰りましょう。グスニーオへ」

 いつの間にか、幽霊騎士の横に立った私の部下の一人が言った。

「要塞を護ることこそが、我が国の守りの要である!」

 赤い顔をした軍事顧問が怒鳴った。

「帰りましょう。隊長。我々はここには不要な存在です。我々の居るべき場所はグスニーオ要塞だけです」

 もう一人の部下が私の手を取ると立たせた。

「懐かしのグスニーオへ。さあ、帰りましょう」



 ドアが勢い良く開いた。一枚の書類を手にした軍司令官が怒りながら出て来た。

「ええい。君。この降伏文書の写しは誤字だらけでは無いか。これを党本部に送れと言うのか。政治家どもがこれを見て私に何と言うか、君に想像がつくか?

 それに日付が間違っているぞ。日付が。あの国が降伏したのは先週の木曜日のはずだぞ」

 そこまで怒鳴ってから、ソファーに倒れこむようにして眠っている、擦り切れた服を着込んだ惨めな男に気付いた。その容貌はどことなく骸骨を連想させた。

「これは誰だね。今日は面会の予定は無いはずだが」

 書類を受け取りながら、自分が責められたことにどぎまぎしながら秘書が答えた。

「受け付けの話によるとグスニーオ要塞の隊長だそうです。司令官のお仕事が終わるまでは誰も邪魔してはならないとの命令でしたので、ここで待っていて頂いたのですが」

「グスニーオ要塞だと?」

 軍司令官は一瞬、ぎょっとして目を剥くと、慌てて自室に戻り、拳銃を持って引き返して来た。

「馬鹿者。君の物知らずにも限度がある。グスニーオ要塞というのは敵の要塞だ。

 そう言えば、そこの守備隊は戦争中に何か特殊な作戦に送り込まれて全滅したと聞いていたが」

 秘書に命じて警備兵を呼ばせると、司令官はそっと手を伸ばしてソファーの上の男を探った。それから、銃を構えて走って来た警備兵に慌てるなと手を振って合図すると、自分の手にした拳銃の安全装置を元に戻した。

「心配無い。死んでいる。どうやら心臓麻痺だな」

 それから司令官は男の服から取り出した薬瓶を目の前に持ち上げるとそのラベルを読んだ。

「これが原因だな。分量を間違えると危険な薬のはずだ。医者の注意を守らなかったのか」

「あるいは何かの抗議のつもりでここで自殺したのでしょうか?」秘書が言った。

「そうかも知れんな」軍司令官が答えた。



 グスニーオ要塞は建造以来、一度も敵に落とされたことの無い不敗の要塞である。グスニーオ要塞の作りは堅固で、天然の地形をうまく利用した、要塞としては実に優れた構造を持っている。しかし現在のグスニーオ要塞は主要な交通路から外れ、あくまでも辺境の守りという程度の意味しか持ってはいない。数々の伝説に彩られたグスニーオ要塞にもやがてはただの遺跡に過ぎなくなる日がやってくるのであろう。

 だがそれは、まだもう少しばかり先の話である。

 今でもそこには守備隊が駐在し、国境を守り続けている。グスニーオ要塞の崩れ掛けた北の塔には、深夜になると遥か昔の戦いで死んだ騎士の幽霊が出るとも伝えられている。また、風の無い蒸し暑い夜には前の戦争で死んだ兵士達が酒盛りをしている姿が見られることもあると言う。男達の人数はきっかり十人である。

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十人のインディアン のいげる @noigel

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